当時の瑞葉は、四角四面の本当に融通の利かない付喪神だった。神としての在り方を重んじ、それから少しでも外れる行いをする者があれば、例え自分より高位の神格を持つ者であっても、少しの容赦もなく責め立てる。相手にいかなる事情があろうと、関係ない。人と神の和を乱す者は、やむにやまれぬ理由があろうとも許さない。そういう純粋過ぎるまでに高潔な神だったのだ。

 そんな瑞葉の行いは、確かに正しかったのだろう。実際、瑞葉が堕ちた神の暴走を止めたことは、一度や二度ではない。それらの功績により、瑞葉は最低の神格しか持ち合わせない付喪神でありながら、高位の神に劣らぬ存在と目されていた。

「だが、当時の私は『神としての振る舞い』にこだわり過ぎていた。そして、正しさを重視するあまり、相手の心が見えていなかった」

 自身の行いを反省するように、瑞葉が淡々と語る。

 瑞葉は正しかったが、正し過ぎた。明らかに正しさが限度を超えていた。故に瑞葉は、周囲から畏怖され、敬遠されていた。恐れもせずに近付いてきたのは、古い馴染みである蔡倫くらいだ。
 そして同時に、瑞葉の苛烈なまでの高潔さは、少なくない数の同族から反感を買っていた。瑞葉の言動が引き金となり、争いが発生することなどざらであった。

 だから、その日の口論も、瑞葉にとってはいつもと変わらないもののはずだったのだ。
 きっかけはささいなことだ。人間の子供に遊びで神力を披露していた付喪神を、瑞葉が見咎めた。それだけであった。

「その付喪神は、子供たちを楽しませたかっただけだった。無論、その方法として神力を使ったのは、今でも間違っていると思っている。……ただ、それを窘めるにしても、やり方はいくらでもあったはずなのだ。頭ごなしに否定して彼を罵り、子供たちを追い返した私も、正しい行いをしたとは言い難かった」

 冷徹な目をした瑞葉に恐れをなし、子供たちは泣いて逃げ去った。そして、瑞葉の行いに対し、件の付喪神は怒(いか)った。

 自分の行動が軽率だったのはわかった。それについての非は認める。だが、子供たちを恐がらせる必要はなかったはずだ。悪いのは軽率な自分一人であって、あの子たちに罪はない。あの子たちに謝ってくれ。

 付喪神は怒りのままにそう言い募ったが、瑞葉はそれを『必要ない』の一言で一蹴した。
 いや、それだけではない。

『むしろ、好都合だ。これであの子供たちも、ここで見たことを吹聴することはしないだろう。これ以上、神と人の和が乱れることはない』

 当時の瑞葉は表情一つ動かさず、躊躇いなくそう言い放った。瑞葉にとっては、これが合理的な判断だったからだ。だが、これが相手の付喪神にとっての決定打になった。

 付喪神の怒りは頂点に達し、彼は瑞葉に掴み掛った。しかし、その付喪神はお世辞にも荒事が得意と言えそうにない、ひ弱な風貌の優男だった。数々の神と対峙してきた百戦錬磨の瑞葉からすれば、正に隙だらけの突貫である。少しいなしただけで、付喪神の体は瑞葉の後ろへ抜けていった。
 ただ、そこで一つ、瑞葉も予期していなかったことが起こった。

「……相手の付喪神が、私の背後にあった崖から転げ落ちていったのだ――」

 すべてが瑞葉たちにとって悪い方向に働いた。二人が対峙していたのは小高い丘の上であり、瑞葉の背後は切り立った五メートルほどの崖となっていた。相手の付喪神は、勢い余ってその崖に突っこんでしまったのだ。

 事態に気付いた瑞葉も急いで手を伸ばしたが、間に合わない。付喪神は、崖の向こうに消えた。

「慌てて崖の下へ降りてみれば、そこに付喪神の姿はなかった。あったのは、彼の本体と思われる、破損した本だけ……」

 本を破損すれば、付喪神は怪我をする。破損が大きくなれば怪我は重くなり、場合によっては付喪神としての姿を保てなくなる。付喪神の姿が消えたということは、彼の命が風前の灯火になっていることの現れだった。

「起こってしまった現実を直視して、私はようやく自分の傲慢さに気が付いたよ。相手を一方的に責め立てるだけだった私は、正義を振りかざす自分に酔っていただけだった。正論を盾にして、自分本位に振る舞っていた。私自身も、神としての自覚に欠ける者の一人だった、とな」

 当時の自分を振り返り、瑞葉が自嘲的な笑みを浮かべる。

 壊れた本を前にして、当時の瑞葉は立ち尽くした。相手が堕ちた悪辣な神であったなら、彼は何の躊躇いもなく自業自得と切り捨てていただろう。だがこの付喪神は、少なくとも自分の非を認めていた。それをわかっていながら、瑞葉はこの付喪神に対し、さらに追い打ちをかけてしまった。自分の側からの合理性だけを押し通し、相手の心情を思いやることができなかった。その結果として、こんな事故を起こしてしまった。

 本を抱きかかえた瑞葉は、すぐにその場を後にした。頭に浮かんだのは、九重の土地神のあっけらかんとした笑顔だ。ばつが悪いなんて言っている暇はない。今は、自分の未熟さで傷付けてしまったこの付喪神を救うことが先決だ。
 疾風のごとくいくつかの町を駆け抜け、瑞葉は二百五十年ぶりに九ノ重神社へとやってきた。

「ただ、そこに土地神の姿はなかった」

 瑞葉は語る。立派な社殿が建った九ノ重神社からは、あの土地神の存在を感じ取ることができなかった。祭神である、より高位の神による加護は感じられるものの、そこはすでに九重の土地神の社ではなくなっていたのだ。

 これは、当時の瑞葉にとって大きな誤算だった。当てが外れた瑞葉は、壊れた本を抱えたまま、その場で膝をついてしまった。

 九重の土地神がいないとなれば、もう頼れるのは高天原の神だけだ。しかし、次に高天原への門が開くのは、数か月後。せめて応急処置の一つでもできなければ、その神のもとに辿り着く前に、件の付喪神の命が尽きてしまうだろう。
 そうなれば、自分のせいで傷付いてしまった付喪神を救うことができない。自身の本が傷付いた時とは比べ物にならない痛みが、瑞葉を襲った。

 だがその時、おかしなことが起こった。ふと、九重の土地神と似た気配を感じたのだ。膝をついたままの瑞葉が呆然と振り返ると、そこには小さな男の子を連れた一人の女性が立っていた。

「……それがサエと、まだ幼かった洋孝だった」

 ずっと辛そうに顔をしかめていた瑞葉が、ふわりと表情を和らげる。

「あとはもう、頭で考えるより先に体が動いていてな。私は、藁にも縋る思いでサエの前に跪いた。目を丸くするサエに、力を貸してくれ、と頼み込んだのだ」

 九重の土地神と似た気配を持っているといっても、相手は明らかに人間だ。当時の瑞葉であれば、このようなことは絶対にしなかっただろう。

 しかし、この時の瑞葉にとって、その女性の存在は絶望の中で見た一筋の光だった。

 唐突に助けを求められても、気味悪がられるだけかもしれない。いや、仮に協力を得られても、彼女には何もできないかもしれない。それでも、今は彼女に賭けるしかない。諦めかけていたところに現れた最後の希望に、瑞葉は全身全霊をかけて助けを乞うた。

 それに対する彼女の返答は、本当に単純なものだった。

『なんだかよくわからないけど、わかったわ。あたしに任せなさい』

 瑞葉に顔を上げさせた彼女は、どんと胸を叩きながら気楽に笑ってみせた。そう、かつての九重の土地神のように……。

 状況は予断を許さないままであったが、瑞葉の絶望感は自然と薄らいだ。きっと何とかなる。そんな根拠のない確信が、瑞葉の中に満ちていったのだった――。