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私は今日も学校帰りに病院へと向かった。
ヒロの病室は三階の西側。とても日当たりがよくて夕方のこの時間だと窓からいつも綺麗な夕焼けが見える。
病室の前に着いてドアをノックしようとすると、わずかに隙間が開いていて中にはヒロのお父さんとお母さんがいた。
ふたりは毎日こうして往復二時間をかけてヒロに会いにくる。私はすでに挨拶は済ませたけれど、あんなに緊張したことはないってぐらい声が震えた。
ヒロの顔はお父さん似で、優しいおおらかな性格はお母さん似。私は話の邪魔にならないようにそっとドアから離れた。
最初は3人の話も途切れ途切れで美幸さんが間にいないとすぐに沈黙になってしまったけど、最近はそんな心配がいらないくらい普通に話している。
10年前にご両親が移植を望んだことは間違いじゃないし、女の子の代わりに苦しんだヒロの気持ちも間違いじゃない。
そういう今まで話せていなかった時間を取り戻すように、今はしっかりとした親子の形になってきている。
「サユちゃん」
三階の休憩スペースに座っていると、美幸さんがお花を持ってやってきた。
美幸さんはいつも殺風景なヒロの病室を明るくしようと、こうして黄色や赤の鮮やかな花を買ってくる。
「ヒロの病室に行かないの?」
「今、ご両親と話してるのでお茶でも飲んでようと座ったところです」
「ごめんね。気を遣わせちゃって」
「はは、全然大丈夫ですよ」
美幸さんが私の隣に腰を下ろすと、前に会った時よりもかなりお腹がふっくらとしていて、ゆったりとしたワンピースの上からでもよく分かる。
「ずいぶんお腹大きくなりましたね」
「うん。なんか急にね。最近はよく動いたりもするよ。触ってみる?」
「いいんですか?」
私はそっと美幸さんのお腹に触れた。
「でも人に見られたりしてるとなかなか動かないんだよね。うちの旦那もいつもタイミング悪くて……」
「あ!」
美幸さんの言葉を遮って、思わず声を出してしまった。だって今手にポコッて感触が……。
「動いたね、今」
どうやら美幸さんも分かったようだ。
「わあ、なんか感動しちゃいます……」
美幸さんいわく動いたのは足らしいけれど、お腹の中で元気に動いてるなんて本当にすごい。
「サユちゃんのことが好きなのかもね」
「だと嬉しいですけど」
美幸さんはお腹を優しい表情で撫でながら、ぽつりと呟いた。
「でも複雑だよね。新しい家族が増えようとしてるのに、ヒロがこんな状態なんてさ……」
美幸さんはもちろんヒロの前では絶対に悲しい顔は見せないけれど、病室を出たあとはいつも糸が切れたように泣きそうになることは知っている。
美幸さんやご両親を見ていると、ヒロがどれだけ大切に育てられてきたのか分かる。
そして暖かな人たちに囲まれて成長したからこそ、ヒロはあんなにも心の優しい人なんだと思う。
「ヒロ、美幸さんの赤ちゃんが男の子だって気づいてますよ」
「え?」
以前一緒にテレビを見ていた時に、たまたま小さな男の子が遊んでる場面が映っていて。その時にヒロが『こんな風に姉貴の子どももサッカーしたりするんだろうな』って言ってた。
美幸さんが内緒にしていたことは知っていたから『なんで男の子だって分かるの?』って聞いたら『さあ、なんとなく』って笑っていたのだ。
普段は全然関心がないふりをしていたけれど、美幸さんの赤ちゃんが産まれる瞬間を一番楽しみにしているのはヒロかもしれない。
「……アイツ、そういう野生の勘みたいなところがあるんだよね」
ヒロとの会話を伝えると、美幸さんは瞳を潤ませていた。
「たしかにありますよね」
だから私もすぐに弱さを見抜かれてしまった。
「私ね、正直言うとヒロはもう大切な人は作らないって思ってた」
美幸さんの声のトーンが変わった。
「誰よりも残された側の苦しみをヒロは知ってるから。でも、それよりもあの子はサユちゃんと一緒にいることを選んだ。ヒロが自分の気持ちを優先させたことなんて、これが最初で最後だと思う」
それを聞いて今度は私の瞳が濡れていく。
「サユちゃん、ヒロを好きになってくれてありがとう」
「……逆ですよ」
お礼を言うのは私のほう。
ヒロが、私を好きになってくれてありがとうだよ。
そして次の日も私は学校が終わるとすぐに病院へと急いだ。病室のドアを開けると、今日は奏介くんの姿があった。
「俺の彼女、可愛いだろ?」
ベッドにいるヒロに奏介くんはしきりにスマホの画面を見せていた。
「羨ましかったら早く退院しろよ」
「羨ましくねーから」
「そんなこと言って俺に彼女ができて本当は寂しいんでしょ?」
「だからそういう発想がキモい」
ふたりの仲良しなやり取りが相変わらずで、私はクスリと笑ってしまった。
「あ、サユちゃん。今度俺の彼女も交えて4人でダブルデートしに行こうよ!」
「ふふ、考えておきます」
「さすがサユちゃんは話が早くて助かるよ。ヒロは頭がカチコチに固いからさ」
「おい」
ヒロが呆れた顔をしたところで奏介くんは逃げるように「俺これから仕事だからまたね」と、颯爽と帰ってしまった。
まるで嵐が去ったあとみたいに病室が一気に静かになった。奏介くんはきっとまだヒロの病気を受け入れられていないけれど、しんみりとさせないところが奏介くんらしい。
喧嘩をしたあとのことが心配だったけれど、仲直りもいらないみたいにふたりの関係はいつもどおりになった。
その唯一無二の絆が、やっぱり私は羨ましい。
「奏介くんがいると病院だって忘れるぐらい騒がしいよね」
私はそう言って学生カバンを荷物入れの棚へと置いた。
「ここで騒がしくしたらダメだろ」とヒロは言い返しながらも顔色がいつもより良いのは奏介くんに元気をもらったからだと思う。
「サユ、こっちきて」
ヒロがふいに私を手招きした。
ふたりきりになると、ヒロはこうして私をベッドへと呼ぶ。そして私を後ろから抱きしめるのが、最近のヒロの甘え方。
「なんかずっとベッドの上にいると動かなすぎて身長縮みそう」
はあ、と深いため息をついてるヒロがなんだか可愛い。
「ヒロの身長なら多少縮んでも大丈夫だよ」
前はヒロのことを追いかけるばかりだったけど、今はちゃんと肩を並べられてる気がする。
それを証拠にヒロはけっこうムリや要望やワガママも私に言うようになっていた。
「なあ、お前今日の夜出てこれる?」
「え、夜って……」
ヒロがいたずらっ子みたいな顔をしていて、これは私がなにを言っても聞かない顔だ。
空が暗くなり丸い月が浮かぶ頃、私たちは外にいた。
本当はいけないことだけど、ヒロがどうしても外の空気が吸いたいと言って、こっそりと病院を抜け出したのだ。
「見廻りの看護婦さんにすぐバレちゃうんじゃないの?」
私はヒロがメールを送ってきたタイミングで家を出てきたので、ヒロがどうやって抜け出してきたのかは知らない。
「一応、布団の中に洋服詰めといた」
それはつまり布団を被って寝ていると見せかけるためだよね?
「絶対すぐバレるでしょ」
「まあ、そん時はなんとかするよ」
そんな話をしながら私たちの足は自然と海に向かっていた。
元々あまり人気がある場所ではないけど、もう花火をする季節でもないので今はより一層、海のさざ波を私たちだけのものにできる。
「やっぱり足、弱ってきてんな」
砂浜は歩きにくくて不安定だから私がヒロを支えながら歩いていた。
「そのぶん私に筋肉がつくからいいよ」なんて、返しながら私たちはいつもの場所へと腰を下ろす。
「なんか本当にお前、出逢った頃とは別人だよな」
少し逞しくなった私を見て、ヒロが口を緩ませた。
「変えたのはヒロだよ」
「ちげーよ。自分で変わっていったのはお前だよ」
ヒロの髪の毛がさらさらと海風で揺れる。鮮やかな金髪だったヒロは髪の毛が伸びて生え際が黒くなっていた。
ヒロが倒れてから、もうすぐ1か月。
ヒロの発作はあのあと何回も起こった。そのたびにヒロは耐えて、耐えて、耐えて、今日も私の隣にいてくれている。
「サユ。俺がいなくなっても大丈夫か?」
……ドクン。
月明かりに照らされたヒロはただじっと私を見つめていた。
目を合わせられない私は不自然に言葉を早くする。
「ど、どうかな。奏介くんに影響されてすぐ彼氏とかできちゃったりしてね」
ダメだ。気を抜いたら泣いてしまう。
「ヘンな男に引っ掛かるなよ」
「もう、そこは嫉妬してよ」
「してるよ。これでも」
柔らかく笑うヒロの瞳が切なくて。
こんな時、私が言うべきなのはヒロを安心させるようなことだって分かってる。
〝私は平気だよ、だから心配しないで〟
強がりでもなんでもいいから言わなきゃって思ってるのに、喉が詰まって声が出ない。
その代わりに私から出た言葉は……。
「大丈夫じゃないよ。……全然、私大丈夫になれないよ」
覚悟してくださいと医者から言われたあの日。
私は声が枯れるまで泣いた。
ヒロの前では気丈でいようと私も病室に入る前は深呼吸する。ふたりで話していると楽しくて、嬉しくて。だからヒロに会えない時間はとても長く感じてしまう。
家にいても学校にいても、私はヒロのことばかり。
ヒロがいなくなるなんて、想像したくないし、考えたくもない。
ヒロはうつ向く私の手を優しく握った。
「お前はそう言いながら、ちゃんと前を向いて生きてくよ」
「勝手に決めつけないで」
「お前は芯が強いから」
「だから勝手に……」と、私が怒ったように声を大きくすると、ヒロの瞳から一筋の涙が流れた。
ヒロが、私の前で泣いたはじめての涙。
「俺がいなくてもサユは生きるよ。俺が好きになったのは、そういう女だ」
そう言って、私を強く抱きしめる。
「……そんな言い方、ズルい」
「俺はズルいんだよ」
そんなこと言われたら頷くしかないじゃない。
そんなこと言われたら……。
一緒に連れてってなんて、口が裂けても言えないよ、バカ。
「サユ。下ばっかり向くなよ」
ヒロの掠れた声が耳に響く。
「お前のことずっと見てるから」
「……うん」
「だからもう自分がひとりだなんて思うな」
「うん」
そのひとつひとつの言葉を聞き逃さないように私は精いっぱい首を縦に振った。そして、ヒロは今あるありったけの力で、さらに私をきつく抱く。