梓がどこへ行ったのか。それは三十分ほど後、すぐにわかった。荒井さんから電話が来て『梓さんが家に来てるんだけど』と、教えてくれた。

 今は電話をするために外へ出ているらしく、その声には不機嫌さが現れている。

「すみません、ちょっと色々あって……」
『梓さんが怒るなんて、よっぽどだよ。今まで怒ったところなんて、見たことがないから』
「やっぱり怒ってますか……?」
『聞いても何も教えてくれないし、怒ってるのは確かだよ。滝本さんの名前出したら、泣きそうな表情になってたけど』

 梓を辛い気持ちにさせてしまったことを、強く反省した。本当に、こんなはずじゃなかったのに。

「……少しの間、梓をお願いしてもいいですか?」
『別にいいけど、仲直りするなら早くしてね。落ち込んでる人が部屋にいると、私まで気分沈むから』
「頑張ります……」

 最後にお礼を言って、僕は通話を切った。時間が解決してくれるなんてことに、期待するのはよくないのだろう。傷付けてしまった梓としっかり向き合って、許してもらう他に選択肢はない。

 だとしたら、どうすれば仲直りできるのか。梓が望むのは、僕が服飾の道を目指すこと。でも、そのために両親を説得するなんてことは難しい。

 そんな理由をつけて、僕は現状から逃げていた。やってもいないのに無理だと決めつけて、行動しようとしない自分が嫌になる。

 僕は今までに、服飾の道に進みたいと思うことは何度もあった。隠さずに自分の気持ちを言うならば、後悔がある。人生であんなにも打ち込んだことだから。もし叶うのならば、迷わずに今とは違う選択をしていただろう。

 僕は、どうすればいいのかわからない。梓の言葉を思い出すたびに、服飾への未練が心の内から湧いてきて、けれどそのたびに梓との将来を考えてしまっている。彼女との将来なんて、何も保障されていないのに。

 僕は絡まった思考の中で、もがき苦しんでいた。初めから服飾の道なんて目指さずに、早々に諦めていればこんなことにはならなかったのに。梓へ手作りのコートなんてプレゼントせずに、ブランド物のアクセサリーをプレゼントしていれば、こんなことにはならなかったのに。今更過ぎ去ったことを嘆いても、なんの解決にもならないことはわかっていた。
そんな風にいつまでも悩んでいると、僕のスマホに着信が来る。梓からの着信かと思いポケットの中に手を突っ込むが、相手は水無月からだった。それに落胆しつつも、僕は後輩からの電話を取る。

「もしもし」

 わずかな間の後、水無月の元気な声が聞こえてきた。

『もしもし悠さん。今日は、悠さんの大好きな梓さんの誕生日なので、オススメのお店を紹介しようと思って電話しました』

 いつもよりはしゃいでいる水無月に、僕は申し訳ない気持ちになる。

「ごめん……今、それどころじゃない」
『えっ?』
「ちょっと、喧嘩しちゃって……」
『喧嘩、ですか……?』

 水無月に、詳しく聞かせてくださいと言われ、僕は彼女になら話してもいいだろうと思い、全部事情を説明した。水無月は、僕が服飾の道に興味があったことを知っているから。マフラーをプレゼントした時に、それは全部話した。

 水無月は、僕の話を相槌を打ちながら真剣に聞いてくれる。それが本当に、ありがたかった。そして全てを話し終えた後、水無月は呟く。

『それは、難しい問題ですね』
「うん……」
『私が先輩の立場でも、悩むと思います。梓さんとの将来の安定を取るか。自分の、本当にやりたかったことを取るか』

 梓の望んでいることは、圧倒的に後者だ。梓は僕との将来よりも、僕の夢を叶えることを考えている。僕が、後悔をしない選択をすることを、願っている。けれど、たとえ僕はどちらを選んだとしても、きっと後悔する。かけられた天秤は、それほど僕の中で比重が大きい。

「正直、進路のことで親に反発しようなんて、考えたこともなかったんだ。ましてや、梓にそんなことを言われるとも、思ってなかった」
『私は逆に、梓さんならそう言うんだろうなと納得してます』
「それは、どうして?」
『あの人は、すごく友達思いな人ですから。自分を支える代わりに、悠さんのやりたかったことを叶えられなくなるなんて、そんなことを知ってしまったら、私のことを気にせずに夢を叶えて欲しいと言うはずです』

 たしかに、よく考えれば梓がそう思うのは不思議ではなかった。彼女は、そういう女の子だから。

 これから僕は、どうしたらいいのだろう。半年前にも、梓へそんな相談をした。今は、水無月に。自分で決めることができないから、迷惑をかけてしまっている。

 やはり、こういうのは自分で決めなきゃいけない。誰かに頼ってばかりじゃ、相手にしっかりと向き合っているとは言えない。ここ最近は、ずっと誰かのお世話になりっぱなしだった。梓に水無月とのことを相談して、荒井さんに梓との仲を取り持ってもらって、水無月に背中を押してもらって。僕は、自分の選んだ選択に、責任を持てるようにならなきゃいけない。

 だから水無月にお礼を言って、通話を切ろうと思った。けれど、水無月は言う。

『すごく、後悔してるんですよね』

 その声は、僕の心を見透かしたかのような響きをしていた。

『自分のできなかったことだから、自分に梓さんを重ねて、夢を叶えて欲しかったんですよね』

 それは僕の本心なのだろう。だから水無月の言葉に、何も言い返すことができなかった。

『悠さんはもう少し、自分のために生きるべきです。いつまでも両親に縛られていたら、いつか振り返った時に後悔しますから』
「……それで僕の選んだ道で後悔したら、元も子もないんじゃない?」

 僕のその問いに、水無月は明るい声であっけらかんと答えた。

『大丈夫です。私たちはまだ若いんですから、一度失敗してもなんとかなりますよ。やり直しなんて、いくらでも効きますから』

 その言葉で、僕の心はスッと軽くなったような気がした。いつまでも引っかかっていた、後悔するかもしれないという後ろ向きな気持ち。自己否定をする、弱い心。失敗するかもしれないと怯えていたけれど、たしかに彼女の言う通りだ。
失敗してもいい。

 きっと、いくらでもやり直しが効くのだから。

『月並みな言葉ですけど、やらないで後悔するよりも、やって後悔するべきだと私は思います。悠さんならきっと、まだまだ前に進めます!』
「……ごめん、たくさん迷惑かけちゃって」
『謝罪禁止だって、前にも言いましたよね。そういう時は、もっと違う言葉の方が嬉しいんです』
「……ありがとう」

 これじゃあ、どっちが先輩なのかわからない。人間的にも、精神的にも、水無月はずっと大人だ。高校生の頃は生徒をまとめ上げ、僕は今も昔もそんな彼女のことをかっこいいと思っている。

「水無月は、すごいよね。スッパリといろいろ決められて。後悔とか、したことあるの?」
『そんなの、たくさんありますよ。後悔したことのない人なんて、どこにもいませんから』
「水無月でもそういうこと、あるんだ」
『だって私、今も絶賛やり直し中ですから』
「そうなの?」
『はい。美大に入学したこととか、実は後悔してます』
「美大、やっぱり大変なんだね」
『大変なのは、最初からわかってたので。後悔してるのは、こっちの美大に来てしまったことそのものです』

 僕が首を傾げたのが水無月に伝わったのか、くすりと微笑む声が聞こえてくる。

『別に美大なら、地元にもあるのでそっちでよかったんですよ』
「そういえば、向こうにも美大はあるよね。どうして、こっちまで来たの?」
『それは内緒です』

 肝心なことは教えてくれなくて、僕は拍子抜けする。おそらく、あまり人に話したくないことなのだろう。僕はそれ以上、聞こうとはしなかった。

『でも、後悔していても、私は私でちゃんとやってますよ。悠さんは心配しないでくださいね』
「うん。水無月なら、大丈夫だってわかってるから」
『信頼されてるんですね』
「そりゃあ、一年間一緒に生徒会した仲だから。良いところも悪いところも、知ってるよ」

 電話口から水無月の小さな笑い声が聞こえてきて、僕も笑みがこぼれる。なんだか懐かしいなという気持ちになって、僕らはようやくあの頃に戻ることができたのだと気付いた。やり直しはいくらでも効く。水無月の言う通りだ。

『それで、進むべき道は定まりましたか?』

 その水無月の問いに、僕は強く頷く。きっと、上手くいく。そんな気がした。

「もう、大丈夫」
『それなら、よかったです。二人が上手くいくのを影ながら応援してますね』
「本当に、ありがとう」

 それからわずかな間の後、水無月は言った。

『もし、悠さんが失敗をして、梓さんからも愛想を尽かされたら、私のところへ来てもいいですよ。悠さん一人なら、私が養ってあげます』
「そうならないように気をつけるよ」

 彼女のそんな冗談に、僕は苦笑する。いくらお世話になっている後輩だからといって、そこまで迷惑をかけるわけにはいかない。

 水無月も、電話の向こうで笑った気がした。そして最後に『頑張ってください』という言葉を彼女が呟いて、通話は切れる。

 進むべき道は定まった。いつまでも僕の心の中にくすぶり続けるもの。それをくすぶらせたまま、後悔なんてしたくない。

 僕はもう、水無月と梓のおかげで、相手を喜ばせることの嬉しさを知ってしまった。もし叶うのなら、それがまだ遅くないのなら、僕が決めた夢を追いかけたい。

 それが、僕の選んだ答えだった。