秘密の神田堂 ~本の付喪神、直します~ 【小説家になろう×スターツ出版文庫大賞受賞作】

「ねえ、瑞葉。せっかく時間もあるんだしさ、昔の話を聞かせてよ」

「昔の話?」

 瑞葉が首を傾げる。
 すると、背筋を伸ばした菜乃華が、「うん、そう!」と勢い良く頷いた。

「瑞葉はさ、どうしてこの店の店員をすることになったの? というか、どうやってお祖母ちゃんと出会ったの? あと、この店ってどうやってできたの?」

 菜乃華の口から飛び出したのは、ずっと前から気になっていた疑問の数々だ。何となく訊きそびれていたけれど、実はすごく気になっていた質問の山を、菜乃華は矢継ぎ早に瑞葉へぶつけた。

「なんだ、いきなり。そんなこと聞いてどうする」

 一方、いきなり色々と訊かれた瑞葉は面食らった様子だ。人形のように整った顔に、困ったような表情を浮かべた。菜乃華に告白して以来、瑞葉はより一層表情が豊かになったと思う。

「別に理由なんかないよ。ただ、前から気になっていただけ」

 興味津々といった面持ちで、瑞葉に答える。好きな人が歩んできた、自分にもつながる過去なのだ。理由がなくても知りたいに決まっている。
 そして、菜乃華に行動に乗っかる者が、ここにはもう一人いた。蔡倫だ。

「そいつは、オイラも気になるねぇ。お前さん、オイラが日本中を行脚している間に、気付いたらここの店員になっていたもんな。瑞葉、ちょっくらそこら辺の経緯(いきさつ)ってやつを聞かせてくれや」

 蔡倫は、にやにやと楽しむように瑞葉を見る。

 菜乃華と蔡倫によって卓袱台の両脇から見つめられ、瑞葉が無言のまま目を剥いた。間髪入れない蔡倫の援護射撃は、かなりの効果があったらしい。
 この機を逃すまいと、菜乃華もすぐさま次の行動に出る。

「ねえ、瑞葉。わたしは神田堂の店主だよね。このお店の一番偉いんだよね!」

「ああ、そうだが……」

「だったら、わたしにはお店の歴史を聞く権利はあるんじゃないのかな? だって、お店で一番偉い人がお店の来歴を何も知らないって、やっぱり変でしょ」

「いや、確かにそうかもしれないが……」

 神田堂の店主という立場を利用した第二撃だ。瑞葉は真面目な店員故、この手の理由を持ち出されると弱いことを菜乃華は知っていた。実際、普段は理路整然と駄目なことは駄目と言う瑞葉が、今は逡巡している。

 ここが決め所だ。菜乃華は、切り札を使う。

「お願い! 教えて、瑞葉」

 両手を合わせ、拝むように瑞葉を見つめる。
 最後はド直球に頼み込む。これが切り札だ。
 菜乃華からここまで頼まれたら、瑞葉は断らないと思う。というか、断らないでほしい。

 なお、逆の立場なら菜乃華は確実にここで折れる。瑞葉から頼み込まれたら、断り切れない。というか、力の限り頑張って応える。

「……わかった。確かに、ちょうど良い機会ではあるしな。私の過去の所業を含め、いつか語らねばならないものであるし、私も腹をくくろう」

 そして瑞葉も深く息をつきながら、ここで降参してくれた。瑞葉の返答内容が少し妙な感じだったが、以心伝心、愛の力の勝利である。

 ちなみに、これで断られていたら……たぶん、かなり悲しかっただろう。相変わらず面倒くさい上に重たい女だ、と自分で思うが……。ともあれ、勝手に落ち込んで勝手に泣くという失態を犯さずに済んで良かった。

「そうこなくっちゃな。んじゃ、サクッと聞かせてもらおうか。お前さんの恥ずかしい過去話ってやつをな」

「自戒すべきことだらけだとは思っているが、恥かしいとは言っていない。ふざけたことを抜かしていると、店からたたき出すぞ、蔡倫」

 にたにたと笑う蔡倫へ、瑞葉が鋭い眼光を向ける。
 けれど、蔡倫はそんな眼光一つで怖気づくほどやわではない。むしろ、さらに笑みを深めるばかりだ。瑞葉も不毛な行為だと感じたのか、すぐに嘆息して、一度お茶をすすった。

「まあ、正直に言って少しも面白い話でもないのだがな。とりあえず、サエとの出会いを語る前に、前提となる話をしておこうか。私と九重の土地神の出会いについてだ」

 湯飲みを卓袱台に置いた瑞葉は、何の気ない様子で過去を語り始めた。

「あれは、もう三百年くらい昔の話だ。当時、私はとある事故で自分の本を破損してしまってな。大怪我を負った私は、偶然、九重の土地神に拾われたのだ」

 瑞葉の視線が、過去を思い出すように宙を彷徨う。

 彼の言によると、九重の土地神は傷ついた瑞葉を見つけるや否や、強引に彼を九ノ重神社――当時は小さな祠だったらしい――へ連れ帰ったらしい。そして、神の御業で瞬く間に瑞葉の本体を直してしまったそうだ。

「三百年前の私は、まだ付喪神になりたてでな。助けてもらったことに感謝しつつも、強引に連れ帰られたことに反感を覚えて、随分と無礼な振る舞いをしてしまった。以来、申し訳なさが先に立って、この地に立ち寄ることはできなかった」

 今でも申し訳ないと思っているのか、瑞葉が肩を落とす。

「ふーん。瑞葉にも、思春期みたいな時代があったんだね」

 瑞葉の肩を落とす様が可愛くて、悪いとは思いつつも、菜乃華はくすくすと笑ってしまった。同時に、はねっ返っている頃の瑞葉を見たことある気がしたが、そんなはずはないと頭から打ち消した。

「今の言葉で表すなら、私の黒歴史といったところだ。何はともあれ、この出来事があって、私は九重の土地神のことを知ったわけだ」

 菜乃華に同調するように、瑞葉もおどけた様子で続ける。菜乃華としては、瑞葉が『黒歴史』なんて言葉を使ったことに、失礼ながら少し驚いた。そういう若者言葉みたいなのは、あまり好きではなさそうなイメージだったから。

 そんなどこか微笑ましい前提が終わり、ここからはいよいよ祖母と瑞葉の出会いだ。一体どのような出会いだったのかと、胸踊らせて瑞葉が続きを語り出すのを待つ。
 ただ、対する瑞葉はそれまでと打って変わり、真剣な面持ちで菜乃華を見据えた。

「さて、ここからが本題になるわけだが……予め言っておく。菜乃華、この話を聞き終わった時、君は私のことを軽蔑するかもしれない」

「軽蔑? どういうこと?」

 菜乃華が訝しげな口調で問い返すが、瑞葉は答えない。代わりに彼は目を閉じ、深く息を吸う。まるで、菜乃華から嫌われることがあっても自制心を保てるよう、心の準備をしているようだ。
 そして、ゆっくりと目を開いた瑞葉は、改めて菜乃華の疑問に答えるように口を開いた。

「九重の土地神との出会いから時は流れ、五十年前。私はサエと出会った日に、一つの許されざる過ちを犯してしまった」

「許されざる……過ち?」

「……仲間である付喪神の本体を、破壊してしまったのだ」

「え……?」

 突然の告白に驚き、菜乃華が息を呑む。
 そんな彼女の前で、瑞葉は沈痛な面持ちで自らの罪を告白し始めた――。
 当時の瑞葉は、四角四面の本当に融通の利かない付喪神だった。神としての在り方を重んじ、それから少しでも外れる行いをする者があれば、例え自分より高位の神格を持つ者であっても、少しの容赦もなく責め立てる。相手にいかなる事情があろうと、関係ない。人と神の和を乱す者は、やむにやまれぬ理由があろうとも許さない。そういう純粋過ぎるまでに高潔な神だったのだ。

 そんな瑞葉の行いは、確かに正しかったのだろう。実際、瑞葉が堕ちた神の暴走を止めたことは、一度や二度ではない。それらの功績により、瑞葉は最低の神格しか持ち合わせない付喪神でありながら、高位の神に劣らぬ存在と目されていた。

「だが、当時の私は『神としての振る舞い』にこだわり過ぎていた。そして、正しさを重視するあまり、相手の心が見えていなかった」

 自身の行いを反省するように、瑞葉が淡々と語る。

 瑞葉は正しかったが、正し過ぎた。明らかに正しさが限度を超えていた。故に瑞葉は、周囲から畏怖され、敬遠されていた。恐れもせずに近付いてきたのは、古い馴染みである蔡倫くらいだ。
 そして同時に、瑞葉の苛烈なまでの高潔さは、少なくない数の同族から反感を買っていた。瑞葉の言動が引き金となり、争いが発生することなどざらであった。

 だから、その日の口論も、瑞葉にとってはいつもと変わらないもののはずだったのだ。
 きっかけはささいなことだ。人間の子供に遊びで神力を披露していた付喪神を、瑞葉が見咎めた。それだけであった。

「その付喪神は、子供たちを楽しませたかっただけだった。無論、その方法として神力を使ったのは、今でも間違っていると思っている。……ただ、それを窘めるにしても、やり方はいくらでもあったはずなのだ。頭ごなしに否定して彼を罵り、子供たちを追い返した私も、正しい行いをしたとは言い難かった」

 冷徹な目をした瑞葉に恐れをなし、子供たちは泣いて逃げ去った。そして、瑞葉の行いに対し、件の付喪神は怒(いか)った。

 自分の行動が軽率だったのはわかった。それについての非は認める。だが、子供たちを恐がらせる必要はなかったはずだ。悪いのは軽率な自分一人であって、あの子たちに罪はない。あの子たちに謝ってくれ。

 付喪神は怒りのままにそう言い募ったが、瑞葉はそれを『必要ない』の一言で一蹴した。
 いや、それだけではない。

『むしろ、好都合だ。これであの子供たちも、ここで見たことを吹聴することはしないだろう。これ以上、神と人の和が乱れることはない』

 当時の瑞葉は表情一つ動かさず、躊躇いなくそう言い放った。瑞葉にとっては、これが合理的な判断だったからだ。だが、これが相手の付喪神にとっての決定打になった。

 付喪神の怒りは頂点に達し、彼は瑞葉に掴み掛った。しかし、その付喪神はお世辞にも荒事が得意と言えそうにない、ひ弱な風貌の優男だった。数々の神と対峙してきた百戦錬磨の瑞葉からすれば、正に隙だらけの突貫である。少しいなしただけで、付喪神の体は瑞葉の後ろへ抜けていった。
 ただ、そこで一つ、瑞葉も予期していなかったことが起こった。

「……相手の付喪神が、私の背後にあった崖から転げ落ちていったのだ――」

 すべてが瑞葉たちにとって悪い方向に働いた。二人が対峙していたのは小高い丘の上であり、瑞葉の背後は切り立った五メートルほどの崖となっていた。相手の付喪神は、勢い余ってその崖に突っこんでしまったのだ。

 事態に気付いた瑞葉も急いで手を伸ばしたが、間に合わない。付喪神は、崖の向こうに消えた。

「慌てて崖の下へ降りてみれば、そこに付喪神の姿はなかった。あったのは、彼の本体と思われる、破損した本だけ……」

 本を破損すれば、付喪神は怪我をする。破損が大きくなれば怪我は重くなり、場合によっては付喪神としての姿を保てなくなる。付喪神の姿が消えたということは、彼の命が風前の灯火になっていることの現れだった。

「起こってしまった現実を直視して、私はようやく自分の傲慢さに気が付いたよ。相手を一方的に責め立てるだけだった私は、正義を振りかざす自分に酔っていただけだった。正論を盾にして、自分本位に振る舞っていた。私自身も、神としての自覚に欠ける者の一人だった、とな」

 当時の自分を振り返り、瑞葉が自嘲的な笑みを浮かべる。

 壊れた本を前にして、当時の瑞葉は立ち尽くした。相手が堕ちた悪辣な神であったなら、彼は何の躊躇いもなく自業自得と切り捨てていただろう。だがこの付喪神は、少なくとも自分の非を認めていた。それをわかっていながら、瑞葉はこの付喪神に対し、さらに追い打ちをかけてしまった。自分の側からの合理性だけを押し通し、相手の心情を思いやることができなかった。その結果として、こんな事故を起こしてしまった。

 本を抱きかかえた瑞葉は、すぐにその場を後にした。頭に浮かんだのは、九重の土地神のあっけらかんとした笑顔だ。ばつが悪いなんて言っている暇はない。今は、自分の未熟さで傷付けてしまったこの付喪神を救うことが先決だ。
 疾風のごとくいくつかの町を駆け抜け、瑞葉は二百五十年ぶりに九ノ重神社へとやってきた。

「ただ、そこに土地神の姿はなかった」

 瑞葉は語る。立派な社殿が建った九ノ重神社からは、あの土地神の存在を感じ取ることができなかった。祭神である、より高位の神による加護は感じられるものの、そこはすでに九重の土地神の社ではなくなっていたのだ。

 これは、当時の瑞葉にとって大きな誤算だった。当てが外れた瑞葉は、壊れた本を抱えたまま、その場で膝をついてしまった。

 九重の土地神がいないとなれば、もう頼れるのは高天原の神だけだ。しかし、次に高天原への門が開くのは、数か月後。せめて応急処置の一つでもできなければ、その神のもとに辿り着く前に、件の付喪神の命が尽きてしまうだろう。
 そうなれば、自分のせいで傷付いてしまった付喪神を救うことができない。自身の本が傷付いた時とは比べ物にならない痛みが、瑞葉を襲った。

 だがその時、おかしなことが起こった。ふと、九重の土地神と似た気配を感じたのだ。膝をついたままの瑞葉が呆然と振り返ると、そこには小さな男の子を連れた一人の女性が立っていた。

「……それがサエと、まだ幼かった洋孝だった」

 ずっと辛そうに顔をしかめていた瑞葉が、ふわりと表情を和らげる。

「あとはもう、頭で考えるより先に体が動いていてな。私は、藁にも縋る思いでサエの前に跪いた。目を丸くするサエに、力を貸してくれ、と頼み込んだのだ」

 九重の土地神と似た気配を持っているといっても、相手は明らかに人間だ。当時の瑞葉であれば、このようなことは絶対にしなかっただろう。

 しかし、この時の瑞葉にとって、その女性の存在は絶望の中で見た一筋の光だった。

 唐突に助けを求められても、気味悪がられるだけかもしれない。いや、仮に協力を得られても、彼女には何もできないかもしれない。それでも、今は彼女に賭けるしかない。諦めかけていたところに現れた最後の希望に、瑞葉は全身全霊をかけて助けを乞うた。

 それに対する彼女の返答は、本当に単純なものだった。

『なんだかよくわからないけど、わかったわ。あたしに任せなさい』

 瑞葉に顔を上げさせた彼女は、どんと胸を叩きながら気楽に笑ってみせた。そう、かつての九重の土地神のように……。

 状況は予断を許さないままであったが、瑞葉の絶望感は自然と薄らいだ。きっと何とかなる。そんな根拠のない確信が、瑞葉の中に満ちていったのだった――。
「恥ずかしい話だが、サエに真っ先に救ってもらったのは、実のところ私だったのかもしれないな。彼女の笑顔で、当時の私がどれだけ心休まったことか……」

 そう言う瑞葉の表情は、本当に心穏やかなものだった。

 菜乃華は思う。当時の瑞葉は、それだけ祖母の存在に助けられたということだろう。
 もっとも、そんな安らいだ面持ちの瑞葉の口から別の女性のことを語られるのは、菜乃華としても少し面白くない。相手が祖母とはいえ……いや、大好きな祖母だからこそ、強くジェラシーを感じてしまうのだ。
 なぜなら、祖母がどれだけ素敵な人であったかは、孫である菜乃華自身が一番よくわかっていることだから。

「それで、お祖母ちゃんに協力を得られた後はどうなったの?」

「サエは本の修復について素人だったので、私が指示をしながら本の応急手当だけしてもらった。予感はあったが、実際に本が直っていく様を見た時は驚いたものだ」

 当時の驚きを思い出したのか、瑞葉が懐かしそうに目を細める。神の御業を人間が再現してしまったのだから、それはもう当の神様も驚愕の奇跡だったのだろう。

 なお、応急処置を受けた件の付喪神は、ひとまず一命と取り留めたらしい。その後、高天原の門が開いた際に向こうで本格的な修復を受け、無事に全快したそうだ。

「――以上が私とサエの出会い、そして私の未熟さが招いた事件の顛末だ」

 過去語りを一度区切り、瑞葉が菜乃華の様子を窺う。
 瑞葉の表情は、いつもと変わらない。だが、纏っている雰囲気からは、若干だが不安のようなものが感じられた。

「どうだろうか、菜乃華。やはり、君を落胆させてしまっただろうか」

「うーん、そうだね……。とりあえず、昔の瑞葉って怖かったんだな、とは思ったかな」

「……そうか」

 菜乃華の率直な感想に、瑞葉はどこか弱々しい笑みを浮かべた。菜乃華の「怖い」発言が、相当効いたようだ。

「でも、軽蔑や落胆はしてないよ。だって、私が好きになったのは、今の瑞葉だもん。そういう失敗を反省して、優しい神様になった瑞葉だから、私は好きになったんだよ」

「菜乃華……」

 菜乃華が続けて掛けた言葉に、瑞葉が安堵の表情を見せた。瑞葉が自分の言葉に一喜一憂してくれる様は、うれしいを軽く通り越して愛おしく思える。状況的に不謹慎かもしれないが、惚れ直してしまいそうだ。
 そんな二人だけの世界に入った菜乃華と瑞葉を、蔡倫が「冬なのに熱いったらありゃしない」とこれ見よがしにからかった。

 ちなみに、菜乃華も自身の意見が瑞葉贔屓の甘い裁定だということは自覚している。それを意識できなくなってしまうほど、菜乃華も恋愛脳に支配されてはいない。

 ただ、聞いた限り相手の付喪神にも非があったことは確かなわけだし、そこは喧嘩両成敗ということで収めてもらいたい。だって瑞葉、掴み掛ってきたところを避けただけみたいだし。……と、そこまで考えたところで、自分がいつの間にか瑞葉を擁護していることに気付き、菜乃華は内心で苦笑した。恋愛脳、恐るべし。

「ところでさ、相手の付喪神さんって、今はどうしているの? もしかして、今も瑞葉と喧嘩別れしたままなの?」

「いや、仲違いしたままというわけでは……」

「ああ、それなら安心してください。きちんと仲直りして、今も元気に暮らしていますよ」

 不意に、思いもしない方向から声が上がった。全員の視線が、珍しくずっと静かだったその人物に注がれる。
 すると、件の人物――柊がひょいっと手を上げながら衝撃の事実を明かした。

「だってその付喪神、僕ですもん」

「……はい?」

 突然のカミングアウトに、菜乃華が思わず素っ頓狂な声を上げた。それをどう勘違いしたのか、柊は「いや~」と照れた様子で頬を掻き、瑞葉の昔語りに捕捉を入れ始めた。

 柊曰く、当時の彼は神力に目覚めたばかりで少々浮かれ気味だったらしい。それで毎日のように近所の子供たちを集め、盛大に神力を披露して自慢していたところ、瑞葉に見つかって騒ぎになったとのことだった。
 柊の口から、次々と明かされる仰天の真実に、菜乃華は開いた口が塞がらなくなった。

「それにしても、瑞葉さんがまだあの時のことを気にしていたなんて、全然知りませんでしたよ。あの後、瑞葉さんはしっかり子供たちにも謝ってくれましたし、僕はてっきり和解は済んだと思っていました」

「いや、確かに君の許しをもらうことはできたが、教訓として胸に刻むことは重要だろう。私は君に対して、あれほど大きな過ちを犯してしまったわけだし……」

「僕としては、むしろさっさと忘れてほしいですよ。瑞葉さんに避けられた瞬間に石に躓いて崖から転がり落ちたのも、かっこよく着地しようとして本を落としたのも、僕にとっては思い出したくない黒歴史です」

「うん。わたしも、さっさと忘れていいと思う。これを機に、スパッと忘れよう」

 腕を組んでむくれる柊の横で、菜乃華も真顔で頷いた。

 何なのだ、この茶番は。瑞葉の話を聞いていた時は相手の付喪神もかっこいいと思っていたのに、蓋を開けたらこれか。とんちきな真実がボロボロ出てくる。本当にこの男は、何をやっているのだ。心配して損した。瑞葉も瑞葉で、後ろめたさがあるからか美化し過ぎだ。

 そんな菜乃華の心情を余所に、柊はさらに墓穴を掘っていく。

「あとですね、瑞葉さん、今のはちょっと卑怯ですよ。あの事件をこんな風に語って、菜乃華さんの好感度を伸ばしにかかるなんて……」

「いや、私は本気で菜乃華に軽蔑されることを覚悟して……。決して同情を引こうなどとは考えていない」

「でしょうね。瑞葉さんの性格は、僕もよく知っていますから。でも、ずるいものはずるいです。こんなことなら、僕が先にやっておけばよかった!」

「ごめん、柊さん。今の話を柊さんから聞かせられてたら、たぶんわたし、ドン引きしてたと思う」

 半眼のジト目で、柊を睨む。この男は、そんなお調子者の失敗談で自分がなびくと本気で思っているのだろうか。

「まあいいや。なんかぐだぐだになってきたし、話を戻そっか。それで、お祖母ちゃんと出会ってからはどうなったの?」

「ん? ああ、そこからは割と単純だ。先程語った一件をきっかけとして、私はサエと親交を持つようになった。そしてある時、ふとサエが私に『付喪神のための町医者をやりたい』と言い始めたのだ――」
 瑞葉が、再び遠くを見つめるようにしながら語り出す。あの日のサエの笑顔と言葉を、瑞葉は今でも鮮明に思い出すことができた。

『今、この人の世で本の付喪神を助けられるのは、あたしだけなんでしょ? だったら、あたしのこの力を、うちの土地神様の代わりに本の付喪神の役に立てたい。そのために、あなたの力を貸してくれない?』

 そう言って手を差し伸べられたサエの手を、瑞葉は何の迷いもなく握った。サエならば、きっと多くの付喪神を助けることができるはず。サエの友として接してきた瑞葉には、そんな確信があったからだ。

 そして同時に、瑞葉はサエのこの提案が自分を変えるチャンスになると考えていた。

 幸い、サエたちには店として使える土地と建物はあった。婿養子であるサエの夫、つまりは菜乃華の祖父の生家だ。菜乃華の祖父の両親は、九重町で不動産屋を営んでいた。ただ、祖父は祖母と結婚して間もなく両親を事故で亡くしており、その生家は空き家となっていたという。

 しかも、九重町が商店街の発展と共に区画が整備された結果、祖父の生家はいつの間にか、今の迷路のような路地の奥に入ってしまった。おかげでここは、売ろうにも売れない資産となってしまったわけだが……これが偶然にもサエと瑞葉にとって好都合となっていた。

「何度も言ってきたことだが、我々神格を持つ者は、人との和を乱すことなく生きることを己に課している。故に、この場所は我々にとってこの上ない立地条件だったのだ」

 付喪神たちが安心して来られるように、人目につきにくい場所。けれど、付喪神は元々、人から大切にされた道具に宿る神だ。だから、人の活気も感じられる場所。路地の奥で人は来ないが、すぐ近くに人が行き交う商店街がある祖父の生家は、そんな条件を満たした稀有な場所だったのだ。
 土地の持ち主である菜乃華の祖父も、サエの考えを理解し、快く建物を提供してくれたという。

『八百万の神々のお役に立てるのなら、これほど喜ばしいことはない』

 それが、神職として祖父がサエと瑞葉に掛けた言葉だったらしい。自分が生まれる前に亡くなった祖父のことを、菜乃華は粋な人だったのだなと思った。

「店を開いた当初は、ほとんど客が来なかった。けれど、次第にサエの噂が広がっていってな。ちらほらと、付喪神たちが頼ってくるようになったんだ」

 ただの人間と敵が多い付喪神が作った店だ。順調な滑り出しとはいかなかった。

 それでもサエは、たまに来る客の本を直しながらあれこれ話をして、瞬く間に自分の味方にしていった。少し馴れ馴れしいが、気風が良くて底抜けに明るい。そんなサエの人柄に、どんな付喪神もいつの間にか懐柔されてしまったのだ。

 周囲に敵ばかり作っていた瑞葉からすれば、まるで手品でも見ているみたいな心地だった。もっとも、それを成し遂げていた本人は、単に付喪神と話をするのが楽しいだけだったようだが。

「サエの味方が次々増えていく様には、私も舌を巻いた。まあ、口コミが大事なのは、人の世界も神の世界も変わらないということだな」

「お祖母ちゃん、友達を作るの得意だったからなあ。適材適所ってやつだったんだろうね」

「嬢ちゃん、嬢ちゃん。一応言っておくとな、この店の宣伝にはオイラも一役買ったんだぜ。本の付喪神に会う度に、神田堂のことを紹介したもんさ」

 唐突に口を挟んだ蔡倫が、胸を張る。

 蔡倫が初めて神田堂を訪れたのは、店を開いて間もなくのことだ。どこで聞きつけたのか、全国行脚から戻った彼は突然ふらっと神田堂に現れたのだ。
 神田堂を気に入った蔡倫は、そのままちょくちょく顔を出すようになった。そんな彼に連れられて神田堂にやってきた付喪神は、数知れない。そう、蔡倫こそ神田堂の名を世に広めた影の功労者なのだ。

 得意げなサルの坊さんを前に、瑞葉も感謝するように「そうだったな」と笑った。

「店を開いて十年も経つ頃には、神田堂の名は付喪神たちの間に知れ渡った。以来、ここは付喪神たちが集ってくる場となったのだ」

 瑞葉は、心穏やかに言葉を紡いでいく。

 この五十年、本当にたくさんの付喪神が、この店を訪れた。それは、怪我を直してもらいに来た本の付喪神だけではない。家具の付喪神や道具の付喪神、その他の神々も、ただサエと話すためだけに、神田堂へやってきた。
 なぜならみんな、妙に気安く、太陽のように明るい店主のことが好きだったから。

 サエが夢見た、怪我をした本の付喪神を助ける町医者、神々と一緒に生きていくための店――。

 神田堂は、見事にその目的を果たしたのだ。
 そして、店主が代替わりした今も、そんな神田堂の理念は変わることなく生き続けている。他でもない、サエの意思と力を引き継いだ菜乃華の手によって守られているのだ。

 瑞葉は、親友と同じ目をした最愛の少女を見つめた――。


         * * *


「これが、私とサエの出会いから、現在に至るまでの物語だ。満足してもらえたかな、店主殿?」

「うん! 瑞葉の過去にはちょっと驚いたけど、すごく素敵なお話だった。ありがとう」

 満ち足りた面持ちで、菜乃華は大きく頷いた。特に後半、神田堂ができた辺りは想像以上に素敵な物語で、大満足である。それに、自分が目指すべき店主像というものが、よりはっきりと見えた気がする。菜乃華にとって、何よりも大きな収穫だ。

 と同時に、店の壁時計が午後六時を知らせる鐘を鳴らした。

「ふむ、ちょうど時間だな。今日の仕事はここまでだ」

「そうだね。じゃあ、わたし、今日はこれで帰るね」

「あ、それなら僕らも、そろそろお暇します」

 菜乃華が帰り支度を始めると、柊もこたつの中からクシャミを引っ張り出して抱き上げた。クシャミはこたつが恋しいのか、「な~む」と少し不機嫌そうに鳴いている。こたつを出してきてからというもの、これも見慣れた光景だ。

 湯呑みは瑞葉が洗っておいてくれると言うので、お言葉に甘えておく。柊たちを伴って店のガラス戸を開けた菜乃華は、居間にいる瑞葉たちの方を振り返った。

「瑞葉、蔡倫さん、また明日!」

「それじゃあ、失礼します」

「ああ、気をつけて帰れよ」

「じゃあな、嬢ちゃん。ついでに柊たちも。車に気を付けろよ」

 店の奥から、瑞葉と蔡倫が手を振ってくる。
 二人の付喪神に手を振り返して、菜乃華は柊たちと共に夕暮れの路地を歩いていった。
 賑やかな菜乃華たちが去って、随分と静かになった神田堂。居間に残った瑞葉と蔡倫は、のんびりと茶を飲みながら、卓袱台越しに向き合っていた。

「にしても驚きだ。あの頃、オイラがいない間にそんな事件があったとはな」

「まあ、改めてお前に語るような機会もなかったからな」

 蔡倫が水を向けると、瑞葉はお茶をすすりながら澄まし顔で答えた。

「けど、思い起こしてみれば確かにお前さん、ここの店員になってから性格がどんどん丸くなっていったよな」

 ここ五十年の瑞葉を思い返し、蔡倫が呟く。

 蔡倫と瑞葉の関係は、遠く江戸時代からの腐れ縁だ。故に、蔡倫は神田堂の店員になる前の――サエと出会う前の瑞葉のことも、よく知っている。

 サエと出会う前の瑞葉は、本人が語った通り、孤高の存在だった。なまじ高い能力を持っていたことも、ある意味では瑞葉の不幸だったのかもしれない。その能力の高さ故に、彼はほとんどの相手に後れを取ることがなかった。高い理想とそれを実現させる力を持っていた瑞葉は、その生真面目な性格故に立ち止まることができなくなってしまったのだ。

 そして蔡倫には、そうやって突き進んでいく瑞葉を見ていることしかできなかった。止めてやりたいとは思っても、止めることができなかった。蔡倫には、瑞葉を止められるだけの力がなかったからだ。
 だが、今にして思えば、『止める力』なんて必要なかったのだろう。

「私自身、自分を変えたいと思っていたが、実際に変われたのはサエのおかげだな。奔放なサエを見ていたら、常に肩ひじを張っていることが馬鹿らしく思えてきた」

「お前さんにそれを悟らせちまったあたり、あのばあさん、本当に人間にしておくには惜しい傑物だったな」

 愉快と言いたげな口調で、しかしその裏にサエへの尊敬を滲ませ、蔡倫が相槌を打つ。

 そう、『止める力』なんて必要なかった。必要だったのは、ただ一つ。サエのように、友として隣でいつも笑っていてやることだった。そんな簡単なことにも気付けなかったのだから、自分もまだまだ修行が足りないと思う蔡倫だった。
 そんな蔡倫の心情を知ってか知らずか、瑞葉が微笑みながら頷く。

「まったく、お前の言う通りだ。この五十年でサエから学んだことは、数知れない。彼女のおかげで、毎日が充実していたよ」

「そいつは結構なことだ。人生、これ勉強ってな。……って、うん?」

 呵々と笑っていた蔡倫が、ふと何かに気づいた様子で首を傾げる。そのままサルの坊さんは、こたつ布団の上に落ちていたものを拾い上げた。

「どうかしたのか、蔡倫?」

「なあ、瑞葉よ。こいつは、嬢ちゃんのじゃないか?」

 蔡倫が、右手を瑞葉に向かって差し出す。蔡倫の右手に乗っていたのは、クマのキーホルダーがついた鍵だ。
 瑞葉も、このキーホルダーには見覚えがあった。確かにこれは、菜乃華の持ち物だ。きっと帰り支度をしている時にでも落としたのだろう。

「ああ、確かに菜乃華のものだな。仕方ない。蔡倫、少し留守番を頼めるか?」

「なんだ? お前さんが届けに行くのかい?」

「おそらくこれは、菜乃華の家の鍵だ。ここにあっては、菜乃華が困るだろう」

 鍵を懐にしまい、瑞葉が席を立つ。一度決めたら、時間を無駄にしないで即行動を起こす。真面目な瑞葉らしい。

「……本当に変わったね~」

「ん? 蔡倫、今、何か言ったか?」

 不思議そうに訊き返した瑞葉へ、蔡倫は「何でもない」と首を振った。ただ、蔡倫の表情はうれしげだ。
 昔の瑞葉なら、誰かの忘れ物を届けに行こうとなんてしなかっただろう。「注意力が足りない」と、簡単に切り捨てていたはずだ。

 そんな瑞葉が、今では他人を気遣い、心配している。過去語りをしていた所為か改めて思うが、随分と優しくなったものだ。もっとも、今回については単純に菜乃華と二人で過ごす時間を少しでも増やしたいだけかもしれない。それはそれで、瑞葉の大きな変化であることに違いはないが。

 サエといい、菜乃華といい、九重の土地神の血族は蔡倫にできないことを難なくやってのける。本当に、羨ましいくらい面白い一族だ。

「では、行ってくる。蔡倫、後を頼む」

「おう、車に気を付けろよ! それと、嬢ちゃんによろしくな」

 菜乃華たちにしたのと同じように、蔡倫はひょいひょいと手を振る。

 おそらく瑞葉は、遠くない未来に九重の土地神と同じ決断をするだろう。神格を捨て、愛する者と数十年という短い命を精一杯燃やしながら生きていくのだ。
 神にとって神格を捨てることは、二度と後戻りできない片道切符だ。それでも、瑞葉はためらうまい。それこそが瑞葉の望みであり、幸せなのだから。

 友の門出は、蔡倫にとってうれしくもあり、同時に寂しくもあった。
 長く生きた付喪神だって、変わる時は変わる。時には大きく成長していく。瑞葉の背中を見送りながら、蔡倫はそんなことを考えるのだった。
「はぁ~。やっちゃったよ……」

 日が沈んだ町を、菜乃華はため息まじりに力なく歩いていた。
 向かう先は、九ノ重神社ではなく神田堂だ。鳥居をくぐったところで鍵を忘れてきたことに気付き、こうして取って返してきたのである。

「ほんと、何でこうもドジなのかな……」

 赤信号で立ち止まった菜乃華は、その場でがっくりと項垂れた。
 家の鍵を忘れてくるなんて、本当にどうかしている。何だか無性に恥ずかしくて、頭を抱えて叫び出したい気分になった。……もちろん、実際にやったりはしないが。

「菜乃華!」

 聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、菜乃華はゆるゆると顔を上げる。

 下を向いていて気が付かなかったが、いつの間にか横断歩道の向こう側に、瑞葉が立っていた。瑞葉の神主姿は、夜のとばりの中でもよく目立つ。
 そして、目が良い菜乃華には、この距離からでもはっきりわかった。瑞葉の手の中で街灯を反射してきらりと光るのは、神田堂に忘れてきた家の鍵だ。どうやら瑞葉は、わざわざ鍵を持ってきてくれたらしい。

 途端に菜乃華の表情が晴れやかになる。信号もちょうど青になり、菜乃華は瑞葉の方へと駆け出した。瑞葉に会えるだけでも心が弾むのに、その上彼は菜乃華の落とし物を届けに来てくれた。これを喜ばずして、いつ喜べと言うのか。

 浮かれ気味な顔つきで、スキップ混じりに横断歩道を渡る。喜色満面な菜乃華を、瑞葉もやれやれといった苦笑で待ち受けていた。
 だが、その時だ。

「――ッ! 危ない!」

 突然、顔を強張らせた瑞葉が、大声で叫んだ。いきなりのことに戸惑って、菜乃華は道路の真ん中で足を止める。

 瞬間、立ち止まった菜乃華をまばゆい光が照らし出した。車のライトだ。見れば、一台のトラックが菜乃華に向かって進んできていた。運転手が居眠りでもしているのか、赤信号にもかかわらず、トラックは一向に止まる気配がない。スピードを落とすことなく、菜乃華の方へ突っこんでくる。

 危険を感じ取り、頭がすぐさま体へ逃げるように指令を出した。しかし、菜乃華の体は恐怖にすくんでしまい、思うように動いてくれない。まるで金縛りにでもあっているような感覚だ。
 その間にも、トラックは菜乃華の方へ近付いてくる。もはや目と鼻の先と言える距離だ。

 駄目だ。もう逃げられない。

 トラックにはねられる自分の姿を想像し、菜乃華は固く目をつぶる。
 直後、予想よりも軽い衝撃が、菜乃華を襲った。

「きゃっ!」

 悲鳴を上げ、道路上でしりもちをつく。アスファルトに腰を打ちつけて、体に痛みが走った。
 けれど、何か変だ。トラックにはねられたはずなのに、打ちつけた腰以外、どこも痛くない。

 それに、先程の衝撃もおかしい。車にぶつかったというよりは、まるで誰かに突き飛ばされたような……。疑問で頭をいっぱいにしつつ、固く閉じていた目を開いた。

「え……。うそ……」

 どうやらトラックは、何事もなかったように走り去ってしまったようだ。だが、今はそんなことなどどうでもいい。怒りを覚える余裕さえない。なぜなら菜乃華は、自分が目を閉じている間に何が起こったのかを知ってしまったから。

「これ、瑞葉の……」

 菜乃華の目の前に転がっていたのは、一冊の古ぼけた和本だった。

 間違いない。その本は、以前見せてもらった瑞葉の本体だ。だが、本体はここにあるのに、瑞葉の姿はどこにも見当たらなかった。

 青ざめた顔で、瑞葉の本体である和本を拾い上げる。手に取った和本は傷だらけで、見るも無残な姿になっていた。
 なぜ瑞葉の本体がこんなことになったのか。そんなの考えるまでもない。瑞葉は、菜乃華の身代わりとなって、トラックにはねられたのだ。

 瑞葉が全力で動けば、自身がはねられる前に菜乃華ごとトラックの動線から抜けることもできただろう。
 しかし、瑞葉はそれをしなかった。すべては菜乃華のためだ。瑞葉が全力でぶつかれば、菜乃華の体が耐えられない。それでは、トラックにはねられるのと結果は大して変わらない。だから、瑞葉は別の策を選んだ。自分が助からないことを覚悟の上で力を抑え、菜乃華を助ける、という策を……。

「あ……、ああ……」

 喉が震え、開いた口から声にならない叫びが漏れ出す。同時に、見開かれた目から大粒の涙が零れ落ち、道路を濡らしていった。

 思い出されるのは、今日、瑞葉から聞かせてもらった昔語りだ。破損が大きくなれば怪我は重くなり、許容範囲を超えれば付喪神としての姿を保てなくなる。すなわち、姿が保てなくなったということは、付喪神の命が風前の灯火になっていることの現れである。

 つまり、瑞葉は今、死にかけてしまっている。他でもない、菜乃華を助けるために犠牲になってしまった。

 驚き、悲しみ、怒り。様々な感情が、菜乃華の中を突き抜けていく。
 つい今し方まで、そこにいたのに。手を伸ばせば届きそうな場所で、待っていてくれたのに。仕方ないという顔で、優しく苦笑していたのに……。

 瑞葉の和本を抱き締めた菜乃華は、すべての感情を綯い交ぜにし、夜空に向かって慟哭した。
 神田堂のガラス戸が開いたのは、瑞葉が出かけて十五分ほど経った頃のことだった。

「おう、おかえり、瑞葉。意外と早かった……な?」

 てっきり瑞葉が帰ってきたものと思って居間から顔を出した蔡倫の表情が、疑問に固まる。土間に立っていたのは予想していた瑞葉ではなく、息を切らせた菜乃華だったからだ。
 いや、それだけではない。

「どうしたってんだ、嬢ちゃん。ボロボロじゃねえか」

 菜乃華の格好を目にした蔡倫は、改めて目を剥いた。

 蔡倫が驚くのも無理はない。今の菜乃華は、本当にひどい格好だった。服や長い髪は埃まみれで、スカートの下に穿いたタイツは膝のところに大きな穴が開いている。

 ただ、菜乃華は自身の格好を構うことなく、泣き腫らしたと見える赤い目からさらに涙を流した。もはや立っていられなくなったのか、その場で力なく床に膝をつく。俯いた菜乃華の目から零れた涙が、土間に染み込んでいった。

 一方、突然泣き始めた菜乃華に、蔡倫もわけがわからないまま大慌てだ。

「おいおい、どうした、嬢ちゃん。急に泣き出したりして」

 心配した様子で駆け寄ってきた蔡倫に、菜乃華は何も答えられないまま、どうにか手に持っていた本を差し出した。破損してしまった、瑞葉の本体だ。

 瑞葉の和本は、本当にひどい有り様だった。背を綴じていた糸は千切れ、表紙は大きく裂けている。それにいくつかのページが、痛々しく破れていた。一目で危険とわかる壊れ方だ。
 瞬間、蔡倫の目から戸惑いが消え、その表情は真剣なものに変わった。

「こいつは、瑞葉の和本だな。嬢ちゃん、一体何があった」

「わたし、さっきそこでトラックにはねられそうになって……。そしたら、瑞葉が『危ない!』って。それで、わたしの代わりに瑞葉がはねられて、この本が壊れちゃって……」

 俯いたままの菜乃華が、か細い声で途切れ途切れに事情を話す。ただ、はっきり言って彼女の話は滅茶苦茶だ。混乱と焦燥の所為か、説明の体を成していない。

 しかし、蔡倫は見せられた本と合わせて、大体の事情を察してくれたらしい。蔡倫は手にした瑞葉の本を見つめ、重々しく息を吐き出しながら、「そうか……」と呟いた。

「どうしよう、蔡倫さん……。瑞葉の本、こんなことになっちゃって。それに、瑞葉の姿も消えちゃったの。呼びかけても……何も返事を……してくれないの……」

 両手で顔を覆った菜乃華が、声を震わせながら訴える。

 瑞葉がこうなってしまったのは、自分の所為だ。菜乃華の頭の中を、自責の念が駆け巡った。
 自分が鍵を忘れなければ。トラックが近付いていることに気付いていれば。瑞葉が呼び掛けてくれた時、すぐに逃げることができていれば……。いや、そもそもはねられたのが自分であれば、どんなにましだったか。
 後悔ばかりが募り、菜乃華は人目を憚ることなく泣き続ける。

 すると突然、「泣くな、馬鹿者!」という張りのある大声が、菜乃華の耳を打った。
 驚きのあまり、反射的に顔を上げる。声の主である蔡倫は腕を組み、毅然とした態度で菜乃華を見下ろしていた。

「今は後悔する時ではない。お前には、まだできることがあるんだ。顔を上げてしっかり前を見ろ、神田菜乃華!」

「蔡倫さん……」

 呆然とした面持ちで、声を張る蔡倫を見上げる。その姿は菜乃華を叱りつつも、励ましてくれているようで……。初めて見る蔡倫の威厳ある立ち姿に、菜乃華は心強さを感じながら涙を拭いた。そして、自分の足でしっかりと立ち上がる。

「ごめんなさい、蔡倫さん。わたし、弱気になってた……」

「いや、オイラの方こそ、大声を出して悪かった」

 すまねえな、と謝る蔡倫に、菜乃華は首を振った。
 謝られる謂れなんて、ありはしない。蔡倫の一喝のおかげで、少し落ち着くことができた。蔡倫の言う通り、まだ自分にできることがあるならば、後悔している暇はない。
 奥歯を噛み締めることで表情を引き締め、瑞葉の本を手にした蔡倫を見据える。

「蔡倫さん、教えて。瑞葉は今、どんな状態なの?」

「危険な状態であることは確かだな。だが、本の中から、あいつの息吹を感じる。まだ、助けることはできるはずだ」

 蔡倫が、瑞葉の和本に落としていた視線を上げ、菜乃華と目線を合わせる。

「それでどうする、嬢ちゃん。幸いなことに、年の瀬の今は高天原の門が開いている。今考えられる選択肢は二つだ。高天原の神に預けるか、それともここで嬢ちゃんが直すか。神田堂の店主として、嬢ちゃんが決めてくれ」

「……うん」

 蔡倫に選択を迫られ、菜乃華は固く唇を噛み締めた。

 提示された二つの選択のうち、どちらを選ぶか。そんなこと、本来であれば迷う必要もないだろう。神田堂店主として冷静に決断を下すなら、菜乃華は身を引くべきだ。

 無論、和本の修復については、菜乃華も一通り勉強してある。瑞葉に習って、鍛錬も重ねている。それでも、今回はあの瑞葉が姿を保てなくなるほどの破損だ。瑞葉を確実に助けたいなら、高天原にいる神様に頼るのが一番に決まっている。そんなことは、菜乃華が一番よくわかっている。

「わたしは……」

 けれど菜乃華は、すぐに決断を下せなかった。一刻を争う事態に直面しているとわかっていながら、最善の決断を口にできなかった。

 頭ではわかっていても、心がその決断を拒否する。冷静かつ妥当な判断に、異を唱えてしまう。なぜなら、菜乃華も本心では、自分の手で瑞葉の本を直してあげたいからだ。

 実力的には、高天原の神様の足元にも及ばない。それは重々承知している。それでも、今回だけは他人任せになんてしたくない。瑞葉が自分を助けてくれたように、自分も瑞葉を――世界で一番大好きな人を、この手で助けたいのだ。

「……すまねえ、嬢ちゃん。オイラ、また意地の悪いことを言っちまった」

「え?」

 理性と感情の間で葛藤する菜乃華の耳に、蔡倫の謝罪の言葉が響く。

「もし嬢ちゃんが自分の手で直したいと思うのなら、その気持ちに正直になれ。きっと瑞葉も、それを望んでいるはずだ」

 菜乃華の気持ちを見透かすように、蔡倫は言葉を紡いでいく。

 最初からそうだった。蔡倫の目に映る瑞葉は、いつだって菜乃華のことを信頼し、その成長を喜んでいた。蔡倫は、それをよく知っている。
 ならば、今ここで眠り続ける瑞葉が望むことは何か。答えは一つだ。

 蔡倫は、菜乃華を安心させるように気楽な笑顔を見せる。

「あいつのことだ。『菜乃華の成長の糧になれるのなら本望』ってくらいのこと、平気で言ってのけるぜ。逆に、嬢ちゃんが誰かに自分を預けたら、それだけでがっかりするかもしれねえ。あいつの期待に応えてやるのも、粋ってもんだろう。それにオイラとしても、できることなら瑞葉の本は嬢ちゃんに直してもらいたい」

「でも、もしもわたしが失敗したら、瑞葉がいなくなっちゃうかもしれない。わたし、そんなの耐えられないよ」

 菜乃華の口から、思わず弱音が漏れてしまう。本心では「わたしがやる」と言いたいのに、冷淡なもう一人の自分が不安を煽って、素直になれない。
 すると、蔡倫は「いなくなんてならねえよ」と力強く断言した。

「嬢ちゃん、お前さんが惚れた男は、そんなに軟(やわ)じゃねえ。お前さんを置いて、簡単にいなくなったりしねえ」

「蔡倫さん……」

「第一、はっきり言って今の嬢ちゃんなら、一発アウトの失敗なんてしねえよ。仮に完全修復ができなかったとしても、応急処置と呼べるレベルの修復はこなせるはずだ。それならそれで、十分に儲けもん。危機を脱した状態で、瑞葉の本を高天原へ持っていけるじゃねえか」

 蔡倫が、目を丸くする菜乃華の肩に手を置いた。

 このサルの坊さんは、菜乃華なら必ずできると太鼓判を捺したりはしなかった。発破をかけつつも「応急処置でも十分だ」と、菜乃華に完璧を求めなかった。過度な期待で押し潰さないよう、その上で菜乃華が前向きに物事を考えられるよう、最大限に配慮してくれたのだ。さすがに長い時間を生きているだけあって、人の心を整える方法というものをよく心得ている。

 同時に、菜乃華の瞳に光が灯った。一歩を踏み出そうとする意志の光だ。
 自分が好きになった瑞葉は、これくらいの破損に負けるような付喪神じゃない。そんな強い瑞葉に鍛えてもらった自分も、ここで何もできないほど軟な店主じゃない。完璧は無理でも、できることは必ずある。

 菜乃華の中で、想いが形を成していく。
 恐怖は、いつの間にか乗り越えていた。もう、情けない泣き言は出てこない。表情を引き締めた菜乃華は、実にフラットな感覚でこの言葉を口にすることができた。

「わかりました。わたし、やってみます」

「おう! そうこなくっちゃな」

 にこりと笑った蔡倫に、真剣な面持ちで一度頷く。
 そうとなれば、善は急げ。早速、修復に必要な道具を準備に取り掛かる。いつもは瑞葉と一緒に行う作業だが、今日は一人きり。不安はないと言えば嘘になるが、きっと大丈夫だという自負はある。

「お前さんはサエばあさんの意志と力、そして瑞葉の技術を受け継いだ、立派な店主だ。自信を持て。そんで、自分の持てる力を存分に発揮しろ」

「はい。任せてください!」

 背後から聞こえる蔡倫の声に、はっきりとした口調で答える。
 菜乃華にとって一世一代の大きな仕事が、幕を開けた――。
 しんと静まり返った神田堂に、菜乃華は一人佇む。土間には菜乃華と瑞葉の本だけ。奥の居間にも、今は誰もいない。蔡倫は菜乃華の集中力を削がないようにと出て行った。呼ばれたらすぐに駆けつけるとのことだが、すべてを任せてくれているのだと思うと、少しうれしい。

 家にも、今晩は帰らないと連絡を入れてある。「瑞葉が大変なの」と告げると、母は何も訊かずに「頑張れ」とエールを送ってくれた。

 これで、後顧の憂いはない。目の前の作業だけに集中できる。
 目を閉じて、心を落ち着けるように大きく深呼吸する。頭へ十分に酸素が回ったところでゆっくりと目を開き、修復を始める。

 落ち着いてよく検分してみれば、瑞葉の本が負った破損は派手だが、ほとんどページの破れのみだ。トータルで見ると大きな破損と言えるけれど、一つ一つは菜乃華でも修復可能な傷である。
 そうとわかれば、話は早い。まずは本を分解するところからだ。菜乃華は千切れたまま引っかかっている綴じ糸を取って、糊を溶かしながら表紙を外した。

『和装本は、表紙の下でも別に綴じを行うものだ。故に、完全に分解するには、本の角に付いている角裂を取り、中綴じの紙縒りを外さなければならない』

 瑞葉の教え導く声が、頭の中に蘇る。菜乃華はその声に従いながら中綴じを外し、中身である本紙を一枚ごとにばらしていった。

 几帳面な瑞葉が保管していただけあって、本を構成する和紙は江戸時代製とは思えないほど良好な状態だ。加えて、菜乃華にとっては有り難いことに、本は薄くてページ数もそれほど多くない。おかげで、事故でついてしまった傷に気を付ける以外は、特に問題なく分解することができた。

「これも、瑞葉が教えてくれたおかげだね」

 分解し終えた本を前に、苦笑しながらふっと呟く。

 和装本の分解と再製本は、瑞葉がどこからか仕入れてきた本を使って、幾度もこなしてきた。プロの修復家には及ぶべくもないかもしれないが、迷いなく作業を行える程度の経験値を得ている。その経験をまさか瑞葉の本の修復で活かすことになるとは思わなかったが、きちんと学んでおいて本当に良かった。

 ともあれ、分解が完了したなら、いよいよ本番だ。
 修理に使う和紙から喰い裂きの短冊を作り、破れた部分をつなぐように貼り付けて、毛羽立たせた和紙の繊維を馴染ませていく。

『できるだけはみ出さないように、焦らず、ゆっくりと。これを忘れるな』

 初めての仕事でクシャミの文庫本を直していた時に、瑞葉が掛けてくれた言葉だ。仕事の度に何度も唱え続けてきた教えを、ここでも実践する。

 一つ一つ、丁寧に。時間が掛かっても、きっちりと。
 瑞葉を助けたいという気持ちを込めて、傷を一つずつ修復していく。

 夜は更け、もうすぐ日付が変わりそうだ。ここまで飲まず食わずで、休憩もろくに取っていない。
 けれど、集中力はまったく途切れることがなかった。まるで自分の体じゃないみたいに、ハードワークを悲鳴も上げずにこなしてくれる。後が怖いが、今は自分の体に感謝だ。

「ん? これ……」

 それは、最後の本紙の修復に移った時のことだ。菜乃華はそこに古い修復の痕跡を見つけ、手を止めた。

 少し不格好だけど、きっと一生懸命直したのだろうと思える修復の形跡だ。夕方の話に出てきた三百年前につけてしまったという傷かとも思ったが、それにしては痕跡が新しいように思える。

 その時だ。菜乃華の胸に、何とも言えない不思議な感情が芽生えた。この感情を一言で表すのなら――懐かしさだろうか。
 まるで吸い寄せられるように、修復の跡を手でなぞる。乾いた糊と和紙の手触りに、菜乃華の奥に眠る記憶が反応した。

『わかった、やくそくする! あたし、――になる!』

 ふと頭に響いた幼い自分の声に、菜乃華が弾かれたように顔を上げる。同時に、顔を覗かせた記憶は、また心の奥へと沈んでいった。
 しかし、間違いない。今のは、夏に瑞葉と出会った時に見えたのと同じ記憶の断片だ。

「今のって……」

 前髪をくしゃりと掻き上げ、記憶の奥を探ろうとする。菜乃華にとって、その記憶はとても大切なものであったように感じるのだ。

 ただ、すぐに自分がやるべきことを思い出し、菜乃華は意識を戻すように思い切り首を振った。今は修復に集中する時だ。思い出しかけた記憶は気になるが、そちらは後回しでいい。

 筆を握り直し、次の修復場所に目を向ける。自分がやるべきことに集中し、菜乃華は修復を再開する。
 ほどなくして、表紙を含め、破れた部分はすべて補修することができた。修復した本紙はすべてプレス機にかけ、平らなまま糊が乾くようにしてある。
 ここでようやく菜乃華も小休止だ。凝った肩を回し、疲れた目をマッサージしておく。

「瑞葉、もう少しだけ待っていてね」

 頬を叩いて、もう一度気合を入れ直す。

 糊が乾いたところで本紙をプレス機から取り出し、仕立て直しの開始だ。瑞葉の本を元の形に再製本していく。
 新しく作った紙縒りで本紙を中綴じし、角裂と補修し立ての表紙をつける。

 そして、最後は糸綴じだ。今も本の中で眠る瑞葉を想いながら、一針一針しっかりと本の背を綴じていく。

 さすがの菜乃華も、アドレナリンが切れてきたのか集中力がもう限界だ。疲れが出てきた所為か体はふらつくし、今まで気になっていなかった眠気も一気に襲ってきた。それでも最後の力を振り絞って、糸綴じの仕上げを行っていく。
 綴じ糸が縦横無尽に本の背を行き交い、ついに始まりの位置まで戻ってきた。

「これで……終わり……」

 限界を超えている自分を叱咤しながら、糸を結んで余った分を切る。これで糸綴じは終わりだ。そして、本の修復も完了した。

「でき……た……」

 同時に、菜乃華の意識を保っていた最後の糸も切れた。文字通り、糸の切れた人形のように作業台に突っ伏す。途切れかけた意識の中、菜乃華は直したばかりの瑞葉の本に手を添えた。

 修復に集中していて気付かなかったが、いつの間にか夜の闇は薄まり始めていた。窓の外は、瑠璃色に変わりつつある。

 次に起きたら、きっと瑞葉に会えるよね。そしたら、まずお礼を言わなきゃ。それと、怪我させてごめんって謝らないと。

 困ったように笑う瑞葉の顔を想像し、菜乃華の表情が和らぐ。そのまま彼女の意識は、蝋燭の火が吹き消されるように静かに途切れた。
 気が付くと、菜乃華はいつの間にか神田堂の店先に立っていた。降り注ぐ夏の日差しに、菜乃華は目を眇める。

「あれ? わたし、なんでこんなところに?」

 菜乃華の頭に浮かぶのは、一つの疑問だ。
自分は、どうしてここに立っているのか。その理由が、菜乃華にはまったく思い出せなかった。まるで頭の中に霧でもかかったような心地だ。

「確か、瑞葉の本を修理して、そのまま寝落ちしちゃって……」

 ふと自分の口から出た言葉に目を見開き、顔を上げる。

 そう。自分は、瑞葉の本を直していたのだ。そして、彼の本を直し終えたところで、限界を迎えてしまった。
 あの後、どうなったんだろうか。瑞葉は助かったのか。彼の安否が気になり、菜乃華は急いで店の中へ戻ろうとする。

 だが、ガラス戸に手をかけようとした菜乃華は、おかしなことに気がついた。

「何これ。わたしの手がない」

 先程とは別の驚きで、目を見開く。ガラス戸を開けようとした自分の手が見えないのだ。
 慌ててガラスに目を向ければ、そこには自分の姿だけ映っていない。まるで幽霊にでもなってしまったかのように、菜乃華の体は消えていた。

「これ、もしかして……」

 朧げにだが憶えのある現象に、菜乃華は見えない手をおとがいに当てる。
 その時、店のガラス戸が突然内側から開かれた。

『なっちゃん、そんなに走ると危ないよ』

『はーい! おばあちゃん!』

 神田堂から出てきたのは、五歳くらいの小さな女の子だ。
 その女の子には、見覚えがある。アルバムの写真で見た、小さい頃の菜乃華だ。

 ここに至って、菜乃華は確信した。自分は今、いつぞやと同じように、明晰夢を見ているのだ。それも、おそらくは心の奥にしまい込まれてしまった、自分自身の幼い頃の記憶を……。

「もしかして、これってあの声に関係あるんじゃ……」

 今の菜乃華には、こんな記憶はない。少なくとも、覚えていない。けれど、今見ている光景が夢の中だけのものとは思えない。

 これまで時折思い出しかけていた、過去の記憶。何かを約束する、自分の声。
 確証はない。けれど、この夢の先にその答えがあるような気がした。

『それじゃあ瑞葉、菜乃華のことをよろしく頼むよ』

『ああ、任せておけ』

 考えごとにふける菜乃華の耳に、聞き覚えのある二つの声が響く。菜乃華が振り返ると、そこには瑞葉と今は亡き祖母が立っていた。

「瑞葉……。お祖母ちゃん……」

 小さい菜乃華が、『おばあちゃん!』とうれしそうに駆けていく。その横で、透明な今の菜乃華は、目を潤ませていた。夢の中、過去の出来事とはいえ、元気な祖母と瑞葉の姿を目にして、涙がこみ上げてきたのだ。
 店の外に出てきた祖母は、小さな菜乃華の頭をわしわしと撫でた。

『それじゃあ、お祖母ちゃんはちょっと外に出てくるからね。なっちゃんは、瑞葉と留守番していておくれ』

『わかった! いってらっしゃい!』

 くすぐったそうに撫でられていた小さい自分が、満面の笑顔で頷く。昔は、こうやって祖母に頭を撫でてもらうのが好きだった。
 祖母が路地の先に消えるまで見送ると、瑞葉は小さい菜乃華に手を差し出した。

『さあ、店の中でサエが帰ってくるのを待とうか』

『うん!』

 小さな菜乃華は羨ましいことに瑞葉と手をつなぎ、神田堂の中へ戻っていく。
 そして菜乃華も、過去の二人を追いかけて店に入った。幸いなことに、今回の明晰夢は自由に移動することができるようだ。

 神田堂の中は、今も昔も変わらない。過去の自分は、奥の居間で瑞葉と麦茶を飲んでいた。にこにこしているところを見ると、小さな自分はご機嫌な様子だ。瑞葉と一緒にいるのだけで楽しいのは、今も昔も変わらないらしい。

 ただ、すぐに大人しく座っていることに飽きてしまったのだろう。瑞葉が台所に立つと、過去の菜乃華は一人、作業場である土間へと降りていった。

 作業台や大きな箪笥が並ぶ土間は、小さな子供にとって好奇心を刺激される場だ。過去の菜乃華は、丸椅子をよじ登って作業台の上を覗き始めた。

「ああ、もう! 何やってんの。そんなことしたら、危ないってば」

 丸椅子を揺らしてはしゃぐ過去の自分を、思わず今の菜乃華が注意する。
 あんなに揺らしたら、危ないことこの上ない。いつかはバランスを崩して、床に落ちてしまうだろう。
 しかし、当然ながら過去の自分に声が届くはずもない。小さい菜乃華は、何も気付かずにはしゃぎ続ける。

『お?』

「――ッ! いけない!」

 そしてついに、椅子がバランスを崩して倒れた。小さい菜乃華はきょとんとした顔のまま、床へ落ちていく。菜乃華が咄嗟に見えない手を伸ばすも、声と同じで過去の菜乃華に触れることはできない。

 その瞬間、白い影が風のように床の上を走った。

『危ない!』

 目にも留まらぬ速さで落下地点に入った瑞葉が、小さい菜乃華をしっかりと抱き留めた。

 そして、菜乃華は見た。瑞葉が過去の自分をキャッチした際、彼の懐から本が零れ出たのを。その本が空中で開き、地面に落ちた瞬間、ページが小さく裂けたのを……。

『大丈夫か、菜乃華』

『うん! ありがとう、ミズハ!』

 瑞葉の腕の中で、小さい菜乃華が楽しそうに笑う。
 ただ、その笑顔はすぐに凍りついた。見上げた瑞葉の顔を、赤い血が伝ったからだ。

『どうしたの、ミズハ。おけがしたの?』

 小さい菜乃華が、血が伝う瑞葉の頬に手を触れる。
 幼心にも、瑞葉が自分の所為で怪我をしたとわかったのだろう。過去の自分は一転して涙をポロポロと零し、『ごめんね、ごめんね』と謝っている。

『気にするな、菜乃華。私は大丈夫だ。こんなのは、何でもないかすり傷だから』

 泣き続ける小さな菜乃華の頭を、瑞葉がふわりと撫でた。責任を感じている過去の自分を、気遣ってくれているのだろう。瑞葉の顔には、優しい笑顔が浮かんでいる。

『それにサエが戻ってくれば、すぐに本を直してもらえる。この本が直れば、私の怪我も直るのだ。だから、もう泣くな』

 懐から出したハンカチで、瑞葉は過去の菜乃華の涙を拭く。
 すると突然、過去の菜乃華が勢いよく首を振った。

『や! あたしがなおす!』

『……は?』

 小さな菜乃華の『なおす!』宣言に、瑞葉の目が点になった。どうやら小さい菜乃華のこの反応は、瑞葉にとっても予想外だったらしい。

 しかし、言った当の本人は、どこまでも本気のようだ。小さな手をきつく握り締め、瑞葉を見上げてこう言い放った。

『あたしがやる! あたしが、ミズハのおけが、なおすの!』

 精一杯、本気の思いを込めて、小さな菜乃華は瑞葉を見つめていた。子供なりに自分が何をすべきか考え、出した結論なのだろう。
 必死に訴える幼い少女の姿に、瑞葉は驚きのまま目を見開く。

 ただ、瑞葉はすぐに表情を和らげ、もう一度小さな菜乃華の頭を撫でた。

『……わかった。では、菜乃華に直してもらおうか』

『うん! あたし、なおす!』

 喜び飛び跳ねる小さな菜乃華とともに、瑞葉は作業台に向かう。
 瑞葉の手ほどきは、五歳児相手でも完璧だ。本の損傷が軽微だったこともあり、瑞葉の指導を受けた過去の自分は、難なく修復を進めていく。そして、本を直し終えると同時に、瑞葉の怪我はまるで幻のように消え去った。

『……やはり、そうであったか』

 期待が確信に変わった。そんな口調で、瑞葉が呟く。
 隣でそれを聞いていた菜乃華は、ようやく彼の意図を悟った。

 おそらく瑞葉は、過去の菜乃華に祖母と同じ力が宿っている可能性があると考えたのだろう。だから、図らずも壊れてしまった自らの本体を、幼い菜乃華に託してみたのだ。すべては、彼自身が抱いた期待に対する答えを得るために……。

『ミズハ、おけが、なおった?』

『ああ、君のおかげだ。ありがとう、菜乃華』

 えへへ、と得意げな過去の菜乃華へ、瑞葉が笑い掛ける。そのまま彼はしゃがみこみ、小さな菜乃華と目線の高さを合わせた。