三曲目のアンコールが終わった後も、僕がわがままを言って演奏を続けてもらった。多岐川さんと音楽で繋がれることが、純粋に楽しかったから。普段積極的に音楽を聴かない僕からしてみれば、彼女が目の前で音を奏でているのはとても新鮮だった。
休みの日が、ずっと続けばいいのに。そんな子どもみたいな気持ちを抱き始めた頃、多岐川さんの持ち歌は全てなくなってしまった。あんなにたくさん歌って弾いてもらったというのに名残惜しいと感じるのは、きっと贅沢なのだろう。
気付けばお昼時になっていて、空腹感を覚え始める。そんな時に、部屋の中にインターホンの音が鳴り響いた。僕と多岐川さんはその音にびくりとして、思わず玄関の方を見る。
「えっ、誰?」
「たぶん、渚ちゃんだと思います……隣の部屋に住んでるので……」
それは知らなかった。というより、アコースティックギターとはいえ、ずっと弾いて歌っていたのは迷惑だったかもしれない。もしかすると、苦情を言いに来たのかも。
僕も謝りに行こうかと思ったけれど、多岐川さんと出ていけば勘違いされてしまう。こっちは別に構わないけれど、彼女はそうは思わないだろう。
もう一度インターホンが押されパニックになった多岐川さんは、部屋の隅に畳まれていた毛布を引っ掴んで、僕の頭の上にかぶせてきた。
「えっ、多岐川さん?!」
「とりあえず、そのままジッとしててください! すぐに帰らせますので!」
だからといって、毛布をわざわざかぶせなくても……と思ったけれど、緊急事態だから仕方がないのかもしれない。それにしても、朝方まで彼女が使っていた毛布だから、匂いが染み付いていて心臓の音が鳴り止まなかった。
結局すぐに毛布から出て、音を立てずにジッとする。話し声を聞くつもりはなかったけれど、居間のドアが若干開いていて、二人の会話が声が聞こえてしまっていた。
「ご、ごめん。渚ちゃん、ずっとうるさくて……」
「ギター弾いてたんですか? 全然聴こえなかったですよ」
どうやら隣の部屋には聞こえていなかったようだ。それじゃあ、なぜ荒井さんは多岐川さんの部屋に来たのか。
その理由を荒井さんが話して、僕は一度耳を疑った。
「それより、滝本さんとご飯に行って、どうでしたか?」
「えっ? いや、その……」
「滝本さんのことが気になってるって、言ってたじゃないですか。自分の気持ち、分かりました?」
僕のことが、気になっている。一瞬、何を言っているのか分からなかった。荒井さんが、なんの話をしているのか。けれどその言葉の意味をだんだんと理解してきた頃、僕の顔は今までにないほど熱くなってしまった。
「まさか、もう告白したとか?」
「いや、告白はまだ……」
「まだっていうことは、告白しようと考えてるんですか?」
多岐川さんは、その問いには何も答えなかった。それとも、頷いたり首を振ったりしたのだろうか。
「きっと梓さんが告白すれば、滝本さんは了承してくれますよ。梓さん、すごく魅力的なので」
「そ、そうかな……」
「そうですよ。だって、岡村さんも梓さんのこと好きなんですから。あっ、これ言ったらダメなやつでした……」
おそらく聞いたらダメな話なのに、僕は耳をふさぐことができなかった。彼女たちの会話が耳に入ってくるたびに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「もしかして、滝本さんにすでに好きな方がいるとかですか?」
その質問にも、多岐川さんは答えない。僕の、一番深い傷。一番深い傷だからこそ、彼女は言葉にしなかったのかもしれない。
「まあなんにせよ、私は応援してますよ。あの梓さんが、男の人に好意を持ってるんですから」
「うん、ありがと……」
「それじゃあ、お邪魔しました」
どうやら荒井さんは、多岐川さんの近況報告を聞きにきただけのようだ。お邪魔しましたと言った後、ドアの閉まる音が聞こえてきて、先ほどよりもゆったりとした足音でこちらへと戻ってくる。
僕は多岐川さんが部屋へ戻ってきても、平常を装った。彼女も長い髪の先端をいじりながら、僕と目を合わせてはくれない。
そんな多岐川さんの姿を見て高校の頃の出来事を思い出した僕は、彼女に対して咄嗟に嘘をついてしまった。
「なんの、話だったの?」
「あ、うん……ギター、うるさかったって」
多岐川さんも、嘘をついた。それも、仕方のないことだろう。荒井さんの言った『気になる』が言葉通りの意味だとするならば、僕に聞かれるわけにはいかない。全部聞いていたと言ってしまえば、水無月と同じようにこれまで通りの関係じゃいられなくなる。
僕も、そして多岐川さんも、それがわかっていたのだろう。
僕はすぐに、帰る支度を整えた。
「ごめん、もうお昼だし、シャワーも入りたいからアパートに帰るよ」
強引だったかもしれないが、仕方ない。こうでもしなければ、気まずい空気に耐えられなくなって、何が起こるか分からないのだから。
僕が帰ることを、多岐川さんは特に止めたりしなかった。お互いに気まずい空気をまとったまま、僕は玄関を出る。去り際、彼女はぎこちない笑みを浮かべた。
「また、ギターの演奏聴いてください。滝本さんと演奏するの、とっても楽しかったです」
きっとそれは、彼女の本心なのだろう。だから僕は最後に、薄くだけど笑顔を浮かべられた。
けれどそれから数日の間、僕らの間には気まずい空気が流れ続けていた。アルバイトの研修を抜けた後、シフトがかぶることがあっても、以前のように笑顔で会話をすることは少なくなった。
お互いにどこかよそよそしく、それでも会話ができるだけまだマシだった。高校生の頃、水無月に告白をしてフラれた後は、ほとんど会話という会話をしなかった。あんなに辛い思いは、もう二度としたくない。僕のためにも、多岐川さんのためにも。
気付けば月日は流れていて、七月も後半に差し掛かっていた。本格的に夏入りが始まり、道を歩けば蝉の鳴き声がそこかしこから聞こえてくる。
そんな頃になっても僕らの距離は依然開いたままで、ギスギスとした関係は続いてしまった。
休みの日が、ずっと続けばいいのに。そんな子どもみたいな気持ちを抱き始めた頃、多岐川さんの持ち歌は全てなくなってしまった。あんなにたくさん歌って弾いてもらったというのに名残惜しいと感じるのは、きっと贅沢なのだろう。
気付けばお昼時になっていて、空腹感を覚え始める。そんな時に、部屋の中にインターホンの音が鳴り響いた。僕と多岐川さんはその音にびくりとして、思わず玄関の方を見る。
「えっ、誰?」
「たぶん、渚ちゃんだと思います……隣の部屋に住んでるので……」
それは知らなかった。というより、アコースティックギターとはいえ、ずっと弾いて歌っていたのは迷惑だったかもしれない。もしかすると、苦情を言いに来たのかも。
僕も謝りに行こうかと思ったけれど、多岐川さんと出ていけば勘違いされてしまう。こっちは別に構わないけれど、彼女はそうは思わないだろう。
もう一度インターホンが押されパニックになった多岐川さんは、部屋の隅に畳まれていた毛布を引っ掴んで、僕の頭の上にかぶせてきた。
「えっ、多岐川さん?!」
「とりあえず、そのままジッとしててください! すぐに帰らせますので!」
だからといって、毛布をわざわざかぶせなくても……と思ったけれど、緊急事態だから仕方がないのかもしれない。それにしても、朝方まで彼女が使っていた毛布だから、匂いが染み付いていて心臓の音が鳴り止まなかった。
結局すぐに毛布から出て、音を立てずにジッとする。話し声を聞くつもりはなかったけれど、居間のドアが若干開いていて、二人の会話が声が聞こえてしまっていた。
「ご、ごめん。渚ちゃん、ずっとうるさくて……」
「ギター弾いてたんですか? 全然聴こえなかったですよ」
どうやら隣の部屋には聞こえていなかったようだ。それじゃあ、なぜ荒井さんは多岐川さんの部屋に来たのか。
その理由を荒井さんが話して、僕は一度耳を疑った。
「それより、滝本さんとご飯に行って、どうでしたか?」
「えっ? いや、その……」
「滝本さんのことが気になってるって、言ってたじゃないですか。自分の気持ち、分かりました?」
僕のことが、気になっている。一瞬、何を言っているのか分からなかった。荒井さんが、なんの話をしているのか。けれどその言葉の意味をだんだんと理解してきた頃、僕の顔は今までにないほど熱くなってしまった。
「まさか、もう告白したとか?」
「いや、告白はまだ……」
「まだっていうことは、告白しようと考えてるんですか?」
多岐川さんは、その問いには何も答えなかった。それとも、頷いたり首を振ったりしたのだろうか。
「きっと梓さんが告白すれば、滝本さんは了承してくれますよ。梓さん、すごく魅力的なので」
「そ、そうかな……」
「そうですよ。だって、岡村さんも梓さんのこと好きなんですから。あっ、これ言ったらダメなやつでした……」
おそらく聞いたらダメな話なのに、僕は耳をふさぐことができなかった。彼女たちの会話が耳に入ってくるたびに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「もしかして、滝本さんにすでに好きな方がいるとかですか?」
その質問にも、多岐川さんは答えない。僕の、一番深い傷。一番深い傷だからこそ、彼女は言葉にしなかったのかもしれない。
「まあなんにせよ、私は応援してますよ。あの梓さんが、男の人に好意を持ってるんですから」
「うん、ありがと……」
「それじゃあ、お邪魔しました」
どうやら荒井さんは、多岐川さんの近況報告を聞きにきただけのようだ。お邪魔しましたと言った後、ドアの閉まる音が聞こえてきて、先ほどよりもゆったりとした足音でこちらへと戻ってくる。
僕は多岐川さんが部屋へ戻ってきても、平常を装った。彼女も長い髪の先端をいじりながら、僕と目を合わせてはくれない。
そんな多岐川さんの姿を見て高校の頃の出来事を思い出した僕は、彼女に対して咄嗟に嘘をついてしまった。
「なんの、話だったの?」
「あ、うん……ギター、うるさかったって」
多岐川さんも、嘘をついた。それも、仕方のないことだろう。荒井さんの言った『気になる』が言葉通りの意味だとするならば、僕に聞かれるわけにはいかない。全部聞いていたと言ってしまえば、水無月と同じようにこれまで通りの関係じゃいられなくなる。
僕も、そして多岐川さんも、それがわかっていたのだろう。
僕はすぐに、帰る支度を整えた。
「ごめん、もうお昼だし、シャワーも入りたいからアパートに帰るよ」
強引だったかもしれないが、仕方ない。こうでもしなければ、気まずい空気に耐えられなくなって、何が起こるか分からないのだから。
僕が帰ることを、多岐川さんは特に止めたりしなかった。お互いに気まずい空気をまとったまま、僕は玄関を出る。去り際、彼女はぎこちない笑みを浮かべた。
「また、ギターの演奏聴いてください。滝本さんと演奏するの、とっても楽しかったです」
きっとそれは、彼女の本心なのだろう。だから僕は最後に、薄くだけど笑顔を浮かべられた。
けれどそれから数日の間、僕らの間には気まずい空気が流れ続けていた。アルバイトの研修を抜けた後、シフトがかぶることがあっても、以前のように笑顔で会話をすることは少なくなった。
お互いにどこかよそよそしく、それでも会話ができるだけまだマシだった。高校生の頃、水無月に告白をしてフラれた後は、ほとんど会話という会話をしなかった。あんなに辛い思いは、もう二度としたくない。僕のためにも、多岐川さんのためにも。
気付けば月日は流れていて、七月も後半に差し掛かっていた。本格的に夏入りが始まり、道を歩けば蝉の鳴き声がそこかしこから聞こえてくる。
そんな頃になっても僕らの距離は依然開いたままで、ギスギスとした関係は続いてしまった。