祖母の手紙から視線を前に戻し、菜乃華は改めて神田堂を見る。ガラス戸には黒い文字で、大きく『神田堂』と記されていた。

 ただし、ガラス戸は擦りガラスとなっていて、外からは中の様子を窺い知ることができない。父はここに来れば『瑞葉』という人物に会えると言っていたが、これだけ静かだと中に人がいるのかさえも怪しく思えた。

 何となくすぐに入って行く勇気が持てず、とりあえず一歩下がって建物の全景を見渡した。神田堂は、二階建てで住居兼お店といった感じの建物だ。そこら辺は、ここのえ商店街にある商店と変わらない。築年数が計り知れないほど年季の入った建物だが、住人の手入れが行き届いているようで、ボロいとは感じられなかった。住人から愛され、大切にされていることがよくわかる佇まいだ。

 建物の外観を見ただけでも、『瑞葉』という人の人となりが垣間見える気がする。きっと真面目で、情の深い人なのだろう。まだ見ぬ相手ではあるけれど、不思議と好感が持てた。
 もっとも、お店として見た場合には、やはり賑わいそうには思えない。どちらかというと経営難に直面していそうで、思わず苦笑してしまった。

 と、その時だ。

「――そこのお前、こんなところで何をしている。人間の娘がどうやってここまで来た」

「きゃっ!」

 不意に横合いから声を掛けられ、菜乃華は悲鳴を上げながら飛び上がった。誰もいないと思って油断していたから、驚きは普段の三割増しだ。そのまま思い切り尻餅をついてしまった。

「いたた……」

「…………。……あー、その……大丈夫か?」

 まさか、ここまで大袈裟に驚かれるとは思っていなかったのだろう。声の主が、やや戸惑った様子で菜乃華に問い掛けた。

 その質問に「平気です」と答えながら、菜乃華は声の主を見上げ……目に飛び込んできたその姿に言葉を失った。

 そこに立っていたのは、菜乃華よりも少し年上――二十歳くらいと思われる青年だった。サファイアのように澄んだ切れ長の蒼眼と絹のように艶のある黒髪を持つ、まるで最高級品の人形のように端正な顔立ちだ。それに、モデルのように背が高くてスタイルも良い。おそらく菜乃華よりも頭一つ分は高いだろう。

 その均整の取れた体を包んでいるのは、父が着ているのと似た感じの白の小袖と浅葱色の袴だった。その出で立ちもあってか、アイドルのようにかっこいいのではなく、美術品のように美しく神々しいと感じられる。

「すまない、驚かせるつもりはなかったのだ。立てるか?」

「あ……その、ありがとうございます」

 青年が差し出した手を、呆然としながら握り返す。肌理細やかだが男らしい力強さも感じる手に引っ張られ、立ち上がる。

「どうやら、怪我はないようだな」

「は、はい! その、丈夫なのが取り柄なので!」

 微笑む青年から後光が差しているような気がして、菜乃華の背筋がこれでもかというくらい伸びる。そこで自分が土まみれになっていることに気が付き、慌ててスカートの裾をはたいていった。
 その姿を青年は苦笑交じりに見ていて、菜乃華の頬は林檎のように赤くなった。

「大丈夫か。髪にもついているぞ」

「うそ! ど、どこですか?」

「後ろを向け。取ってやる」

 すごすごと後ろを向くと、菜乃華の背の中ほどまで届く長い髪に、青年の手が触れた。青年は菜乃華の髪が傷まないよう丁寧に土埃を払っていく。

 後ろを向いて髪を任せている菜乃華は、恥ずかしいやらどこかうれしいやら。赤い顔のまま両手の指を絡めたりしつつ、大人しくしている。

「よし、取れた。もういいぞ」

「は、はい。えっと……ありがとうございました!」

 振り向き様に頭を下げ、勢いよくお礼の言葉を述べる。
 すると、菜乃華の頭の上から、青年が朗らかに笑う声が聞こえてきた。

「気にするな。尻餅をつかせてしまったのは、私の責任だからな」

「いえ、そんな。私が必要以上に驚いてしまっただけですので……」

 顔を上げた菜乃華が、神田堂を背にした青年を見上げる。今更ながら気付いたが、青年の後ろで神田堂のガラス戸が開かれたままになっていた。どうやらこの青年は、神田堂の中から出てきたようだ。

 それを意識した瞬間、菜乃華の頭の片隅を、何かが駆け抜けた。今はもう思い出せない記憶の切れ端が、菜乃華の胸の内を通り過ぎていく。

『――わかった、やくそくする!』

 心の内に木霊するのは、幼き日の自分の声だ。なぜだろうか。懐かしいような、温かいような……。そんな不思議な感覚が、菜乃華を満たした。

「それでは話を戻すが、君は何者だ。人の子が、どうやってここに入って来た」

「……え?」

 青年の声が、菜乃華を現実へ引き戻す。

 同時に、懐かしい感覚や幼き日の声は、心の奥に消えていった。今の菜乃華には、もはやその感覚の尻尾を攫むことさえできなかった。

 今の不思議な気持ちは、なんだったのだろうか。どこか後ろ髪引かれるような気分になりつつ、心の中で首を捻る。

 ただ、今は思索に耽っている場合ではない。菜乃華は用向きを尋ねる青年へ向かって、たどたどしく口を開いた。

「わたし、ここの店主をしていた神田サエの孫でして……。実は先日、お祖母ちゃんが亡くなって、遺言でわたしがこのお店を引き継いだんです。だから、ここの店員をしているという瑞葉さんにご挨拶を、と思いまして……」

「私に? いや、それよりもサエの孫ということは……お前は菜乃華か?」

 青年が切れ長の目を見張って、菜乃華のことをまじまじと見つめた。
 同時に菜乃華の方も目をまん丸にして、震える人差し指で青年を指差しながら、確認するように口を開いた。

「あ、あの……もしかして、あなたが瑞葉さんなんですか……?」

「いかにも、瑞葉は私だ。神田堂の店員として、長く世話になっている」

 なぜだかまたもや苦笑しつつ、青年が肯定した。

 まさか件の『瑞葉』がこんな美形の青年だとは思っておらず、菜乃華が絶句する。

 いや、これまでの経緯から、予想して然るべきだったかもしれない。なぜならこの青年は神田堂から出てきて、菜乃華に「こんなところで何をしている」と訊いてきたのだ。立ち振舞いから神田堂の客には見えないし、ならばこの青年は神田堂の関係者以外にありえないだろう。
 加えて、神田堂に店員が二人いるという話も聞いていない。状況証拠だけなら、彼は『瑞葉』以外にあり得ない。

 ただ、菜乃華としては、『瑞葉』は祖母と同年代の老人と思っていたのだ。父も「長年苦楽を共にしてきた親友」と言っていたし。

 それがまさか、蓋を開けてみれば直視できないほどの美青年だ。サプライズもいいところである。年頃の女の子としてうれしいという以上に、相手のレベルが高過ぎて気後れしてしまう。

 この青年と一つ屋根の下でお仕事をするなんて、緊張し過ぎて心臓が持たないかもしれない。暴れ回る心臓を押さえるように胸に手を置きながら、菜乃華は十七歳にして心臓発作になることを本気で危惧した。

「なるほど、君が菜乃華というなら、ここに来られたことも得心いった。サエをはじめ、神田家の人間は結界の対象から外してあるからな」

 菜乃華が胸の鼓動を押さえつける傍らで、青年――瑞葉が何やら呟きながら納得顔で頷いている。

 もっとも、軽くテンパり気味の菜乃華に、彼の台詞を吟味していられる余裕はない。何か気になる言葉があった気がするが、すぐに頭からすっ飛んでしまった。

 そんな菜乃華を微笑ましそうに見つめ、瑞葉はさらにどこか愉快そうな調子で呟く。

「この子が、あの菜乃華か……。随分と大きくなったものだな。人の世の時が経つのは、早いものだ」

「あ、ええと、なんでしょうか!」

 名前を呼ばれた気がして、慌てて訊き返す。
 すると瑞葉は、「いや、何でもない」と軽く首を振った。

「ともあれ、事情はわかった。君のことはサエ――生前の君の祖母からも話を聞いている。彼女の後を継ぐと決めてくれたこと、店員として私からも感謝する。どうもありがとう」

「い、いえ、そんな! わたし、まだこのお店について何も知らなくて……。何ができるのかわかりませんけど、よろしくお願いいたします」

 折り目正しく頭を下げる瑞葉に対し、菜乃華も慌てふためいた様子でお辞儀を返す。これでは、どちらが店主でどちらが店員かわかったものではない。

「さて、それではまずこの店について説明しなければならないな。それと、君の店主としての役割についても。それなりに長い話になるし、中で話そうか」

「はい! お願いします、瑞葉さん!」

「そんなに畏まらなくてもいい。君は店主なるのだ。店員である私に対しては、敬語も敬称も不要だ」

「はい、わかりました! ……あ。う、うん、わかった」

 咄嗟に敬語が出てしまい、菜乃華が恥ずかしそうに俯きながら言い直す。瑞葉に対してフランクに接するには、もう少し練習が必要そうだ。
 肩を丸めて小さくなった菜乃華は、「そのうち慣れるさ」と言う瑞葉の後について、神田堂へと足を踏み入れた。