「おいしい!」
「どこにでもある苗からできたもんだよ」
「でも、穫れたてでしょ?栄養のある土で育って、穫れたてなら、うまいよなぁ」
迅が指をくわえんばかりに私とトマトを見ている。もう何も食べられないし、食べたい欲求もない迅が久しぶりに羨ましそうな顔をしている。
迅にもあげたいけれど、また座っているところに沁みを作られるとごまかしようがないしなぁ。
申し訳ない気持ちになりつつ、もうひとつミニトマトを手にする。
本当にすごくおいしい。食の細い私が、いくつでも食べられそうな気分になってるもの。
「ねえ、トシさん。勘太郎の小屋ってだいぶぼろだね」
迅が無遠慮に言う。トシさんはどうでもよさそうに庭に降り勘太郎に水をやっている。
「死んだじいさんが勘太郎がきた年に作った小屋だからね。築16年だ」
「ええ、そうなんだ。よければ俺、新しい小屋作ろっか?」
私はまたしても迅のお節介に目を剥いた。どうして、そうずかずかと他人の領域に踏み込んでいくのだろう。
迅やめなよ、と袖を引っ張ろうかと思っていると、トシさんが振り向いた。
「金は出さないよ」
「うん、いいよいいよ。俺、この夏はまるごと休暇で暇だからさ。マナカは受験勉強だけど、俺はなんでも手伝えるから言って」
「ふん、じゃあ暇つぶしに仕事をやろうじゃないか」
私が口を挟む前に、迅とトシさんの間で、話は決まってしまった。
妙なことになった。迅のお人好しが面倒なかたちで発揮されている。
「じゃあ、帰って朝飯食ったら出直してきます」
迅が元気よく言って立ち上がった。私は三つめのトマトを口に放り込んで同じく立ちあがった。
「ねえ、迅さっきのよくないよ」
帰り道、言わずにはいられない。お節介というか、人の生活に介入するようなことやめた方がいい。私も迅もワケアリなのだから。
迅は呑気にあははと笑う。
「大丈夫だって、ちゃんとマナカのこともほったらかさないから」
「そういうことを言ってるんじゃないの!」
「あ、違うんだ。てっきり、マナカが俺をひとり占めしたくて言ってるのかと思った」
私はその冗談に迅の背中をばしんとたたく。
いてえ、と顔をしかめて笑う迅はやっぱりからかっているようだ。でも、すぐに真面目な表情に戻った。
「あのさ、俺の残り時間ってあとどれくらいあるかな」
迅は歩きながら自分のてのひらに視線を落とす。
「こうして、昼間はみんなに見える身体はあっても、もう腹は減らないし、汗もかかない。夜にはクラゲみたいにふにゃふにゃになっちゃう。俺が人じゃなくなっちゃったのは確かなんだよな。そして、こんな生物が長くこの世界に存在していいわけがない」
あっけらかんとしている迅にしては真剣な口調だった。迅は、自らの状態を受け入れているように見えて、その実不自然さを感じていたのだ。許されないという、内罰的な想いがあったんだ。
「迅……」
「だから、せめて俺にできることはしときたいんだよね。ほら、元ポリスメンじゃん?世のため人のためってのは無理だから、周りの困った人くらいは手伝っとこうかなって」
「でも、犬のことはあのおばあさんがやるべきことでしょう?あんな大きな犬、高齢になれば老老介護みたいになるってわかってただろうに……」
「亡くなったおじいさんが飼ったみたいじゃん。小屋の修繕なんてすぐだし、たとえば朝晩また散歩先で動かなくなっちゃってもトシさん困るだろ?暇で力持ちの俺にぴったりの仕事じゃないですかぁ」
胸を張って請け負う迅に、私は否定や文句の言葉を探す。でも、その理由がすべて私があのトシさんというおばあさんが苦手な部類の人に感じられるというだけだった。すごく主観的で自己中心的じゃない。
「せっかくもらった自由時間だけど、ダラダラするのはそろそろ飽きてきたんだよな。ちょっと仕事増やさせてよ」
迅は私にお願いの体で言わなくてもいい。迅が何をしようと本来は自由なのだ。それなのに、私の機嫌をとろうとしてくる迅に、私は上手に言葉が返せなくなってしまう。そうして黙ってうなずくのだ。
その日、迅は家に余った材木と買い足した材料を担いでトシさんの家へ向かった。小屋はその日中に新しいものができたそうだ。
迅のトシさん宅通いが始まった。
早朝、迅は勘太郎の散歩に出かけて行く。その後、トシさんの畑仕事や家の仕事を手伝い、そのまま無人野菜販売所で売り子をするのだ。夕方、勘太郎の二度目の散歩に行き一日が終了だ。
私は格段に時間ができ、受験勉強がはかどる。
しかし、迅は私がこもりきりなのはいけないと、昼食はトシさんの家に来るようにと言うのだ。トシさんの家はこの家から徒歩20分。炎天下の中、歩いていかなければならない。昼食のためだけにそんな体力を使いたくないけれど、迅の持論として受験と大学生活ために体力は必要だそうだ。
嫌になってしまう。逆らって意地を張って、迅と喧嘩したいわけじゃないし、トシさんがお昼を作ってくれるのを断るのは角が立ちそうでもある。結局、私は渋々トシさんの家に通っている。
行ったら行ったでトシさんは「タダ飯にありつこうって気かい」と文句のひとつも言ってくるのでうんざりだ。好きで来ていないと心の中だけで言い返して、慌てて昼食の仕度を手伝う。といっても、ほとんどできたものを運ぶだけで役には立っていないけれど。
そうめんだったり、親子丼だったり、メニューはその日によって違うけれど、トシさんの食卓にはいつもふんだんに野菜が出てくる。きゅうりの浅漬け、ナスの味噌いため、オクラとミョウガの冷ややっこ、ミニトマトが山盛り。トシさんが作っていなくても近所の人が作った野菜を交換しているので、毎日いろんな野菜が食卓に並ぶ。そして、それらすべてが驚くほど美味しいのだ。
私が今まで食べてきたのは何だったの?そのくらい味が違う。味が濃くて、瑞々しくて、苦手だったピーマンまで美味しく食べられた。すべては栄養豊富な畑で育った作物を新鮮なうちに食べているからなんだと思う。
トシさんの家に通うことは憂鬱でありながら、一方胃袋では完全に掴まれてしまい、私は毎日訪問を続けている。食事への執着が薄い私にしてはめずらしいことだ。
「あんた受験勉強なんて家でもできないのかい」
通い始めて四日目、食後に洗いものを引き受けてやっていると、トシさんが後ろでそんなことを言う。ちらりと見れば、本人は糠床を混ぜている。
私はなんと答えたものか迷った。集中したかったというのが理由になるとは思えない。
「さては、親と不仲だね」
トシさんはずばりと言いきった。
「それで、暇な従兄の手を借りて田舎に逃げてきたわけだ」
「そういうわけでは……ないです」
「年頃の女が家を出たいなんてのは、男ができたか、親と不仲かのどっちかだよ。あんたは、惚れた腫れたじゃないだろう。あの、迅って兄ちゃんもどうみたって兄妹だしね。大方進学でモメたんだろう」
私は苛立ち、むっつりと黙り込んだ。
どうしてこのおばあさんは無神経なんだろう。無神経ついでにこんなことを言う。
「食わせてもらってる分際で生意気だねぇ」
あなたには関係ない……そう言いたいのに、私の口からは文句がでてこない。とにかく嫌な気分になりながら、手早く布巾で手を拭き、トシさんの顔も見ずに言った。
「ご馳走様でした。帰ります」
「ああそうかい。明日は使い道のないうどん粉を始末するからね。少し早めにおいで」
もう来たくない。トシさんは意地悪だ。
そして、私はトシさんに小娘扱いされて見透かされるのが嫌だ。
でも、ことを荒立てるのが苦手な私は、小さくはいと答えてトシさんの家を後にした。私は明日も渋々とこの家に来るのだろう。
帰り際、縁側で迅を見かけた。
迅は勘太郎といて、よろよろ立ち上がった勘太郎の背を濡れタオルで拭いてあげている。勘太郎は迅にはすごく懐いて、迅が何をしてもけして嫌がらない。今も、迅の肩に顎を載せ、気持ちよさそうにしている。
でも勘太郎は、私がいると警戒している様子だ。私のことは迅のおまけとは思っていても、気を許していい存在とは認定していない様子。まだ番犬なんだなと思う。
迅には声をかけずに帰った。
帰り道思う。
トシさんの言うことは間違っていない。私は母に養ってもらっている。今の暮らしだって、母の許しあってのものだ。
だけど、それだけで女同士の家族はうまく整理できないこともある。
トシさんにはわからない。あの人は、正しいけれど人の弱みをあげつらねて馬鹿にする人だ。
家族はもういないのだろうか。ご主人は前に亡くなったということを聞いた気がするけれどお子さんはいないのだろうか。きっと、家族にもあんな態度をとるんだろうな。案外、煙たがられているかもしれない。あの性格なら有り得る話だ。
大汗をかいて帰宅し、シャワーを浴びると低体力の私は必ず眠くなってしまう。そこで、30分だけ敷き直した布団で休むことにしていた。
今日は気疲れしたせいか普段より身体が重い。ふと私は携帯電話の目覚ましアラームを付け忘れて眠りに落ちてしまった。
「マナカ、マナカ」
夢から覚めたのは迅の声。
ゆるゆると瞼をあけると、天井と覗き込んでいる迅の顔があった。
「迅」
「ずっと寝てたのか?」
部屋は日が陰り、迅の顔は暗い。エアコンの低い稼働音とひぐらしの声。30分なんてものではなく寝てしまったようだ。
「案外、のんきなところもあって安心する。マナカは隙がないように振舞うのが好きだから」
「そんなんじゃないよ」
私はけだるく身体を起こした。隙だらけだから、トシさんには見透かされ突っ込まれる。
私は子どもだ。子どものまま、時間だけが私を大人に押し上げようとしている。
「迅は今、帰ってきたの?」
「おう、そうだよ。暗くなる前に帰んないと、クラゲになっちゃうからなぁ」
頭が重い。稀におこる片頭痛がきそうだ。
「迅、私、トシさん苦手」
思わずぽつりと言ってしまう。ディスるつもりなんかないのに、つい口を突いて出たのは、どうしたって敵わない年長者の脅威から逃げたかったから。明日から、もうあの家には行きたくない。
「うーん、そうかと思った。マナカは人見知り激しいもんなぁ」
「人見知りとか、そういうんじゃないの。あの人、意地が悪いし、私のこと嫌ってるみたいだし」
「トシさんは誰にでも陰険だよ。近所の人にもあんな感じだもん。みんな慣れてるみたいだけど。そのトシさんがわざわざマナカを嫌う理由ないだろ」
嫌っていて、逃げたがっているのはおまえだろ、と暗に言われた。私は押し黙り、痛み出した右こめかみのあたりを押さえた。
「ものを知らない小娘扱いされるのが苛々する」
「あの人からしたら、俺もおまえも赤ん坊と一緒だよ」
「年を取ってるのがそんなに偉いの?」
「俺たちより見てきたものが少し多いってだけ。そして俺たちより人生を考えてきた時間も長い」
迅が笑って、私の横から立ちあがった。
「マナカは、たまに閉鎖的になる。自分の理解の範疇にないことから逃げようとする。悪いことじゃないけど、損してるぞ」
頭が痛い。迅の言葉がどくどくと脳神経に響く。
簡単に言うけれど、誰もが迅のように社交的でもコミュニケーション能力にたけているわけでもない。私のように、自分ひとりの輪の中から出たくない人間だっているのだ。
「トシさん、面白いよ。ご主人亡くされて、息子さんや娘さんと同居を断り続けて、ひとりで野菜作って暮らしてる。勘太郎の介護しながらさ。言葉キツイけど、いろんなこと考えてるから話してると楽しいぞ。マナカも合わないって壁立てる前に、一歩踏み込んでみたら?」
私が黙っているので、迅はふっと笑ってお風呂掃除に行ってしまった。
迅が思うより、私にとっての人間関係は複雑で難解だ。勉強はやればできる。でも、対人間になった途端手に負えなくなる。迅や優衣のように、向こうから親愛を示してくれないと、関係を築けない。お母さんとの関係がうまくいかない本質もそこなのだと思う。否定的な態度をとられると、殻を厚くし話し合う余地をなくしてしまう自分に気付いている。問題があるのは私なのだ。
意地悪だけど、トシさんだけが悪いわけじゃないのかもしれない。
夕飯はあるもので済ませることにして、私は痛い頭を抱えて、再び横になった。とはいえ、たくさん寝すぎて眠気はやってこない。だらだらと頭痛と闘っていると、迅が戻ってきた。私の布団の横、迅の布団いあぐらをかく。のびてきた手が、私の前髪を何度もすいてくれる。くすぐったくて恥ずかしくて、嬉しい。
「マナカは何になりたい?」
迅が言った。
「何にもなりたくない」
「若者らしくないなぁ」
「主体性がないって言われる。そういうところが、お母さんは嫌いみたい」
なりたいものはあった。未来への希望はあった。でもそれは、もう薄ぼんやりとしてしまった。
迅を亡くした今、私にはそれがやりたいことだったのかも思い出せない。
「マナカは何にでもなれる」
迅は言った。中途半端な慰めや叱咤じゃなく、私のために紡がれた言葉であることがわかった。
「今すぐじゃなくていい。大学に通いながらだって夢は探せる」
私は曖昧に頷いた。
確かに私の未来は白紙なのかもしれない。でも、それは自由な希望に満ち溢れた白じゃない。何もない空っぽの白だ。無色透明で味気ない。
私の世界は迅だった。一から十まですべてが迅だった。迅のいない世界にもう光はないというのに。
だけど、志半ばで死んでいった迅にどうしてそんなことが言えるだろう。私は押し黙り、眼を閉じて眠るフリをした。夕暮れ時、迅の手の感触は頼りなく、感じることができないほどになっていた。
翌朝、頭痛が止んでしまったため、私はトシさん宅訪問を断る理由がなくなった。体調不良なら角の立たない断り文句になると思ったのに。朝から憂鬱な気分で数学をさらい、家事をする。
お昼はうどん粉を処理すると言っていた。早く来いというので、普段より一時間早く仕度をする。テキストと参考書を麻のトートに入れ、向こうでも勉強できるようなスタイルで、出発した。真夏の昼時、麦わら帽子に綿のワンピースで汗をかきかき歩く。
トシさんの家に着くと、勘太郎が私を見て顔だけあげた。
おとなしい勘太郎は吠えたりしない。でもたぶん歓迎はしていない。ごめんね、私も本当は来たくはないんだ。勘太郎の横をそうっと通り、縁側から室内を覗いた。
「来たね、手伝いな」
早速トシさんが私を見つけて声をかけてくる。手には大きな平たいすり鉢みたいなものを持っている。木製で、随分古いもののようだ。
私が不思議そうに眺めていたせいだろう。トシさんが言う。
「蕎麦の鉢だよ。大きさがちょうどいいからね」
左手のミサンガをはずしてポケットに入れ手を洗い、トシさんから手渡された前掛けをぐるりと腰に巻くと、うどん作りは始まった。
水を足し、うどん用の中力粉を混ぜる。手にべとべとになった粉がついてとれない。指と指の間のねとねとする感触が嫌だ。それでも構わず混ぜるのは、トシさんが横で監視しているせいだ。
随分捏ね、ぼそぼそした形状の生地がひとまとめにできるようになった。トシさんはビニールシートを敷き、そこに出来上がった生地の玉を置く。さらにもう一枚上からビニールシートを敷くと私に命じるのだ。
「ほら、この上に乗りな」
「乗る?え?」
「足踏みするんだよ。なんだい、あんた、うどんも作ったことないのかい?」
あるわけない。大多数の家庭は、うどんとは買うものだ。捏ねて作るものじゃない。
「踏んでいいんですか?」
「踏まなきゃコシがでないよ!」
おずおずとビニールシート越しにうどんを踏む。ぐにゃりと変な感触が足の裏にする。でも、冷たくて少し気持ちがいいかも。
よろつきながら、うどんを踏んでみるけれど、トシさんには不満のようだ。
「あんた、全然ダメだね。細っこすぎて、足に力がない」
押しのけられ、見守ると、私よりずっと小柄なトシさんはシャキシャキとリズミカルにうどんを踏んでいく。力強く、堂に入っている。
「ほら、もう一回やってごらん」
トシさんはあっさり退いて、私の背を押した。このまま、トシさんがやればいいのに。そう思いながら断れず、再びビニールシートに乗った。うどん玉は先ほどよりぬるい。弾力は硬くなっている気がする。
私は精一杯力を込めて脚を振り下ろした。何度も何度も足踏みする。
「その調子で足を動かしな」
トシさんの励ましは言い捨てるみたいな冷たい言い方だけど、私はそれでも期待してもらってる気がした。期待に応えられなくても頑張るのは習性だ。汗が吹き出してくる。低体力の私は息があがってしまう。だけど、めげずにうどんを踏んだ。
途中、迅が覗きにきたけど、私には声をかけなかった。たぶん、私の鬼気迫る顔を見て、声がかけられなかったんだろう。
「もういいよ、どきな」
トシさんに言われ、私は息を切らしながらビニールシートから降りた。ほんの数分だっただろうに、何時間も運動したような気分だった。体育よりずっと疲れた。
まな板と大きな包丁を用意したトシさんは打ち粉をして麺棒でうどんをのばし始める。うどんはどんどん平たくなり、おりたたまれてしまう。トシさんがすとんすとんと端からうどんを切り始めた。その手際のいいこと。
「あんたもやるかい?」
「いえ、……上手にできなさそうなので」
「気概のない子だね。まあ、疲れただろうから見ておいで」
少し太めの白い麺ができあがると、トシさんは台所の沸騰している大鍋にざっと入れた。10分弱ゆでると見事な手打ちうどんが完成する。