瑞葉が、再び遠くを見つめるようにしながら語り出す。あの日のサエの笑顔と言葉を、瑞葉は今でも鮮明に思い出すことができた。
『今、この人の世で本の付喪神を助けられるのは、あたしだけなんでしょ? だったら、あたしのこの力を、うちの土地神様の代わりに本の付喪神の役に立てたい。そのために、あなたの力を貸してくれない?』
そう言って手を差し伸べられたサエの手を、瑞葉は何の迷いもなく握った。サエならば、きっと多くの付喪神を助けることができるはず。サエの友として接してきた瑞葉には、そんな確信があったからだ。
そして同時に、瑞葉はサエのこの提案が自分を変えるチャンスになると考えていた。
幸い、サエたちには店として使える土地と建物はあった。婿養子であるサエの夫、つまりは菜乃華の祖父の生家だ。菜乃華の祖父の両親は、九重町で不動産屋を営んでいた。ただ、祖父は祖母と結婚して間もなく両親を事故で亡くしており、その生家は空き家となっていたという。
しかも、九重町が商店街の発展と共に区画が整備された結果、祖父の生家はいつの間にか、今の迷路のような路地の奥に入ってしまった。おかげでここは、売ろうにも売れない資産となってしまったわけだが……これが偶然にもサエと瑞葉にとって好都合となっていた。
「何度も言ってきたことだが、我々神格を持つ者は、人との和を乱すことなく生きることを己に課している。故に、この場所は我々にとってこの上ない立地条件だったのだ」
付喪神たちが安心して来られるように、人目につきにくい場所。けれど、付喪神は元々、人から大切にされた道具に宿る神だ。だから、人の活気も感じられる場所。路地の奥で人は来ないが、すぐ近くに人が行き交う商店街がある祖父の生家は、そんな条件を満たした稀有な場所だったのだ。
土地の持ち主である菜乃華の祖父も、サエの考えを理解し、快く建物を提供してくれたという。
『八百万の神々のお役に立てるのなら、これほど喜ばしいことはない』
それが、神職として祖父がサエと瑞葉に掛けた言葉だったらしい。自分が生まれる前に亡くなった祖父のことを、菜乃華は粋な人だったのだなと思った。
「店を開いた当初は、ほとんど客が来なかった。けれど、次第にサエの噂が広がっていってな。ちらほらと、付喪神たちが頼ってくるようになったんだ」
ただの人間と敵が多い付喪神が作った店だ。順調な滑り出しとはいかなかった。
それでもサエは、たまに来る客の本を直しながらあれこれ話をして、瞬く間に自分の味方にしていった。少し馴れ馴れしいが、気風が良くて底抜けに明るい。そんなサエの人柄に、どんな付喪神もいつの間にか懐柔されてしまったのだ。
周囲に敵ばかり作っていた瑞葉からすれば、まるで手品でも見ているみたいな心地だった。もっとも、それを成し遂げていた本人は、単に付喪神と話をするのが楽しいだけだったようだが。
「サエの味方が次々増えていく様には、私も舌を巻いた。まあ、口コミが大事なのは、人の世界も神の世界も変わらないということだな」
「お祖母ちゃん、友達を作るの得意だったからなあ。適材適所ってやつだったんだろうね」
「嬢ちゃん、嬢ちゃん。一応言っておくとな、この店の宣伝にはオイラも一役買ったんだぜ。本の付喪神に会う度に、神田堂のことを紹介したもんさ」
唐突に口を挟んだ蔡倫が、胸を張る。
蔡倫が初めて神田堂を訪れたのは、店を開いて間もなくのことだ。どこで聞きつけたのか、全国行脚から戻った彼は突然ふらっと神田堂に現れたのだ。
神田堂を気に入った蔡倫は、そのままちょくちょく顔を出すようになった。そんな彼に連れられて神田堂にやってきた付喪神は、数知れない。そう、蔡倫こそ神田堂の名を世に広めた影の功労者なのだ。
得意げなサルの坊さんを前に、瑞葉も感謝するように「そうだったな」と笑った。
「店を開いて十年も経つ頃には、神田堂の名は付喪神たちの間に知れ渡った。以来、ここは付喪神たちが集ってくる場となったのだ」
瑞葉は、心穏やかに言葉を紡いでいく。
この五十年、本当にたくさんの付喪神が、この店を訪れた。それは、怪我を直してもらいに来た本の付喪神だけではない。家具の付喪神や道具の付喪神、その他の神々も、ただサエと話すためだけに、神田堂へやってきた。
なぜならみんな、妙に気安く、太陽のように明るい店主のことが好きだったから。
サエが夢見た、怪我をした本の付喪神を助ける町医者、神々と一緒に生きていくための店――。
神田堂は、見事にその目的を果たしたのだ。
そして、店主が代替わりした今も、そんな神田堂の理念は変わることなく生き続けている。他でもない、サエの意思と力を引き継いだ菜乃華の手によって守られているのだ。
瑞葉は、親友と同じ目をした最愛の少女を見つめた――。
* * *
「これが、私とサエの出会いから、現在に至るまでの物語だ。満足してもらえたかな、店主殿?」
「うん! 瑞葉の過去にはちょっと驚いたけど、すごく素敵なお話だった。ありがとう」
満ち足りた面持ちで、菜乃華は大きく頷いた。特に後半、神田堂ができた辺りは想像以上に素敵な物語で、大満足である。それに、自分が目指すべき店主像というものが、よりはっきりと見えた気がする。菜乃華にとって、何よりも大きな収穫だ。
と同時に、店の壁時計が午後六時を知らせる鐘を鳴らした。
「ふむ、ちょうど時間だな。今日の仕事はここまでだ」
「そうだね。じゃあ、わたし、今日はこれで帰るね」
「あ、それなら僕らも、そろそろお暇します」
菜乃華が帰り支度を始めると、柊もこたつの中からクシャミを引っ張り出して抱き上げた。クシャミはこたつが恋しいのか、「な~む」と少し不機嫌そうに鳴いている。こたつを出してきてからというもの、これも見慣れた光景だ。
湯呑みは瑞葉が洗っておいてくれると言うので、お言葉に甘えておく。柊たちを伴って店のガラス戸を開けた菜乃華は、居間にいる瑞葉たちの方を振り返った。
「瑞葉、蔡倫さん、また明日!」
「それじゃあ、失礼します」
「ああ、気をつけて帰れよ」
「じゃあな、嬢ちゃん。ついでに柊たちも。車に気を付けろよ」
店の奥から、瑞葉と蔡倫が手を振ってくる。
二人の付喪神に手を振り返して、菜乃華は柊たちと共に夕暮れの路地を歩いていった。
『今、この人の世で本の付喪神を助けられるのは、あたしだけなんでしょ? だったら、あたしのこの力を、うちの土地神様の代わりに本の付喪神の役に立てたい。そのために、あなたの力を貸してくれない?』
そう言って手を差し伸べられたサエの手を、瑞葉は何の迷いもなく握った。サエならば、きっと多くの付喪神を助けることができるはず。サエの友として接してきた瑞葉には、そんな確信があったからだ。
そして同時に、瑞葉はサエのこの提案が自分を変えるチャンスになると考えていた。
幸い、サエたちには店として使える土地と建物はあった。婿養子であるサエの夫、つまりは菜乃華の祖父の生家だ。菜乃華の祖父の両親は、九重町で不動産屋を営んでいた。ただ、祖父は祖母と結婚して間もなく両親を事故で亡くしており、その生家は空き家となっていたという。
しかも、九重町が商店街の発展と共に区画が整備された結果、祖父の生家はいつの間にか、今の迷路のような路地の奥に入ってしまった。おかげでここは、売ろうにも売れない資産となってしまったわけだが……これが偶然にもサエと瑞葉にとって好都合となっていた。
「何度も言ってきたことだが、我々神格を持つ者は、人との和を乱すことなく生きることを己に課している。故に、この場所は我々にとってこの上ない立地条件だったのだ」
付喪神たちが安心して来られるように、人目につきにくい場所。けれど、付喪神は元々、人から大切にされた道具に宿る神だ。だから、人の活気も感じられる場所。路地の奥で人は来ないが、すぐ近くに人が行き交う商店街がある祖父の生家は、そんな条件を満たした稀有な場所だったのだ。
土地の持ち主である菜乃華の祖父も、サエの考えを理解し、快く建物を提供してくれたという。
『八百万の神々のお役に立てるのなら、これほど喜ばしいことはない』
それが、神職として祖父がサエと瑞葉に掛けた言葉だったらしい。自分が生まれる前に亡くなった祖父のことを、菜乃華は粋な人だったのだなと思った。
「店を開いた当初は、ほとんど客が来なかった。けれど、次第にサエの噂が広がっていってな。ちらほらと、付喪神たちが頼ってくるようになったんだ」
ただの人間と敵が多い付喪神が作った店だ。順調な滑り出しとはいかなかった。
それでもサエは、たまに来る客の本を直しながらあれこれ話をして、瞬く間に自分の味方にしていった。少し馴れ馴れしいが、気風が良くて底抜けに明るい。そんなサエの人柄に、どんな付喪神もいつの間にか懐柔されてしまったのだ。
周囲に敵ばかり作っていた瑞葉からすれば、まるで手品でも見ているみたいな心地だった。もっとも、それを成し遂げていた本人は、単に付喪神と話をするのが楽しいだけだったようだが。
「サエの味方が次々増えていく様には、私も舌を巻いた。まあ、口コミが大事なのは、人の世界も神の世界も変わらないということだな」
「お祖母ちゃん、友達を作るの得意だったからなあ。適材適所ってやつだったんだろうね」
「嬢ちゃん、嬢ちゃん。一応言っておくとな、この店の宣伝にはオイラも一役買ったんだぜ。本の付喪神に会う度に、神田堂のことを紹介したもんさ」
唐突に口を挟んだ蔡倫が、胸を張る。
蔡倫が初めて神田堂を訪れたのは、店を開いて間もなくのことだ。どこで聞きつけたのか、全国行脚から戻った彼は突然ふらっと神田堂に現れたのだ。
神田堂を気に入った蔡倫は、そのままちょくちょく顔を出すようになった。そんな彼に連れられて神田堂にやってきた付喪神は、数知れない。そう、蔡倫こそ神田堂の名を世に広めた影の功労者なのだ。
得意げなサルの坊さんを前に、瑞葉も感謝するように「そうだったな」と笑った。
「店を開いて十年も経つ頃には、神田堂の名は付喪神たちの間に知れ渡った。以来、ここは付喪神たちが集ってくる場となったのだ」
瑞葉は、心穏やかに言葉を紡いでいく。
この五十年、本当にたくさんの付喪神が、この店を訪れた。それは、怪我を直してもらいに来た本の付喪神だけではない。家具の付喪神や道具の付喪神、その他の神々も、ただサエと話すためだけに、神田堂へやってきた。
なぜならみんな、妙に気安く、太陽のように明るい店主のことが好きだったから。
サエが夢見た、怪我をした本の付喪神を助ける町医者、神々と一緒に生きていくための店――。
神田堂は、見事にその目的を果たしたのだ。
そして、店主が代替わりした今も、そんな神田堂の理念は変わることなく生き続けている。他でもない、サエの意思と力を引き継いだ菜乃華の手によって守られているのだ。
瑞葉は、親友と同じ目をした最愛の少女を見つめた――。
* * *
「これが、私とサエの出会いから、現在に至るまでの物語だ。満足してもらえたかな、店主殿?」
「うん! 瑞葉の過去にはちょっと驚いたけど、すごく素敵なお話だった。ありがとう」
満ち足りた面持ちで、菜乃華は大きく頷いた。特に後半、神田堂ができた辺りは想像以上に素敵な物語で、大満足である。それに、自分が目指すべき店主像というものが、よりはっきりと見えた気がする。菜乃華にとって、何よりも大きな収穫だ。
と同時に、店の壁時計が午後六時を知らせる鐘を鳴らした。
「ふむ、ちょうど時間だな。今日の仕事はここまでだ」
「そうだね。じゃあ、わたし、今日はこれで帰るね」
「あ、それなら僕らも、そろそろお暇します」
菜乃華が帰り支度を始めると、柊もこたつの中からクシャミを引っ張り出して抱き上げた。クシャミはこたつが恋しいのか、「な~む」と少し不機嫌そうに鳴いている。こたつを出してきてからというもの、これも見慣れた光景だ。
湯呑みは瑞葉が洗っておいてくれると言うので、お言葉に甘えておく。柊たちを伴って店のガラス戸を開けた菜乃華は、居間にいる瑞葉たちの方を振り返った。
「瑞葉、蔡倫さん、また明日!」
「それじゃあ、失礼します」
「ああ、気をつけて帰れよ」
「じゃあな、嬢ちゃん。ついでに柊たちも。車に気を付けろよ」
店の奥から、瑞葉と蔡倫が手を振ってくる。
二人の付喪神に手を振り返して、菜乃華は柊たちと共に夕暮れの路地を歩いていった。