未来

 あの時、彼がいてくれたから、私は今ここで美術の教師をしている。困っている人を助けることができて、夢を応援することができる仕事。

 そして絵を描くことが好きな私にとって、その仕事はまさに天職だと言っても過言ではなかった。

 いつか、こんなにも成長した姿を、一番大切だった彼に見てほしい。私は今勤務している高校に正式に採用されたときから、ずっとそのようなことを考えていた。

 自分で伝えることは、できなかった。彼が大学をやめてしまったときに、連絡先を削除したから。彼が通っていた大学への未練を断ち切ったように、私も彼への未練を断ち切らなければいけないと思ったから。連絡を取る手段があれば、ふとした時に彼のことを思い出してしまう。結局のところ、今までに一度たりとも彼のことを忘れたりはしなかったけれど。

 また新しい年が巡ってきて、高校の周りに桜の花が咲き始める。校門の前を桜のトンネルが彩り、その下をたくさんの新入生が新しい制服に身を包んで登校していた。男の子は一般的なブレザーで、女の子は襟がえんじ色であることが特徴的なセーラー服。

 一目見て、この高校の生徒であることがわかり、かつおしゃれであることから、他校の女生徒の間でも評判らしい。

 夏はまっ白なセーラー服で、襟とリボンは爽やかな水色をしていて、こちらも人気である。

 入学式を終えてしばらくすると、美術部へ入部したいという生徒たちが、職員室の私の机へ入部届を持ってくる。入学前に美術準備室に来てくれた由紀ちゃんは、真っ先に私のところへとやってきて、入部届を提出してくれた。彼女の目は、未来の期待に満ちた色をしている。

「入学おめでとう! これから三年間、一緒に頑張ろうね!」
「はい!」

 返事をした由紀ちゃんの着ている新しい制服は、成長することを見越してなのかぶかぶかだった。成長して、少しづつ制服を着こなしていく彼女を見るのがこれから楽しみだ。

「由紀ちゃんは、あれから新しい漫画を描いたの?」

 そう訊ねると、体をもじもじとさせながら、恥ずかしげに彼女は頷いた。

「実は、持ってきてます……」
「え! 見てみたい!」
「そんなに、絵が上手じゃないかもしれません……」
「これから三年間で、もっとうまくなっていくんだから。全然気にしなくてもいいんだよ」

 励ましてあげると、由紀ちゃんはおずおずと、カバンの中から原稿の束を取り出した。それを私に手渡してくれる。

「今、見てみていい?」
「……はい」

 とても緊張しているのか、私が原稿用紙に視線を落とすと、彼女は羞恥に耐えるように目をつぶった。それがなんだかかわいくて、くすりと微笑む。私は原稿を読むことに集中したけれど、すぐにあることに気付いた。

「これ、私が大学生の頃に流行った小説の話だよね?」

 当時映画も見に行ったし、原作も読んだことがある。というより、私ぐらいの年代の人なら、多くの人がそのどちらも見たことがあるんじゃないだろうか。

 私の疑問に、由紀ちゃんは答えてくれた。

「お母さんの持ってた小説を読んで、こういう話を漫画で描いてみたいなって思ったんです。だから、いつかこの人の小説を私が漫画化して、いろんな人に作品を知ってもらいたいなって……」

 だからその作者の小説を漫画で描いたのかと、私は納得する。冒頭だけだけれど、違和感なく原作の内容がまとめられていて、由紀ちゃんはお話をまとめるのが上手いんじゃないかと思った。

「私も、あの小説家のお話し、全部好きなんだよね」
「先生もですか?」
「うん。感動しちゃう話が多くて、いいよね。小鳥遊先生の小説は」

 そう言うと、由紀ちゃんは全力で頷いてくれた。彼女は、小鳥遊先生の小説がとっても大好きなのだろう。

「この前、サイン会があったんですけど、電車に乗り継いで行ってきました」
「すごい行動力だね。そんなに大好きなら、何が何でもデビューして、先生の小説を漫画にしなきゃ!」
「はい!」

 元気な由美ちゃんの声を聞いて、私もたくさん元気が湧いてきた。

 チャイムが鳴って、由紀ちゃんが職員室を出て行ってから、私はまた、明日の授業の準備を始めた。わかりやすい授業を行うためには、入念な準備を怠ってはいけない。授業を受けてくれる生徒が、一人でも絵に興味を持ってもらえるように、私は毎日めげずに頑張っている。

 そして今日も机のパソコンに向かって、生徒に配布するレジュメを作っていると、教頭先生に「先生、ちょっといいですか」と話しかけられた。私は作業を中断して、「はい、なんでしょうか」と訊き返す。

「実は今日、お客様がお見えになるんですけど、こちらに来るのが十一時ごろでして。もしお時間が空いていましたら、応接室に案内していただけないでしょうか」

 私はすぐに何も予定がないことを確認して、「わかりました」と返事をする。教頭先生は「では、よろしくお願いしますね」と言って、仕事に戻った。私も、すぐに作業に戻った。



 お客様を待たせるわけにはいかないと思い、十時三十分には玄関で待っていた。

 けれど中々お客様は現れず、そういえばどんな人が来るのかを聞いていなかったと、私は今更ながらに思い出していた。

 もしかすると見落としているのかもしれないと思ったが、今までにここを通った人は一人もいなかった。だとすれば、もしかすると私よりも早くにここへきていたのかもしれない。そうなると、どこへ行ったか分からないし、探すのが少々やっかいだ。

 私は念のために、十一時三十分までお客様を待ち続け、それから校内を歩き回った。

 もしかすると、辺りを見学しているかもしれないから。そう思い、私はアテモなく音楽室や体育館、果ては体調不良を疑って保健室へ行ってみたけれど、お客様は見えられていなかった。

 本当に、どういうことなのだろう。そう疑問に思い始めたとき、ある一つの予想が新たに生まれた。この学校は美術科があるため、美術室に興味を持ったとしても不思議ではない。まさに、灯台下暗しというやつだ。

 わずかな望みを抱きながら、私のテリトリーへと足を向ける。そしてたどり着いた美術室のドアを、私はそっと開けた。

 一人の男性が、生徒の描いた絵を興味深げに見つめている。やはり私の予想は当たったようだ。彼の背中に、声をかける。

「すみません、少しいいですか」

 彼が、こちらを振り返る。その表情は、太陽の光の眩しさで、上手く見ることができなかった。

「本日、お客さまが十一時に来校されるとうかがっています。申し訳ありませんが、間違いありませんでしょうか?」
「はい、私です」

 私はその言葉を聞いて、密かにホッとする。お客さまを見失ってしまえば、教頭先生に大目玉だったから。

「今日は、ある方に会いに来たんです」
「ある方、ですか?」
「はい。この高校の新しい制服を、多くの新入生の方が着てくれた時に、会いに来ようと決めていました」

 この高校の、新しい制服。そう、私の勤務しているこの高校は、今年度で従来の制服が役目を終えて、新しい制服へと移り変わった。新しい制服は多くの中学生の注目を集め、今年は新しい制服を目当てに入学してくる子が多いと聞いていた。

 たしか、制服のデザインをしてくれたのは、この高校の卒業生だと教頭先生が言っていたのを覚えている。なんとなく名前を聞いたこともあったが、なぜかはぐらかされて、教えてはくれなかった。

「では、その先生の所へ案内させてください。差し支えなければ、教えていただいても構わないでしょうか?」
「いえ、もう会えましたから」

 やはり、少しだけ彼を見つけるのが遅れてしまったのだろう。これは、後で教頭先生に怒られる。私はなんとなく、憂鬱な気持ちになった。

「それでは、せめて玄関まで案内しますよ」

 そう私が提案をすると、彼がこちらへ一歩近付いてくる。だんだんと顔の輪郭がハッキリとしてきて、私は瞬きをした後に、もう一度彼のことを見た。そしてあまりの驚きに、私は目を見開き、知らず知らずのうちに涙が溢れだしていた。

 諦めずに必死に生きていれば、こんな奇跡もあるのかもしれない。私は、心の内から溢れてくるその嬉しさを、うまく言葉にすることができなかった。

 私たちの左手に巻いたお揃いの時計が、カチリと動き出す音だけは、耳の中で鮮明に響いた――