公園の中央には大きな木が植えられており、暗い夜空に向かっていくつもの枝葉が伸びていた。僕らは、すべり台の近くにある木製の椅子に腰掛ける。深夜の公園に子どもの姿があるはずはなく、僕ら二人だけの貸切状態だった。

 話が終わってしまえば、あとはアパートへ帰るだけになる。だから少しでも多岐川さんとの時間を引き延ばしたくて、公園までやってきた。けれど遅くなりすぎると彼女に迷惑がかかるため、すぐに話を始める。

「僕の大好きだった人は、すごく友達思いな奴だったんだよ。嬉しい時は一緒に笑って、悲しい時は一緒に泣くような、そんな女の子」

 前にも一度、多岐川さんに水無月とのことを話した。その時の多岐川さんは僕のために泣いてくれて、とても嬉しかったのを今でも覚えている。

「いつか、さようならを好きになれる。多岐川さんはそんなことを教えてくれたけど、正直なところ、僕には無理だなって思ってた。ずっと好きだったから、今更前向きに捉えることなんてできないって」

 だから忘れる努力をしようと思った。けれど忘れられるはずがなくて、あの日、水無月から電話がかかってきた時に、僕はようやく改めて気付いた。僕は水無月の、友達思いなところが、好きだったんだって。他人の幸せは、自分の幸せ。そんな生き方を貫いている水無月のことが、好きだった。

「僕が彼女のことを忘れたりしたら、彼女のことを好きだった気持ちを否定することになる。そんなことは、嫌だったんだ。だって今でも変わらず、僕は彼女のそういうところが、好きだから」

 思いが届かないから、好きだった人のことを忘れようとするなんて、間違っている。たとえ未練がましいと言われても、それだけは曲げることが出来なかった。

 だって。

「僕のことをフッた時まで、彼女は友達のことを大切にしてた。そんな彼女のことを好きになったんだから、仕方ないなって思えたんだ」

 水無月の決めたことだから、さようならという言葉を好きになれた。この恋から、身を引くことができた。その気持ちに、後悔なんてない。

 水無月自身が、最後に僕の背中を押してくれたから。彼女の大切な人の中に、僕が入っているのだということを知れたから。僕はそれだけで、よかった。

 僕の話をただ黙って聞いてくれていた多岐川さんは、それから嬉しそうにポツリと呟いた。

「よかったです。滝本さんの気持ちに、整理がついて」
「ありがとう。多岐川さんのおかげだよ」
「私はただ、歌ってただけですから」

 そんな冗談を言って、多岐川さんは微笑む。彼女の笑顔に、僕はいつも救われていた気がする。一番辛かった時、僕の気持ちを察してくれて、元気が出るように焼き鳥屋へ連れて行ってくれた。僕の話を聞いてくれて、泣いてくれた。僕のために、泣いてくれた。僕はそれが、たまらなく嬉しかった。

「この前、バイトが終わった後、岡村さんに呼ばれてたけど、何話してたの?」

 突然そんな質問をすると、多岐川さんは「えっ?!」と驚いた声を上げる。僕はそんな彼女の慌てように、くすりと微笑んだ。

「こ、告白されました……断っちゃいましたけど……」
「そうなんだ」

 岡村さんには悪いが、僕は心の底から安堵していた。万が一の可能性を、少しだけ考えてしまっていたから。

「どうして、断ったの?」
「……好きな人がいるんです。だから、断りました」

 荒井さんと水無月に、多岐川さんは僕のことを好きだと教えてもらった。けれどここにきて、実は僕じゃなくて別の人のことを好きなんじゃないかと、勘ぐってしまう。だって僕は自分に自信がなくて、特に惚れられるようなことをした覚えがなかったから。

 だから、フラれてしまうかもしれないと思った。水無月に告白した時のことを思い出す。思いは伝えない方がいいんじゃないかと、卑屈な心が囁き始める。だけど、月並みな理由だけれど、言わずに後悔をするぐらいなら、言って後悔をしようと思った。そうすることで、また前に進める気がするから。

「僕も、実は好きな人がいるんだよ」

 その言葉を聞いた多岐川さんは、今度は「えっ……」という悲しさを含んだ声を漏らす。

「その人はさ、素敵な人なんだ。いつも笑顔で、困ってる時に助けてくれて、悲しんでいる時に、自分のことのように泣いてくれる、優しい人でさ」
「……素敵な人、なんですね」
「うん。絵も上手くて、ギターも弾けて、お酒を飲んだらすぐに酔っ払っちゃうんだけど、そんな時まで僕のことを考えてくれている、素敵な人なんだ」

 ふと隣を見ると、多岐川さんが泣いていて、手の甲で落ちてくる涙をぬぐっていた。泣かせてしまったことにわずかな罪悪感を覚えたけれど、こんなにも鈍感な女の子なのだということに僕は驚く。男の人と接した経験が乏しいから、なのかもしれない。

「幸せに、なってくださいっ……! きっと滝本さんなら、今度こそ幸せになれますから……」

 鼻をすすって、落ちてくる涙をぬぐって、嗚咽を漏らす。こんなにも悲しんでいるのに、多岐川さんは僕の幸せだけを願ってくれた。あらためて、彼女は優しい人なんだということに、僕は気付かされる。

 僕は涙をぬぐい続ける彼女の手を、優しく握った。夏フェスの時はずっと握っていたというのに、心臓の鼓動が痛いほど耳まで響いてくる。

 涙で濡れた多岐川さんの手のひらを、優しく包み込んで、僕は言った。

「多岐川さんのことが、好きなんです」
「…………え?」

 思わず照れ臭くなって火が出そうなほどに顔が熱くなったけれど、目だけは最後までそらしはしなかった。ただ多岐川さんのことを見つめ続けていると、先に彼女の方から目をそらしてしまう。僕の心に、チクリと痛みが走った。

「……多岐川さんは、僕のことをどう思ってるの?」

 もうどれだけの時間が経ったかわからないぐらい、僕は彼女の言葉を待ち続けている。もしかすると数分にも満たないほどわずかな時間だったのかもしれないが、それから多岐川さんはポツリと小さく呟いた。

「……好き、です」

 今度は確かな声で、でも涙で声を震わせながら、多岐川さんは答えてくれた。

「滝本さんのことが、好きです」

 僕はその言葉で満たされて、彼女と同じように涙を流してしまう。けれどそれは悲しい涙じゃなくて、嬉しい涙。そんな恥ずかしい姿を見せた僕の顔へ、多岐川さんは自分の顔を近づけてくる。

 びっくりして後ずさってしまいそうになったが、身を引いてしまう前に、彼女の唇が僕の唇に重なった。手を握りながら、僕は多岐川さんとキスをした。

 そしていつの間にか彼女の唇は離れていて、僕の瞳に顔を真っ赤にさせた多岐川さんの顔が映り込む。思わず、口付けされた唇に指を当てる。未だそこには、彼女の柔らかな感触が残っていた。

「た、多岐川さんって、結構大胆なんだね」

 それとも感極まって、自分でもよくわからずにキスをしてしまったのか。彼女の真っ赤になった顔を見ると、おそらく後者なのだろう。突然でびっくりしたけれど、多岐川さんが望んでやってくれたことだから、嬉しかった。

「す、すみません……」
「どうして謝るの?」
「今の、ファーストキスじゃないんです……」

 心臓が大きく鼓動した。多岐川さんのファーストキスは、僕じゃない。一瞬その事実が悲しいと思ったけれど、別に構わない。こういうのは、心の問題なんだから。

「も、もしかして、子どもの頃にお父さんとキスしたとか、そんなやつ?」

 冗談めかして聞いたけれど、本当のところはちょっとだけ悔しかった。こういう感情を持つのは、男だから仕方がないのだろう。

 しかし多岐川さんは、首を振った。

「えっ?! じゃ、じゃあ幼稚園の頃に、ふざけて同級生とした……とか?」

 また、多岐川さんは首を振る。じゃあいつ、彼女はファーストキスをしたというのか。本当は隠していただけで、以前彼氏がいたんじゃないかと勘ぐる。けれど、それでもいい。今は、僕のことを見てくれているんだから。

 しかし多岐川さんが教えてくれたのは、僕が予想していたことよりも、遥かに斜め上の事実だった。

「こ、この前滝本さんが家に泊まっていった時、思わずやっちゃいました……」
「……え?」

 そんな事実、僕は知らない。ということは、おそらく僕が隣で眠っていた時に、多岐川さんがキスをしてきたのだろう。まだ、付き合ってすらなかったというのに。

 僕は思わず、多岐川さんのことを強く抱きしめていた。こんなにも僕のことを思ってくれていたのが、嬉しかったから。

「ありがとう、多岐川さん」

 愛おしい彼女に感謝の言葉を伝える。君に出会えて、本当によかった。

 多岐川さんも僕の背中に腕を回してくれて、お互いに抱きしめ合う。休みの日がずっと続けばいいのにと、僕はまたそんなことをふと思った。