「とりあえず暖かいところで温かいものが食べたい……」


視線を落とせば履き慣れたパンプスから、長い影が伸びていた。実際の私より明らかにスリムでスタイルのいいそれを、ぼんやりと見つめていたときだった。


『こっち、おいない』

「え……?」


突然、やけにはっきりと聞こえた声に顔を上げる。しかし辺りを見回してみても、こちらを向いている人などいない。

誰かが話していた声を、たまたま耳が拾ったのだろうか。そんなふうに納得しかけた私の脳に、また同じ声が流れ込んできた。


『おいない、こっち、おいない』


慌ててまた顔を上げる。

落ち着いた女の人のような、静かで優しい、だけどちょっと不思議な声。

さっきは判断できなかったけれど、声は私の後ろのほうから聞こえていた。

振り向いて確認すれば、私の後ろには店と店に挟まれた一本の細い道があった。


こんな道、あっただろうか。人の行き来を邪魔しないように立っていたはずだったのに。

疑問に思いながら首を傾げていると、また聞こえてくる例の声。


『おいない』


声の主の姿は見えないのに、私の脳に直接語りかけてきているみたいな、奇妙な感覚がした。

『おいない』って初めて聞いたけれど、ニュアンス的には『おいで』といったところかな。つまり私は今、この声に呼ばれているということになる。

いつもなら怪しんで、無視していただろう。絶対にこの路地へ入ろうと思わないし、何事もなかったような顔をして家に帰っていたに違いない。

でも、今の私は家に帰りたくなかった。

家族に気遣われているのが申し訳なくて、なんとなく居心地が悪かった。そんな現実から、顔を背けたかったのだ。


「……ちょっとだけ行ってみよう」


少しだけ抱いた怖さを振り払うため、そう小さく呟いて深呼吸をする。就職祝いに両親に買ってもらった革のバッグを肩にかけ直して、両手でギュッと持ち手を握り、私は一歩踏み出した。