翌朝、聖を連れてトシさんの家に行くと、トシさんは最初に会った時と同じくらい胡散臭そうに私たちを見て、ため息をついた。
「また細かいのを連れてきたね。あんちゃんの弟かい?」
「ええそうです。夏休みなんで、昨日から五日間こっちにいます。一緒に手伝わせてください」
迅がほがらかに挨拶し、聖が声ばかりでかく挨拶する。
「有島聖です!頑張ります!」
「うるさいね!坊主!」
負けずに怒鳴り返したトシさんの声の方が大きかったんだけど、私はヒヤヒヤ見守るだけで口を挟まなかった。
そこから四の日間は賑やかで楽しい時間だった。迅と聖は毎日トシさんの家に通い、勘太郎の散歩と畑仕事を手伝った。お昼時にごはんに呼ばれて行くと、トシさんは私に文句を言う。
「うるさいのがもうひとりなんて聞いてないよ!食費がかかってしょうがない!」
昼食代を支払うというと、生意気を言うなと怒られる。
私にももうわかる。トシさんは文句を言ってみたいだけで、実際は嫌がってなんかいない。むしろ、迅と聖が笑ったり騒いだりするのを楽しそうに見ている。
勘太郎は聖にも私同様警戒した態度を見せるけれど、逃げたり歯を剥いたりはしない。触れるとびくっとするくらいで、あとは撫でさせてくれる。足腰の弱っている勘太郎には、介護の手が増えた。トシさんは楽になったはずだ。
四日間、日が暮れる前に三人で散歩をした。夏の盛りの夕暮れ。気温は高く、視界はまだゆらゆらしていた。低い山々を眺め歩き回った。
こんもりとした森から頭だけでた白い観音様、小さな駅舎。山と山に渡された鉄橋はよく見ればダムだった。小川のほとりに咲いた合歓の木が濃い桃色をさざめかせていた。
若者が三人、ひたすらに田舎道を歩き回る。思い出を語り、とりとめのないことを話し、道端の些細な発見に声をあげた。
体力のない私はふたりに必死についていきながら、かつてないほどスニーカーの底をすり減らした。楽しい楽しい幸せな時間。
一生は続かないけれど、一生とっておける思い出はできたはずだ。私の中にも、聖の中にも。
迅の透けた手を見つめ、聖が寂しそうな表情を見せたのが忘れられない。
私もきっと、似た顔をして迅をみつめているのだろうなと思う。
五日目の夕方、聖は予定通り特急電車で帰ることになった。迅と駅まで歩いて送った。私が買ったお土産と、トシさんの家からの野菜やつけものをボストンぎゅうぎゅうに詰め、聖は帰っていく。
「じゃあな、兄ちゃん。成仏しろよ」
「フツーに言ってるけど、すっごいワードだよ、おまえ」
ふたりは陽気に笑って、拳同士をぶつけた。
男同士、さよならの挨拶だ。これが今生最後の。
泣かないように、悲しまないように、まるで明日も会えるかのようにふたりは別れた。
改札に入る間際、聖が私に言った。
「マナカ、兄ちゃんのこと頼む。本当にくれぐれも頼む」
「わかったよ」
一瞬、聖の表情がぐしゃりと歪んだ。本当に本当に悲しそうに歪んだ聖の表情が悲しくて、痛いほどにその気持ちがわかって泣きそうになる。
「じゃーな」
しかし、涙を見せることなく、聖は電車に添ってホームを歩いて行った。その背中は去年よりずっと広くなったように見える。聖も大人に近づいて行くのだ。迅とはすでに違う時間軸を歩み出している私と聖に、胸が痛くて苦しかった。
「日が落ちるの早くなったなぁ」
走り出す特急電車を駅舎の横で見送り、迅が少しだけ寂しそうにつぶやいた。夏至は終わって、日は徐々に短くなる周期に入っている。
山の稜線に沿ってオレンジに変わりつつある空を眺め、迅に視線を戻す。
ぎょっとした。迅の左手の先がわずかに透け初めている。迅本人は気付いていないようだ。
「いこ、迅。私お腹が空いてきちゃって」
周囲にも本人にも透け始めた左手を見せたくなく、私は迅の左腕を身体に抱き締め歩き出した。
随分大胆な甘え方になってしまったと気づいたのは帰宅してからだった。
「ほら、もう少しだ、頑張れ」
背をリュックごと押され、否応無く脚を進めさせられる。踏みしめる上り坂は、まだまだ続きそうだ。足の裏の土の感触に気分が萎える。
木漏れ日注ぐ山道は映像で見れば綺麗だろうけど、真夏に歩くには地獄でしかない。
「自分で歩くから、背中押さないで」
「そうかぁ?」
迅は私の後ろから退き、横に並んだ。汗で張り付いたTシャツとリュックの隙間に風が通り、一瞬涼しい。
かぶった帽子と髪の毛の隙間から汗がつたった。私がこんなに汗をかくことは珍しい。
「頂上まであとどのくらい?」
「登り始めたばっかだぞ。2時間くらいで着くっぽいけど……」
迅はちろんと私の顔を覗き込む。
「マナカと一緒だから、3時間コースかな」
失礼な!と怒る資格はない。私は自他共に認める低体力のもやしっこだ。運動音痴かと言われるとわからないくらい運動をしていない。体育は極力端っこで目立たずこなし、クラスメートも察しているので、脚を引っ張られないように私にボールを回さない。陸上は短距離はまだしも、マラソンなんかだとビリだ。決定的に体力がなく、そもそも運動が大嫌い。
そんな私を、迅は登山に連れ出したのだ。この街は山間にあり、市内は随分広くその大半は山林だ。中心の市街地からバスで1時間ほどいくとパワースポットとして有名な神社があるのは知っていた。縁結びでも有名らしくて、来る途中の電車ではそんな広告をいくつも見た。
どうやら、目的地はその神社らしい。
思い出作りと体力作りという無茶な理由で迅は私を連れ出した。夏山登山だなんて、絶対嫌だと思ったものの、そこに思い出作りが加わったら断りづらい。
仕方なく迅に伴われるまま、駅前からバスに乗った。
そのまま乗っていれば1時間ちょっとで目的地の神社に到着する。しかし、それじゃ登山にならないので登山道入り口のバス停で途中下車する。ここから登るのが表参道の登山コースになるらしい。
鳥居をくぐって赤い橋を渡る。最初は舗装道路で歩きやすい道が、いつしか立派な山道に変わっている。
「頑張れ頑張れ。せっかく買った登山靴が泣くぞ」
迅の主張で登山にあたり靴だけはきちんとしたものを買った。雨具にもなるウィンドブレーカーも。本格的な登山コースではなくても、山を舐めてはいけないんだって。
私は憎まれ口にもならない返事をする。
「そうね、迅はスニーカーだけどね」
「これ、デフォルトだから取れないもん」
迅はいつものTシャツとジーンズとスニーカーだ。トシさんの家に行くときは3枚買ったTシャツを着まわして上から着ている。毎日同じ服にならないようにという配慮だ。
スニーカーは不思議なもので、日中は迅と同じく具現化している。玄関に脱いであっても存在感があり、逆に夜には見えなくなってしまう。
つづら折りの急勾配。足を一歩進めるのがつらく、息が上がった。もう登りたくないと途中で足を止めてしまった。口には出さないけれど、バテているのは迅にバレていると思う。
ふいに迅が道の端を指差した。
「見てみ、地面に穴開いてるだろ」
「……蝉?」
荒い息を吐きながら問い返す。
「なんだよ、知ってたか。そうです、蝉の幼虫がここから出てきて木に登って羽化します」
私はぽっかり開いた穴を見つめる。小指の先より小さな穴だ。蝉の抜け殻は見たことあるけれど、あの中にぎっしり蝉が詰まっているのを想像するのは少し気持ち悪い。
そして、そんな生命力の塊みたいなものが地中から這い出して来るのは、何か怖い。
「たくさん眠って、大人になったら1週間くらいだろ。その間に恋愛して子ども作らなきゃなんないんだから大変だ」
迅かしみじみと言う。
「恋しても1週間かぁ」
ふと、迅の横顔を眺め私は思った。迅に恋して何年が経つだろう。私はたぶん物心ついたときには迅が好きだった。世界で一番のお兄ちゃんで、私の世界の中心だった。
迅が死んで、私の世界は中心が抜け落ちてしまった。外殻だけで、なんとなく形を保っているに過ぎない。
今、私が真っ当に思考でき、毎日を楽しく過ごしているのは迅がいるからだ。迅が戻ってきているからだ。まやかしでもなんでも、迅はここにいる。私といる。
1週間なんてものじゃなく、もうひと月近く一緒にいる。今までで一番近い距離で。
「1週間で一生分恋するんじゃない」
気づいたらそんなことを言っていた。リアリストの私としては、最高にロマンティックで恥ずかしいことを言ってしまった。かあっと頰が熱くなる。何言ってるんだろ、私。
私はきっと自分のことを言ってしまった。
蝉の自由と幸福は必ず短期間で終わる。私もまた、わずかだけれど人生最高の幸福を手に入れているんだ。好きな人と寄り添って暮らす幸福を。
「1週間で一生分か」
迅は茶化さなかった。
「いいな、それ。マナカ、いいこと言う」
ふ、と頰を緩めた迅。少しだけ寂しそうに見える。
ねえ、迅には恋人はいなかったんだよね。
でも、大好きな人はいた?一生分の恋を捧げられる人はいた?本当はこの最後の時間、そんな人と過ごさせてあげたかった。
これじゃ、私だけが幸せじゃない。
呼吸が整っていた。私はまた登り始める。
次第に道は細くなり、勾配も険しくなる。
小さな滝があり近くの東屋で水は飲んだけれど、休憩らしい休憩はそのくらいだ。
大きな岩を越えるときは、先に行く迅が私の手を引いてくれた。触れば温かい手のひらに、今は甘える。
かつて薬師堂があった付近を通り、これで三分の一程度ということに絶望すら覚えた。でも後戻りもできない。進まなければ終わらないし、登りきらなければ今までのことが無駄になる。
山道は苦しい。気管支がひゅうひゅういって、胸は圧迫されたみたい。
やめたい。帰りたい。
だけど、こうなればもうできないことが悔しい。体力がない自分が憎い。なんとしても神社までたどり着きたい。
「マナカ、頑張れ。あと少しだ」
迅の励ましに頷くことしかできなかった。必死に坂道に食らいつく。あと少し、あと少し。動け脚。つま先を前に出せ。
不意に視界が開けた。
3時間かけて登りきったそこは拝殿の一部の様子だった。本殿がないのでわかりづらいけれど、ようやく神社にたどり着いたらしい。
「よくやったな。ゴールだぞ」
森の中ではあるけれど、景色は開け、神社の敷地のほとんどが見えそうだ。
「登れた」
「うん、登れたな。頑張った!」
迅が私の帽子を外し、前髪をかき分け汗まみれの額を撫でた。帽子で顔を扇いでくれる。真っ赤な頰の私が暑そうに見えたみたい。
「やればできるでしょ」
「マナカが必死こいてる姿、面白かった」
「意地悪だなぁ!」
「いつもクールだからさ。そういう顔が見たかったの」
迅が明るく笑う。私の大好きな笑顔で。
「生きてるって感じするよ。俺もおまえも」
うん、そうだね。汗ひとつかいていない迅と、汗びっしょりでクタクタの私。
私を通して、迅は生きている。
拝殿の傍で水筒の水を飲み、休憩にした。ようやく山々の景色をまともに見た気がした。正午を過ぎ、空は雲が増えてきたけれど、光がない分かえって山の冴えた緑がはっきりと眼に映る。濃淡のある緑の海が眼下に広がり、私は知らずため息をついた。
「神社、回ろう。御神木もあるんだってさ」
話に聞くには毎月1日には、その御神木のかけら入りのお守りが頒布されるらしい。そのときは、車用の道路は渋滞すると、近くに座った年配の参拝客が話していた。
霊験あらたかな神社で、きっと合格祈願をすべきなんだろうなと思う。ふいに皮肉な気持ちになってしまう私はひねくれているのだ。
「真香、大学の志望学部、法学部なんだっけ」
ベンチに並んでかけ、横から問われて私は驚いた。迅が知っているとは思わなかった。お母さんと伯母さん経由で知っていたのだろうか。
「弁護士とか、考えてんの?」
迅は無邪気を装っているけど、私の将来の話をしたいのだ。この前、夢なんかないと言い切った私を心配しているのかもしれない。
夢はあった。
口にしない夢はあった。
だけど、潰えてしまった。もうなんの意味も見出せない。
……もう言ってしまおうかな。なくなった夢だし、迅がどうとるかわからないけど、こんな綺麗な空気と景色の場所で、嘘をついてごまかしたくない。
「警視庁に入りたかったの」
「ほあ!?」
私の言葉に迅が叫んだ。相当驚いたらしい。
「大学出て、国家一種試験に受かって、キャリア入庁……迅の上司になっちゃうとかね」
「おまえが警察って、なんでまた……」
一瞬言いよどんでから、私は言った。
「迅の役に立ちたかった。現場で働く警察官を万全に支援できる警察組織を作りたかった。迅を裏でサポートしたかったの」
迅はしばらく黙っていた。顔が見られず、どんか表情かはわからないけれど、長い間があった。
「なぁ、マナカ、その夢は俺ありきなの?」
「……え?」
右隣を見ると、迅が苦笑いしていた。嬉しそうというより困った表情だ。
「それはマナカの夢じゃないよ。マナカのやりたいことに、俺は関係してちゃいけない」
「迅を尊敬していたから、そう思ったの。いけない?」
迅はゆっくりと左右に首を振る。諭すように言うのだ。
「マナカの夢は、マナカが見つけるべきだ。何にもとらわれず、自由に。俺や春香おばちゃんを気にせず、自分の世界を見つけるべきだ」
どうしてそんなこと言うのだろう。
私の世界は迅だった。
その迅を失い、夢も未来もなくした私に、そんな追い討ちをかけないでほしい。
口にするんじゃなかった。消えた夢なんか。きっと迅には重たくてうざったかったのだろう。
「どっちみち、もう諦めた夢だから。ほら、どんな仕事するとかわかんないで、イメージだけで考えてたの。子どもっぽいよね。うん、もうやめたの」
自分に言い聞かせるような声は小さくて、迅にはやっと聞こえる程度だったろうと思う。
「夢はないのよ、私」
神社は広く、すでにくたくたの私には参道の階段すらきつい。山の中の神社なのでアップダウンが激しいのだ。
写真で見たことのある拝殿と本殿でお参りをした。
拝殿には見事な細工がされていて、写真を撮る外国人のツアー客が多い。
左右にご神木の杉の大木があった。皆、並んで杉の木に触れ、パワーをもらっているようだ。
目に見えないパワーなんて信じられないけれど、迅がどうしてもというので列に並び、杉に近寄った。
そっと右手を持ち上げると、ぐいと掴まれ迅の手を重ねられる。心臓がばくばくと鳴りだした。やめてほしい。こういうことを無意識にやるのは。
手を重ねたまま、ふたりで杉の肌に触れた。ほのかに温かく、確かに生命の存在を感じた。植物なのに不思議だけれど、生きている感覚がしたのだ。当たり前のことがすんなりと心にしみてくる。
この木はきっと多くの人の願いを受け止めてきたのだろうな。物も言わず、ここに立って、気の遠くなる時間を。
「縁結びの木もあるらしいよ。もうちょっと、奥だって。行ってみる?」
「いいや、くたびれちゃったし。休みたいな」
縁結びなんて今のところ必要ない。私はいつかまた恋をすることができるようになるのだろうか。
一生分の恋を経験したら、私に次の恋は訪れないかもしれない。できるならそうありたい。もう誰も迅以上に好きになりたくない。
土産屋兼茶屋といったお店で、パンみたいな味噌団子と田楽で遅めの昼食にした。帰りはバスにすると決めていたのでちょっと安心だ。ぐるりと歩き、駐車場から駅に向かうバスに乗った。
迅と一緒でなければ来ることもなかっただろう神社。綺麗な景色と空気を味わえたことはよかったと思う。
そして、参道を登り切った達成感は私の中にしっかり残っている。
思い出、ちゃんとできたじゃない。満足していると、バスの座席の揺れと疲労から、私はすぐに眠ってしまった。
夢の中でも私は山に登っていた。山頂は遠く、足は痛かったけれど、なぜか私はずっと笑っていた。
「マナカ、着いたぞ」
迅に呼ばれて目覚めれば、そこは朝出発した駅だ。子どもみたいに熟睡してしまったのが恥ずかしく、私はわざとらしくしゃきしゃきとバスを降りた。
「腹減ってるか?買い物は?」
「家にあるもので平気。どうしたの?」
バスを降りたところで迅がさっと手を見せてくれた。迅の左手はすでに透けていた。現在の時刻は16時。日没まではまだ二時間以上ある。
「透けてきちゃった。人の目に着く前に帰りたいからさ」
「うん、急いで帰ろう」
私は内心の動揺を押し隠して言った。
「今日、曇りだからかもね。日照時間に関係あるなんて、迅ってば植物みたい」
ごまかしたように聞こえなければいい。
迅はそうだなぁとへらへら笑ってポケットに透けた左手をしまった。