「それでは、早速修復を始めよう」
作業スペースに、瑞葉の涼やかな声が響く。
今この場にいるのは、菜乃華と瑞葉、そして修復を受けるクシャミのみだ。作業に集中できるよう、柊には席を外してもらっている。
余談だが、今の状況を作るまでが、また一苦労だった。なぜなら、柊が「自分もここにいます!」と、ずっとごねていたからだ。それはもう、梃子でも動かぬと言わんばかりに頑固だった。
また柊に取り乱されると大変なので、修復中は外で待っていてほしい。けれど、それを本人に直接言えるほど、勇猛果敢にはなれない。おかげで菜乃華は大弱りだ。強情な柊を前に、どうしたものかと途方に暮れた。
すると、困り切った菜乃華に救いの手が差し伸べられた。
「君は心配性過ぎるきらいがあるからな。作業を見て取り乱されると、一番困るのはクシャミだ。気になるのはわかるが、ここは我々に任せてくれ」
瑞葉が菜乃華の代わりに進み出て、苦笑混じりに説得してくれたのだ。はっきりものを言える店員に感謝である。
柊も、取り乱した自分が何をするかわからないことは理解していた。実際、それでクシャミの本体のページを破ってしまったわけであるし。真正面から指摘を受けて熱が冷めた柊は大人しく引き下がり、「一時間後に戻ります」と店を後にしたのだった。
「今回は、ページの抜け落ちと破れの補修となる。おあつらえ向きなことに、昨日までに練習してきた内容だ。菜乃華、修復方法は覚えているか?」
「うん。大丈夫だと思う」
「よし。では、時間もないからな。道具を用意したら、破れたページの補修から始めよう」
手順を確認し、菜乃華と瑞葉は手分けして道具の準備を始めた。
菜乃華は水汲み係として台所へ直行する。その間に、瑞葉が箪笥から必要な道具を取り出していく。長年この仕事をやってきただけあって、瑞葉の手際の良さは抜群だ。一分もしない内に、筆や澱粉糊などの道具が、作業台の上に並んだ。
「まずは修復用の糊を作ろう。やり方はわかるな」
「任せといて」
菜乃華はドンと胸を叩き、澱粉糊と水、食品用のラップに手を伸ばした。
同時に、瑞葉がつい先日教えてくれたことが、頭の中でリフレインする。
『菜乃華、よく覚えておけ。市販の澱粉糊は、そのままでは本の修復に適さない。取り出したままの濃度で使うと、糊が乾燥した際に、紙が必要以上に固くなってしまうからだ。特に古い本の修復では、それが更なる損傷につながってしまうことだってあり得る。故に、水を使って糊を適正な濃さまで薄める必要がある』
菜乃華にとっては、正に目から鱗の事実だった。もちろん、セロハンテープを使うなんて、もってのほか。百害あって一利なし、だ。それを聞いて、自分の本が破れた際にセロハンテープを使っていた菜乃華は、責められたわけでもないのに肩を落としたものだ。
ともあれ、瑞葉の教えに従って、糊を準備していく。
「糊をラップの上に乗せて、水をかけてっと」
マニュアルの内容を復唱しながら、せっせと手を動かす。澱粉糊に水をかけ終わったら、ラップで包んで揉み解す。こうすることで、水と糊を斑なく混ぜることができるのだ。
しばらくすると、のりはドレッシング程度の固さになった。早速、できあがった糊を瑞葉に見せる。
「瑞葉、これくらいの固さでいいかな?」
「そうだな……。紙が脆いから、もう少し水を加えた方が良いだろう」
「もう少しだね。了解、やってみる」
瑞葉にアドバイスをもらい、糊に水をもう数滴垂らす。水を加えたらラップを閉じて、もう一度揉み解していく。
十分混ざったら、再び瑞葉に確認してもらい、今度はOKをもらうことができた。これで、糊は完成だ。
いよいよ次は本当の本番。本の修復開始である。
クシャミの本体の前に立ち、一つ深呼吸する。心を落ち着かせ、作業台の上の文庫本を手に取った。
まずは、破れたページの修復だ。柊が破いてしまったページを開いたら、他のページを汚さないよう、適当な紙を挟んでおく。
「本は私が支えておく。君は作業に集中しろ」
「了解。ありがとう、瑞葉」
開いたページを瑞葉に預け、利き手に筆を取る。今回は手で破った傷のため、破れ目の断面が斜めになっていて、重なる部分ができている。これなら、断面に直接糊を塗れるから、貼り合わせるだけできれいに直せるだろう。糊をちょんちょんと筆先で少量すくい、慎重に破れた断面へ塗っていく。
「できるだけはみ出さないように、焦らず、ゆっくりと。これを忘れるな」
「焦らず、ゆっくりと……」
瑞葉の言葉を復唱しながら、作業を進めていく。断面部分すべてに糊を塗り終わり、ページの破れた部分を貼り合わせる。
ただ、貼り合わせた際、少し糊がはみ出てきた。少し糊が多かったようだ。
「瑞葉、これって固く絞った濡れ布巾で丁寧に拭き取っておけばいいんだっけ?」
「ああ、そうだ。そこに用意しておいた布巾で大丈夫だから、糊が乾く前に手早くやってしまおう」
「OK!」
瑞葉に本を支えてもらったまま、布巾ではみ出した糊を拭っていく。
最後に、糊で貼り合わせたページをクッキングシートで挟む。クッキングシートには糊がくっつかないから、これできれいに乾かせるはずだ。
「よし、できた!」
「ああ、上出来だ。よくやった、菜乃華」
額の汗を拭って一息つく菜乃華へ、瑞葉も合格点を出す。
上々の滑り出しだ。菜乃華もうれしそうに頬を緩めた。
作業スペースに、瑞葉の涼やかな声が響く。
今この場にいるのは、菜乃華と瑞葉、そして修復を受けるクシャミのみだ。作業に集中できるよう、柊には席を外してもらっている。
余談だが、今の状況を作るまでが、また一苦労だった。なぜなら、柊が「自分もここにいます!」と、ずっとごねていたからだ。それはもう、梃子でも動かぬと言わんばかりに頑固だった。
また柊に取り乱されると大変なので、修復中は外で待っていてほしい。けれど、それを本人に直接言えるほど、勇猛果敢にはなれない。おかげで菜乃華は大弱りだ。強情な柊を前に、どうしたものかと途方に暮れた。
すると、困り切った菜乃華に救いの手が差し伸べられた。
「君は心配性過ぎるきらいがあるからな。作業を見て取り乱されると、一番困るのはクシャミだ。気になるのはわかるが、ここは我々に任せてくれ」
瑞葉が菜乃華の代わりに進み出て、苦笑混じりに説得してくれたのだ。はっきりものを言える店員に感謝である。
柊も、取り乱した自分が何をするかわからないことは理解していた。実際、それでクシャミの本体のページを破ってしまったわけであるし。真正面から指摘を受けて熱が冷めた柊は大人しく引き下がり、「一時間後に戻ります」と店を後にしたのだった。
「今回は、ページの抜け落ちと破れの補修となる。おあつらえ向きなことに、昨日までに練習してきた内容だ。菜乃華、修復方法は覚えているか?」
「うん。大丈夫だと思う」
「よし。では、時間もないからな。道具を用意したら、破れたページの補修から始めよう」
手順を確認し、菜乃華と瑞葉は手分けして道具の準備を始めた。
菜乃華は水汲み係として台所へ直行する。その間に、瑞葉が箪笥から必要な道具を取り出していく。長年この仕事をやってきただけあって、瑞葉の手際の良さは抜群だ。一分もしない内に、筆や澱粉糊などの道具が、作業台の上に並んだ。
「まずは修復用の糊を作ろう。やり方はわかるな」
「任せといて」
菜乃華はドンと胸を叩き、澱粉糊と水、食品用のラップに手を伸ばした。
同時に、瑞葉がつい先日教えてくれたことが、頭の中でリフレインする。
『菜乃華、よく覚えておけ。市販の澱粉糊は、そのままでは本の修復に適さない。取り出したままの濃度で使うと、糊が乾燥した際に、紙が必要以上に固くなってしまうからだ。特に古い本の修復では、それが更なる損傷につながってしまうことだってあり得る。故に、水を使って糊を適正な濃さまで薄める必要がある』
菜乃華にとっては、正に目から鱗の事実だった。もちろん、セロハンテープを使うなんて、もってのほか。百害あって一利なし、だ。それを聞いて、自分の本が破れた際にセロハンテープを使っていた菜乃華は、責められたわけでもないのに肩を落としたものだ。
ともあれ、瑞葉の教えに従って、糊を準備していく。
「糊をラップの上に乗せて、水をかけてっと」
マニュアルの内容を復唱しながら、せっせと手を動かす。澱粉糊に水をかけ終わったら、ラップで包んで揉み解す。こうすることで、水と糊を斑なく混ぜることができるのだ。
しばらくすると、のりはドレッシング程度の固さになった。早速、できあがった糊を瑞葉に見せる。
「瑞葉、これくらいの固さでいいかな?」
「そうだな……。紙が脆いから、もう少し水を加えた方が良いだろう」
「もう少しだね。了解、やってみる」
瑞葉にアドバイスをもらい、糊に水をもう数滴垂らす。水を加えたらラップを閉じて、もう一度揉み解していく。
十分混ざったら、再び瑞葉に確認してもらい、今度はOKをもらうことができた。これで、糊は完成だ。
いよいよ次は本当の本番。本の修復開始である。
クシャミの本体の前に立ち、一つ深呼吸する。心を落ち着かせ、作業台の上の文庫本を手に取った。
まずは、破れたページの修復だ。柊が破いてしまったページを開いたら、他のページを汚さないよう、適当な紙を挟んでおく。
「本は私が支えておく。君は作業に集中しろ」
「了解。ありがとう、瑞葉」
開いたページを瑞葉に預け、利き手に筆を取る。今回は手で破った傷のため、破れ目の断面が斜めになっていて、重なる部分ができている。これなら、断面に直接糊を塗れるから、貼り合わせるだけできれいに直せるだろう。糊をちょんちょんと筆先で少量すくい、慎重に破れた断面へ塗っていく。
「できるだけはみ出さないように、焦らず、ゆっくりと。これを忘れるな」
「焦らず、ゆっくりと……」
瑞葉の言葉を復唱しながら、作業を進めていく。断面部分すべてに糊を塗り終わり、ページの破れた部分を貼り合わせる。
ただ、貼り合わせた際、少し糊がはみ出てきた。少し糊が多かったようだ。
「瑞葉、これって固く絞った濡れ布巾で丁寧に拭き取っておけばいいんだっけ?」
「ああ、そうだ。そこに用意しておいた布巾で大丈夫だから、糊が乾く前に手早くやってしまおう」
「OK!」
瑞葉に本を支えてもらったまま、布巾ではみ出した糊を拭っていく。
最後に、糊で貼り合わせたページをクッキングシートで挟む。クッキングシートには糊がくっつかないから、これできれいに乾かせるはずだ。
「よし、できた!」
「ああ、上出来だ。よくやった、菜乃華」
額の汗を拭って一息つく菜乃華へ、瑞葉も合格点を出す。
上々の滑り出しだ。菜乃華もうれしそうに頬を緩めた。