「愛花!」

 うしろから突然聞こえてきた声に驚き、咄嗟に足を止めた。

 そうだ、忘れてた。早くパン屋から離れたくて、井上くんのことを無視するように勝手に足を進めてしまっていた。


「せめて傘は差そうよ」

 井上くんは差していた傘を私の頭の上に移動させ、左手に持っている閉じたままの水色の傘を私に差しだす。

「ありがとう……」

 パンの匂いを見つけた交差点までいつの間にか戻っていて、目に入らなかった景色が徐々に姿を現す。

 赤い車が一台横切ると、道路に溜まった水が勢いよく跳ねた。糸のように細く弱まった雨、空は変わらず灰色の厚い雲で覆われている。今何時なのかは分からない。


 ようやく傘を開いた私に、井上くんが「今日はもう帰ろうか」と声をかけてきた。私は無言で頷く。

 よかった。この先の道まで行って戻って来た時に、また二人に会ってしまう可能性もあったから。今日はもう、このまま帰りたい。


「あのさー愛花」

 振り返りはしなかったけど、井上くんは歩きながら顔を少し横に向ける。

「なに?」

「さっきの、本当にそう思ってるの?」

「さっきの?」

「事故った人。あのせいで……とか、面倒とか」


 あの時は咄嗟で、自分がなにを言ったのかは正直ハッキリ覚えていない。そのくらい適当に、嘘を並べて放った言葉だった。

 調査をしなければいけないというのは本当だけど、面倒だとまでは思っていない。でもあの時はああやって言うしかなかった。自分の意志で井上くんと一緒にいるわけじゃなくて、あくまで委員会の仕事だということを強調したかったから。


 本当だとも嘘だとも言えず、私は無言のまま俯いた。

 パン屋にいる間に靴下が少し乾いたのに、また雨が染みている。水たまりを避ける気になれなくて、目の前にある雨の塊に足をバシャっと踏み入れた。