「鏡華ちゃんと言うのは、準優勝者の月峰鏡華さんのことでしょうか?」
「はい、そうです」
「お二人は、普段から仲がいいんですか?」
ひかりは少し考えてから、笑顔で続ける。
「友達とか、仲がいいとか、そういうのとはちょっと違うんですけど。憧れの人なんです。
ずっと隣に鏡華ちゃんがいたから、私はここまで来ることが出来ました。辛い時、苦しい時、鏡華ちゃんも頑張ってるんだって思うと、勇気をもらえたんです」
それからひかりはケガをしていること、治療に向けて少し休養を取ることを話していた。前回はケガのことは話していなかったはずだが、それより鏡華はさっきのインタビューの内容に、開いた口がふさがらなかった。
愛梨は興奮した様子で鏡華に話しかける。
「ひかりさん、鏡華さんのことを憧れの人だって言ってましたね!」
「いやいや……ないでしょ、憧れる部分とか」
困惑していると、当のひかり本人がちょうど廊下を歩いてくる。
「あ、鏡華ちゃーん、お疲れ様。鏡華ちゃんもインタビューだって、テレビ局の人が探してたよ」
鏡華は彼女をつかまえて問いただした。
「ちょっとあんた、さっきの何なのよ!?」
「見てたの? 照れるなぁ」
相変わらず気の抜ける声で話す女だ。
「あのね、お母さん、来てくれたんだー」
「あっそう、それはよかったわね」
「うん。ずっとお父さんに、私と会うのを止められてたんだって。でもこれからは、電話とかしてもいいって」
「そうなの。よかったわね。って、そっちじゃないわよ! あたしのこと、あれ、どういうつもり!?」
鏡華の様子を見て、ひかりは嬉しそうに頬を緩ませる。
両手でぎゅっと鏡華の手を包んで言った。
「鏡華ちゃん、本当にありがとう。鏡華ちゃんは、ずっと私の憧れの人だから」
「だから、それが分かんないのよ。憧れ? あたしが? あたしなんかより、ずっとあんたの方が……」
ひかりは天使のように純粋な笑みで、鏡華に羨望の眼差しを向ける。
「鏡華ちゃんは覚えてないかもしれないけど。私ね、この学校に入学したばかりの頃あった発表会で、主役を任されて。
分からないことだらけだし、同じクラスの子にも、私は主役に相応しくないって悪口を言われたり、嫌がらせされたりしてたんだ。
実際その通りだって思ったし、本番の直前、すっごい怖くて。震えが止まらなくて、やっぱり辞退させてくださいって言おうと思って。
そうしたら演技が終わったばっかりの鏡華ちゃんが、私のことを見て、『主役なら堂々としなさい!』って、叱ってくれたんだ」
ひかりは一気に喋り終わると、頬を赤くして嬉しそうに続ける。
「あの時はまだレッスンでもほとんど一緒になったことがなかったけど、あの一言に、すっごく勇気づけられたの。それから私、辛いことがあったら、ずっと鏡華ちゃんの言葉を思い出して、頑張ってたんだ」
その言葉に、顔が熱くなる。
確かにそんなことを言ったかもしれない。
「別に、励まそうとか思ってないし。ただ、主役なのに暗い顔してるのにイライラして怒鳴っただけよ」
「うん、それでもいいの。ありがとうって、ずっとお礼が言いたかったんだ。やっと言えた!」
……あぁ、ひかりの笑顔って、やっぱりキラキラしてる。
ひかりなんて、大嫌いだけど。
だけど、こいつの笑顔が自分に向いているのは、悪くない。
そんなことを考えていると、全身が眩い光に包まれ、飲み込まれた。
□
再び目を見開いた時、鏡華は白露庵に戻っていた。
鏡華がぼぅっとしていると、愛梨が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「鏡華さん、大丈夫ですか?」
「……戻ってきたのね」
鏡華は顔にかかった髪の毛をかきあげ、ぽそりと呟く。
「ひかりに負けたから、過去に戻った意味がないって思ったけど……」
「満足出来ませんでしたか?」
しゅんとした様子の愛梨に、鏡華は不敵に笑いかけた。
「ううん。何も変わってないようで、色々変わった気がする」
「鏡華さん! よかったです!」
鏡華は満足そうに目を細めた。
「ありがとう。あんたのおかげで、その……これからも、頑張れそうよ」
「はいっ! 私、鏡華さんのこと、ずっと応援しています!」
鏡華は胸を張り、堂々とした姿で店を出て行った。
愛梨は彼女が成長したのを目にし、嬉しさでいっぱいになった。
きっと鏡華さんは、これからもっと素敵なバレリーナになる。そう考えると、思わず顔がほころんだ。
鏡華の背中を見送る白露が、光の玉をつまみ上げ、満足げに口に運んだ。
□
それから数年後、愛梨は何となく見ていたテレビ番組で、ひかりと鏡華の姿を目にすることになる。
彼女たちが二人とも、日本を代表する世界的なバレリーナとして活躍していると知るのは、もう少しだけ先の話だ。
「愛梨ぃ、今日の帰り一緒にカラオケ行かない?」
放課後、帰り支度をしていた私はりっちゃんから声をかけられた。
私は両手を合わせ、申し訳ないと思いながら頭を下げる。
「ごめん、今日はバイトなんだー」
「えー、またバイトなのぉ?」
その会話を聞いていた優歌が、つまらなさそうに口を尖らせる。
「愛梨バイトいれすぎじゃない? 最近全然遊べてないじゃん」
「そうそう。ほぼ毎日行ってるじゃん。何か欲しい物でもあるの?」
りっちゃんと優歌は仲の良い友達だ。学校にいる時は、たいてい三人で行動している。放課後も二人の部活がない時は、一緒に遊びたいのだけれど……。
困ったな、と思いながら頬をかく。
「うーん、特に何か欲しいってわけでもないんだけど、楽しくてやってるから」
会話を切り上げて帰ろうとしたが、二人は仕事の内容に興味を示したようだ。
「そういえば愛梨のバイト先の話って、あんまり聞いたことなかったよね」
私は頭の中で声を大にして叫ぶ。
だって話せるわけないもん!
「何のお店?」
「えっと……」
過去に戻れる思い出の料理を出す、不思議なお店で働いています。店長は狐のあやかしです。
うん、やっぱり言えるわけがない。信じるわけないしね。
二人に嘘をつくのは申し訳ないし、元々隠し事が苦手なので、なるべくバイトの話には触れたくない。
「飲食店?」
「あ、うんそう。飲食店だよ」
「ファミレス? 駅前にもたくさんあるよね」
「ファミレスとは違うかな。個人でやってる、もうちょっと小さな料理屋さんなんだ」
「へー、アットホームな感じ?」
「う……ん、そう、かなぁ」
思わず疑問系になってしまう。
白露さんとアットホームという単語は、まったくもって結びつかない。
南極とハワイ、みたいな。むしろアットホームから一番遠い場所にいるのが白露さんという感じさえする。
「店、どこらへんにあるの?」
「えっとぉ……」
実はあの店がどこに存在しているのか、私自身もよく分かっていない。
少なくとも、行こうと思って普通の人間が気軽に行ける場所ではないことは確かだ。
「いつからバイトしてるの?」
「一年の時かな。入学した年の夏ぐらいに通い出したから」
そう答えると、りっちゃんが声を弾ませた。
「そうなんだ。じゃあ今度、私達も連れて行ってよ!」
「うん、機会があったら。といっても、基本的に予約でいっぱいになっちゃうんだ」
「えー、残念。今度はバイトのない日、一緒に遊ぼうね!」
「うん、ごめんね。また明日」
やっと会話が終わったので、私はほっとして教室を出る。
二人に嘘は吐きたくないのに、言えないことばかりが増えていくのは少し後ろめたい。
学校から駅までの道は、なだらかな坂になっている。
天気のよい空を見上げながら、目を細めて考える。
改めて考えると、不思議な話だ。
どうして自分のような何の特別な特技もない人間が、白露さんのようなイレギュラーさしかない人の店で働いているのだろう。
私はいつも、白露さんに貰った指輪をネックレスに通し、首からかけている。
これがないと、あの店に辿り着くことが出来ない。
私は白露さんのことを考えながら、手のひらでぎゅっと指輪を握って目を閉じる。
するとさっきまでの街の喧噪が、一瞬にして消え去った。
再び目を開いた時、私は青々とした竹林の中にいた。太陽にはまだ昼の明るさが残っている。
どこまでも背を伸ばす竹を見上げながら、ほぅっと息をつく。
この場所は綺麗だけど、何度来ても少しだけ怖い。
ちょっとでも気を抜くと、まるで自分の存在すらあやふやになって、霧に交じって消えてしまいそうな感じがする。
歩く度にチリン、チリンと鈴の音が追いかけて来る。
この竹林の道、そしてその向こう側にある朱塗りの橋は、こちらの世界とあちらの世界を繋ぐ境目らしい。
こちらの世界というのが私が普段暮らしている世界だとして、あちらの世界というのは一体どんな場所なのか。私もハッキリ理解しているわけではない。
それでも自分が住んでいる場所と、確かに違う場所だということは知っている。
もし白露さんに貰った指輪をなくしてしまうと、私は元の世界に戻れなくなり、一生二つの世界の狭間をさまようことになってしまうらしい。
それを想像すると、背中がぶるっと寒くなった。
首からかけた指輪をぎゅっと強く握りしめながら、朱塗りの橋を渡る。
実際に迷子になったことはないけど、こんな何一つ分からない場所で迷ってしまったら、すごく怖いと思う。
それなのに、どうして私はここに来てしまうんだろう。
考えながら歩いているといつものように白露庵の店の明かりが見えて、自然と駆け足になった。
それに今日は珍しく、白露さんが橋の前で佇んでいる姿まで見えた。
「白露さん! 迎えに来てくれたんですか?」
白露さんは基本的に、自分の店から出ない。
仕事以外の用事で彼が出歩くのを、私はほとんど見たことがない。
だから白露さんがこの辺りを歩いているのは、非常にレアだ。
私には白露さんの私生活がどんな感じか分からないし、謎が多い。だけど、彼が出不精なことはよく知っている。
私のことを見つけても、白露さんはさして興味がなさそうだった。
「別に貴方を迎えにきたわけではありません。何となく、散歩したい気分でしたので」
「そうですか。もうお店に戻りますか? それとももうちょっと散歩します?」
白露庵には、開店時間も閉店時間もない。白露さんの気分で開いたり閉めたりする。自由な店だ。
白露さんは金色の瞳で遠くを見つめながら、静かに頷いた。
「店に戻りましょうか。雨も降り始めたようですし」
言われて空を仰ぐと、太陽が出ているのに細い雨がしとしとと降り出していた。
「天気雨……こういうの、狐の嫁入りって言うんでしたっけ。雨なんて、珍しいですね」
こちら側にいる時、雨が降るのを見たことはほとんどない。
白露庵の周囲の気候は安定しているから、てっきり雨など降らないのだと何となく思い込んでいた。
私は白露さんの隣に並び、彼を見上げながら声をかける。
私の顔は、ちょうど白露さんの肩くらいの位置にある。白露さんは相変わらず着物姿で、ゆらりと歩いていた。
光で銀色に輝く髪の毛が、綺麗だと思う。
「今日はどんなお客様が来るんでしょうか?」
「さて、どんなお客様でしょうね。でも雨が降り始めましたから、もしかしたら今日は誰も来ないかもしれません」
白露さんの言葉には、何か含みがあるような気がした。
「そんなこともあるんですか?」
「さて、どうでしょう?」
こうやって質問をかわされるのにも、もう慣れた。
白露さんの真意が分からないのは、いつものことだ。
店につくと、私はいつものように和風の制服に着替え、店の掃除をする。
毎回慣れている作業なので、十五分くらいであっという間に終わってしまった。
掃除は好きだ。
別に掃除をしろと言われたことはないし、そもそも毎日店に来いと言われているわけでもない。むしろ「そんなにしょっちゅう来なくてもいいんですよ。暇なんですか、あなたは」なんて言われてしまう。
それに友達にはバイトだと言ったけれど、別にここで働くことで、お給料を貰っているわけでもない。完全に私の趣味のようなものなのだ。
多分白露さんに「もう来ません」って言っても、平気な顔で「そうですか」って言われて、引き止められもしないだろう。そうなるのは悲しいしちょっと悔しいので、二度と来るなと言われるまではしつこく通うつもりだ。
白露さんは店の表にある長椅子に座って、雨が降る様子をしっとりと眺めている。
今は誰もいないので、ふわふわの大きな白い尻尾と白い狐耳も出しっぱなしだ。
それに触ると、ぬいぐるみなんかよりももっとやわらかくて気持ちがいいことを、私はよく知っている。
触ってみたいなぁ、でもダメかなぁ、とうずうずしながら白露さんに声をかけた。
「お客さん、来ませんねぇ」
「だから来ないかもしれないと言ったでしょう」
「白露さん、何か飲みますか?」
問いかけると、白露さんは嬉しそうに唇を持ち上げた。
「おや、珍しく気が利きますね。それでは、梅昆布茶を作ってくれますか?」
「はい、分かりました」
そう言うだろうなと思っていた。
白露さんは梅昆布茶が好きなのだ。
私は慣れた手つきで食器棚から湯飲みを二つ取り出す。自分と白露さんの分だ。
まず最初に湯を沸かす。
湯が沸くまでの間に、梅干しを炎で炙って少し焦げ目をつけた。
お湯が沸いたら湯飲みに緑茶を入れ、三センチくらいに切った塩昆布を数枚と、先ほど炙った梅干しを投入する。
正しい作り方なのかは分からないが、これが白露さんの好きな梅昆布茶の作り方だ。
二つの湯飲みを小さな盆に乗せ、ついでに戸棚にあった豆大福をわしづかみにして何個か持っていく。一応店の手伝いをしているのだし、たまにこういう役得があってもいいだろう。お茶があると、一緒に甘い物が食べたくなる。
「お待たせしました」
お茶を持っていくと、白露さんは嬉しそうに湯飲みを受け取った。
私も白露さんの隣に座り、湯気があがる茶をちびちびと飲んだ。
口の中に塩と梅の酸っぱい味が広がる。
口が酸っぱくなったので、中和するために豆大福をパクリと頬張った。
「はぁー、あまーい、おいしー、しあわせー」
蕩けるような顔になった私を見て、白露さんは呆れたように茶をすする。
「あなたはすぐに幸せになれて、簡単でいいですね」
「はい、お菓子があれば私はいつも幸せですよ」
青々とした竹の葉が、雨粒が落ちる度に弾んでいる。
私は今日学校であったことを思い出し、話してみた。
「そういえば、今日友達に聞かれたんです。このお店のこと」
「へぇ。それで狐のあやかしと一緒に働いているということを話したんですか?」
「まさか。言いませんよ。言っても信じてくれないでしょうし」
ずっ、とお茶をすすって、目を閉じる。
「でも、不思議ですよね。そういえば私、どうしてここに通い出したんでしたっけ?」
まだ一年そこらしかたっていないはずなのに、白露さんと出会った時のことを思いだそうとすると、記憶がいまいち不鮮明だ。
□
白露さんと私が初めて会ったのは、私の住む街の駅前でだった。
半袖の制服を着ていた。夏休みだけど、課外授業の帰りだった。
小雨が降っていて、夏なのに少し肌寒かったことを覚えている。
信号待ちをしていた私は、横断歩道の向かい側に和服姿の男性を見つけ、珍しいと思いながら彼を見つめる。
深い紫色の羽織の下に、漆黒の着物と白い袴。
そして着物姿の男性よりもっと珍しい、真っ白で大きな尻尾と、明らかに獣の耳。
……えっ!? 何!? 仮装!?
信号が青になっても、しばらくその場から動くことが出来ず、その場に縫い付けられたように立ち止まって、彼を眺めた。
しかもおかしなことに、彼の近くを行き交う人は、まったく彼に注意を払わない。
まるで、その姿が私にしか見えていないように。
真っ白な彼の顔は、陶器のようにつややかだった。きれいな人だと思った。
普通の人間とは思えないくらいに。
そこまで考えて、私はやっぱり彼は人間じゃないのかな、と複雑な気持ちになる。
――人成らざるもの。
その言葉を教えてくれたのは、おばあちゃんだった。
子供の頃は、よくそういうものが見えた。小学生の頃は田舎の山の方に暮らしていたので、顕著だった時は一日に会う人間の数より、そういう人成らざるものを見ることの方が多かったくらいだ。
例えば幽霊とか、妖怪とか、幻獣とか。
私の年齢があがるにつれて、だんだんそういうものも見えなくなっていった。
けれど、今でもたまにふっと見えてしまう時がある。
どんなに周囲に人がたくさんいても、どんなに上手に擬態していようと、不思議とそれらは私の目を惹く。
にしても、こういうのを見るのは久しぶりだなぁ。
しばらく眺めていても、他の人が彼に気付く様子はない。
やはり私にしか見えていないのだろう。
どうしようかと考えていると、彼の長い睫毛が瞬いて、金色の瞳が真っ直ぐに私を見つめた。
まるで頭の向こう側まで貫くみたいな、弓のような視線だ。
私は吸い寄せられるように彼に向かって歩みだし、横断歩道を渡る。
そしてどうしてか懐かしい気持ちになり、胸の奥がふわりとあたたかくなった。
……あれ? 私はこの人と――昔、どこかで会ったことがある?
以前もこんな風に、彼に見つめられたことがある。
気が付くと、すぐ目の前に狐耳の男性が立っていた。
私は反射的に問いかけた。
「私、あなたとどこかで会ったことがありますか?」
すると彼は眠そうな目をして、帯にさしていた扇子を開き、口元に当てた。
「あなた小娘のくせに、ずいぶん古いナンパの手口を使うんですねぇ」
「ナンパじゃありませんっ!」
誤解された!
決して気のせいではないと思う。
いつだっただろう。確かに昔、こんな風に見つめられたことがあったのに。
必死に記憶を辿ると、自分の奥底に眠っていた鍵の掛けられた扉が、軋む音を立てながら開いた気がした。
□
愛梨は小学一年生の頃、鎌倉に住んでいた。
鎌倉といえば観光地として有名だが、愛梨の家がある地域は郊外から離れた、山に面した場所だった。とにかく自然が豊かだった。
愛梨は夏休みになると、毎日近くの山に登り、虫を捕ったり珍しい花を眺めたりして楽しんだ。
山は子供たちの遊び場だった。
水筒と弁当を持って、毎日飽きもせず、山で遊んだ。
特に山の中程にある、青々とした竹林に囲まれた場所は愛梨のお気に入りだった。
どこまでも伸びる青い竹は美しく、空気さえ清らかに澄んでいる感じがした。
赤い花の蜜を吸いながら歩いていると、山の途中にある石の上に、緑色の男が座っているのが見えた。
通り過ぎようとした愛梨は、緑!? と思って振り返る。
男の背中には、大きな甲羅のようなものまである。
愛梨がじっと彼を見つめていると、男はおや、という顔をした。
それからにやりと笑うと、のそのそと歩いて行って、川を見つけるとそこに頭からとぽんと飛び込んだ。
愛梨が驚いて男の姿を追うと、男は水かきのついた手を動かして、すいすいと泳いでいく。途中、一瞬得意げな表情で愛梨に笑いかけて、また泳いでいった。
それが河童だということも、愛梨は知らなかった。
正体が何かは分からずとも、この年頃の愛梨にはいつもそういうものが見えた。
山道で同級生の三人組を見つけたので、愛梨は緑色の男のことを興奮気味に打ち明けた。
「あのね! さっき、緑色の人を見つけたんだよ! その人、川を泳いで行ったんだよ!」
それを聞いた少女たちは煙たそうに顔を寄せ、一斉に愛梨を非難する。
「絶対嘘だから!」
「愛梨ちゃん、まーたそうやって嘘ついてる!」
「愛梨ちゃんは嘘ばっかり!」
「嘘じゃないよ。本当にいるんだよ。背中に甲羅がついてたんだよ!」
小学一年生といえど、女の子というのは幼い頃からけっこうしっかりしている。
いつまでも幻想的なことを信じる子供ばかりではなかった。
「あたしたちのこと騙して、怖がらせようとしてるんでしょ! 行こう、もう愛梨ちゃんとは遊ばないから!」
そう言って、少女の一人が愛梨のことを突き飛ばした。
愛梨は地面に尻餅をついて、歩いていく少女たちの後ろ姿をさみしそうに眺めた。
こんなことが続いたから、愛梨にはほとんど友達がいなかった。