吟の家を辞した菜乃華と瑞葉は、急いで蔡倫たちが待つ朧車へと戻った。
 晴れやかな笑顔で戻ってきた菜乃華を労いつつ、一行が向かったのは、吟の家よりもさらに山奥だ。

「着いたぜ。ここがオイラのお勧め穴場スポットだ」

「おお! 何これ、すごいです。超絶景!」

 蔡倫と一緒にすだれの外に顔を覗かせ、辺りを見渡す。そこに広がっていた光景に、菜乃華は目を輝かせた。
 蔡倫が一行を案内したのは、森の狭間にある滝の畔だ。轟々と水が流れ落ちる滝の周りを、とりどりに色付いた楓や銀杏の木が縁取っている。滝つぼから川を流れていく赤や黄色の落ち葉が、何とも雅で風流だ。

「ここは山道から少し外れたところにある滝でな。山道付近にはもっと大きな滝もあるから、登山客もわざわざこっちまでは来ない。つまり、貸し切りでこの景色を楽しめるってこった」

 どうだ、すごいだろう、という視線を寄こしてくる蔡倫に、菜乃華も全力で頷く。
 穴場のスポットとは聞いていたが、こんな絶景を独り占めなんて贅沢過ぎる。さすがは神様、やることが大きい、などと妙に感心してしまった。

 神田堂上空と同様に、朧車はここでも地面まで下りることができない。そこで菜乃華は、再び瑞葉にお姫様抱っこをしてもらい、朧車から降りた。一日に何度も瑞葉にお姫様抱っこしてもらえるなんて、なんという役得だろう。これだけでも、紅葉狩に来た甲斐があったというものである。後ろで柊が悔しそうに瑞葉を見ているが……ごめん、やっぱり好きな人のお姫様抱っこの方がいい。

 ただ、今日の本番はここからだ。ここから、瑞葉に手料理を食べてもらうという、一大イベントが待っている。母の言葉を真に受けたわけではないが、菜乃華も瑞葉の胃袋とハートを仕留める覚悟でこの場に臨んでいた。

「お腹も空いたし、早速お弁当にしようか。今、レジャーシート敷くね」

「菜乃華さん、手伝いますよ」

「ありがとうございます、柊さん。じゃあ、そっち持ってください」

 重箱を瑞葉に持ってもらい、家から持ってきたレジャーシートを柊と協力して河原に敷く。シートの端に石を載せたら、靴を脱いでシートの中心に重箱を広げていった。
 程なくして、菜乃華渾身のお弁当がシートの上にきれいに並んだ。

「ほほう。こいつはすげえ。これ、全部お嬢ちゃんの手作りかい?」

 シートに座った蔡倫が、並べられた料理を見て感嘆の声を上げた。その隣では、柊が目を輝かせ、クシャミがよだれを垂らしている。

「揚げ物系はお母さんに手伝ってもらいましたけど、他は食材の仕込みから私がやりました。お口に合えばいいんですけど」

 紙皿と割り箸を取り出した菜乃華は、ちらりと瑞葉の方を窺った。
 シートの一角に座った瑞葉は、穏やかな顔でお弁当を見ている。菜乃華の料理についてどういう感想を持ったのか、その表情からだけでは計り知ることができない。

「さあ、いっぱい食べてくださいね」

「おう! 相伴に預かるぜ」

「いただきます!」

 蔡倫と柊が、我先にとおかずへ箸を伸ばす。手早くおかずを自分の紙皿に持った彼らは、二人揃ってまずベーコン巻きにかぶりつき、これまた二人揃って目を丸くした。

「うまいな、これ。ここまで料理が上手いとは、驚きだ。嬢ちゃん、いい嫁さんになるぜ」

「僕、もう死んでもいいかも……」

 おかずにがっつく蔡倫と、感涙にむせび泣く柊。揃ってオーバーなリアクションだが、褒めてもらえるのは素直にうれしい。クシャミの分の料理を取ってあげながら、菜乃華は「ありがとうございます」と笑顔で応じた。

 だがしかし、菜乃華が一番気にしているのは残る一人の感想だ。渾身の筑前煮を口に運ぶ瑞葉を凝視する。

「どう……かな、瑞葉。おいしい?」

 恐る恐る瑞葉に感想を尋ねる。先程から、菜乃華の心臓はドキドキと早鐘のように鼓動を打っていた。早く感想を聞きたいが、聞くのが少し怖い。でも、やっぱり聞きたい。
 どんな答えが返ってくるのか緊張しながら待っていると、煮物を味わっていた瑞葉がゆっくりと口を開いた。

「うまい。だが、正直に言えば、味付けはまだサエの方が上だな」

「…………。そっか……」

 瑞葉らしい忌憚ない感想に、胸のドキドキが急速に静まっていった。後の残ったのは、寂寥感と敗北感だ。やっぱり自分は、まだ祖母には勝てないらしい。好きな人の一番には、まだなれない。少し、いや、とても残念だ。祖母のことは尊敬している。けれど、どうしても悔しくて、油断すると涙が零れそうになった。

 ただ、瑞葉の感想は、それだけでは終わらなかった。

「そう、味付けはサエの方が上だ。……けれど、なぜだろうな。君が作ってくれた筑前煮の方が、おいしく感じる。食べると、なぜか心が温まる」

 そう言って、瑞葉はもう一口、筑前煮を食べる。そして、「やはりうまい」とどこか満足げに繰り返した。

 瑞葉の言葉を聞きながら、呆けた顔で筑前煮を食べ続ける彼を見る。菜乃華の目から、再び涙が零れそうになった。だがそれは、悔し涙ではない。温かな幸せの結晶だ。
 浮かんだ涙を指で掬い、口元に笑みを浮かべたまま、菜乃華は呟く。

「当然だよ。だって……」

 だって、誰にも負けないくらい、あなたへの愛情を籠めて作ったから。心の中でだけ、そう付け加えておく。

「ん? 『だって……』、なんだ?」

「ごめん、ここから先は秘密。だってこれは、瑞葉のためのとっておきの隠し味だから」

 唇に人差し指を当て、頬をピンク色にしながら、瑞葉に向かって悪戯っぽく微笑む。
 今は、ここまで言うのが精一杯。みんながいる前で、まだこれ以上は言えない。
 だから代わりに、全力で笑う。自分は今とても幸せだ、と示すように。

「瑞葉、こっちの卵焼きも食べてみてよ。こっちも結構、自信作だから。それから、このポテトサラダも」

「ああ、いただこう」

 瑞葉の紙皿にぽんぽんとおかずを載せていく。そんな菜乃華を穏やかに見つめながら、瑞葉は料理を口に運んでいく。そして、その度に「うまい」と呟いた。

 こんな幸せな時間が、いつまでも続けばいいのに。自分が作った料理を食べる瑞葉の隣で、そう願わずにはいられない菜乃華だった。