目の覚めるような赤だった

翌朝はお母さんより早く目が覚めた。
キッチンでふたり分の朝食を作る。普段と少し変えて、シリアルとゆで卵とサラダチキンとブロッコリー。
音で起きだしたお母さんは、黙々と朝食を作る私を見て身構えたみたいだ。昨日はあのまま何も話すことなく休んでしまった。

「もうできるから、席について」

自分でこんなことを言ったのも初めて。私は、お母さんのスペースに朝食を置き、言った。

「食べながら話しがあるの」

いつも通り険のある言葉が返ってくるかと思いきや、お母さんは席にはつかず、無言で顔を洗いに行ってしまう。ふたり分の仕度が完璧に整った頃、お母さんは席についた。話を聞く姿勢なのか黙っている。
私はコーヒーのマグを置き、自分も席についた。

「夏休み中、予備校を休もうと思う」
「休んでどうするの?」

問いはすぐに返ってくるので、私は準備してあった言葉を紡ぐ。

「ひいおばあちゃんの家でひとり暮らししてみようかと思う」
「はぁ?」

さすがにお母さんの声が険しくなった。構わず続ける。

「ひとりで勉強して生活してみたい。予備校に行っても行かなくてもあまり変わらないのはお母さんも知ってるでしょう?」
「ひとり暮らしごっこがしたいなら、受験生の夏にすることないじゃない」
「この夏がいいの」

それは、迅との生活のためよりもっと重要なこと。
私ももうわかっている。私とお母さんの関係は、少し違う。普通の親子関係とも、同性の二人暮らしとも。

「電気も水道も止めてあるだけで連絡すれば使えるって聞いたことある。ひとりで行きたい。不安なら優衣や聖に様子を見に来させて」
お母さんは私の交友関係の狭さと人に対する警戒心の強さを知っている。昨日は彼氏ができたのではと心配していた様子だけど、その疑いは晴れているはずだ。
そして、私が心を許している優衣という親友の存在を知っているし、甥っ子の聖には信頼もある。

「受検だと言っているのよ」

お母さんは険しい声と表情で私を見据えた。

「この家で勉強しなさい」
「この家にいたくないの」

言葉にしてから、言い切るか迷った。お母さんを怒らせる直接的な言葉だからだ。
いや、言わなければならない。私とお母さんはもう随分、真っ当な親子ではなくなっていた。

「お母さんといると息苦しい。もうずっとそう思ってきた。何をしても怒らせてしまうし、期待に応えられない」

お母さんがぐっと押し黙った。

「高校に行かせてくれてありがとう。受験費用も大学の授業料も負担してくれるの、ありがとう。でも、私はお母さんの希望通りに生きられないかもしれない」

顔をあげ、お母さんの顔をまっすぐに見つめた。こんな風に母親と対峙すること自体随分ぶりな気がした。

「私たち、今は親子じゃないと思う。お母さんは私を操縦したいし、私はお母さんが怖いから従ってるだけ。……もうずっとお母さんのこと嫌いだった」

こんな言い方は傷つける。だけど、ごまかして上手いことを言っても、何も解決しないことは私もわかる。嫌だけど、つらいけど、言わなきゃいけない。

「少しの間、お母さんから離れたい。……悪いことはしないし、危ないことには近づかない。防犯も火の元にも気を付ける。ひとりで行かせてください」

頭を下げた私の耳に、椅子が引かれる音がした。
お母さんは朝食を途中でやめ、席を立ってしまった。そのまま仕度をして、何も言わずに出勤していくお母さんを私は無言で見送ることしかできなかった。
失敗したかもしれないと迅に告げ、学校へ向かう。
終業式を終え、もし駄目なら伯母さんに直談判に行こうなんて思いながら帰宅すると、リビングのソファで迅が待っていた。

「春香おばちゃん、一回戻ってきてこれ書いていったぞ」

にやにやとダイニングテーブルを指差すので、覗き込んだ。
そこにはコピー用紙に残された走り書きのような手紙。

『夏休みは好きにしなさい。
予備校の休学届けは出しておきます。
学校が始まるまでに必ず戻りなさい』

短い手紙だった。
お母さんの字だ。いつも提出書類に書かれる字と同じ、急いだような書体だ。
一緒に置いてあるキーホルダー付きの鍵。封筒に一万円札が五枚入っていた。

「春香おばちゃんさ、ちゃんとマナカのこと理解しようとしてくれてるぞ」
「そうかな、それは自信ないけど」

お母さんがどう思っているかはわからない。あんな態度をとった私に怒っているかもしれない。案外、もう大学の学費も出さないなんて言われて、高卒と同時に家を追い出されてしまうかもしれない。

それでも、私は自分の本音を伝えた。たぶん、必要なことだったと思うから。

「明日には出発したいし、準備するね」

私は迅を見上げ、一生懸命笑った。

夏休みは明日から始まる。私と迅のふたりきりで最後の夏だ。






「迅、こっちこっち!」

私は改札前でジャンプしながら大きく手招きした。JRや地下鉄の改札のある地階から迅が階段を駆けあがってくる。

「電車出ちゃうよ!ほら!」

私は迅のために買っておいた特急券を渡した。

「ごめんなぁ、買わせちゃって」
「いいよ、一緒に行きたかったし。電車乗ろ」

私はホームに来ている特急の特別改札を抜けた。後から迅も続く。幽霊でも改札が反応する、なんて奇妙な感動を覚える。

ひいおばあちゃんの家は隣県。特急電車で都内の主要駅から80分の距離だ。思ったより近い。
当初迅は、夜になると透けてしまう幽霊状態を活かして、自分はトラックか何かに便乗していくと言っていた。私に交通費を出させるのが忍びないってことみたい。だけど、私がそんなのは嫌だから、昼間に一緒にきてもらった。あまりお小遣いを使うほうじゃないから、私にはそこそこの貯金がある。

「どこに行ってたの?」

指定の座席につき、小振りのスーツケースを網棚に載せる。
迅はへへっと笑い、ジーンズのポケットから封筒を取り出した。

「じゃ~ん、軍資金~」

見れば、中身は十万円ほどの現金だ。驚いて見上げると、迅が得意げに笑い、それからはっとした顔で言い訳を始めた。

「言っとくけど、盗んできたとかじゃないからな!!」
「……うん、それはわかるけど……」
「へそくりだよ、へそくり。俺、金使い過ぎないように手元に現金おかないようにしてたんだよな。でも、急に必要なときってあるだろ?飲み会とか、異動の祝い金とかさ。そういうとき用に金を隠しておいたんだよ」
「隠してって……どこへ?」

迅の寮の部屋は引き払ってしまったって聞いたけど、ATMより近いところに隠しておいたってことでしょう?

「独身寮の玄関の植木鉢の下!」
「そんなところに!?」
「すっげぇ重たいミカンの木の鉢だから、寮母のおばちゃん、どかして掃除しないんだよ。そういうのが三カ所あってさ。全部でこの金額」

迅は古巣の独身寮に忍び込むため朝から出掛けていたのだ。いよいよ得意顔で私に封筒を押し付けてくる。

「そんなわけで使ってよ。俺、もう金かかんない身だし、マナカの生活の足しにして」
「それは……助かるけど」
「あ、Tシャツくらいは何枚か買ってもらおうかな。ずっと同じこの白Tだと、近所の人とか胡散臭く思うから」

同じ服を着続けているのが胡散臭いと感じるあたり、警察官の思考だなと思う。でも、夜はいざ知らず、昼間は身体の質量がある。Tシャツくらい着替えられそうだ。上から羽織ってもいいかもしれない。

「買うところあるかな」
「マナカ、ホント都会っこだな。ひいばあちゃんちあたりは確かに何にもないけど、国道沿いはでっかいスーパーや薬局ができてるぞ、あのへん」
「そこまで歩いて行くの?」
「30分くらいだし歩けるだろ。買い出しはだいたいそのあたりで済ませるつもりだから、頑張れよ」

私は内心げえと舌を出した。体力がとにかくないので、この炎天下歩き回らされるのは嫌だなと思う。迅は職業柄鍛えている。幽霊の今はその尺度で図っていいのかわからないけど、それでも私よりは圧倒的に動けそうだ。今朝もアクティブにへそくり探しに出かけてきたんだし。

「歩けなくなったらおぶってやるから」

私は高速で首を左右に振る。それはもっといやだ。迅なら素でやりかねない。

「お気遣いなく!」
「お姫様抱っこがいいか?」
「絶対嫌!!」

私はそっぽを向いて車窓を眺めることにした。
がたんとひとつ揺れ、それからはスムーズに電車が走り出す。駅舎を抜け、光の中に飛び出した特急電車の心地よい振動。隣の席には迅がいる。

胸がきゅうっとなる。こんなかたちだけど、迅と旅行に行くのだ。
大好きな人とふたりっきりで旅行に行けるなんて、きっとすごく幸せな思い出になる。

「天気いいなぁ」

迅が私越しに車窓を眺めて言った。今日は真夏日の陽気だけれど、さっきまで外にいた迅には汗ひとつ浮いていない。温度を感じる機能はないのかもしれない。
涼しげな迅を見て、なんと表現すべきか難しいけれど、違和感を覚える。どこかこの世のものではない空気が消せない。それは迅本人もわかっているのだと思う。



電車は途中の駅で進行方向を逆に変えた。私たちは背面に向かって進みだし、景色は後ろから前に流れていく。乗り物に酔う質でもないので、そのまま車窓を眺めた。東京のはずれあたりからのどかになってきた景色は、今やほとんどが山中の景色だ。山と山の間を縫うように電車は進んでいる。

ひいおばあちゃんの家は、最後に行ったのが小学校低学年の頃だから、どうやって行ったかも覚えていないけれど、そのときだってこの電車に乗ったのだろう。まったく記憶にない。随分山の中に行くものだと少し不安になる。
山を分け入って進み、ぱっと周囲が開けるとそこには地方都市の街並みが広がっていた。

「おお、久しぶりだ。結構変わったなぁ」

駅に降り立つと迅が伸びをした。乗降客は結構多く、半数が観光客に見える。駅舎は改装して間もない様子で真新しいのがひと目でわかる。綺麗に整備されていて、駅に隣接した大型のお土産物店は観光客には便利そう。その奥には温泉施設もあるようだ。
ロータリーからは広い空と、低く連なる山々が見えた。こんもり茂っている森を指差し、迅が有名な公園があると言った。
ひいおばあちゃんの家は迅の案内で徒歩15分のところにあった。それだけ歩くと、周囲はのどかで家と家の間隔が広い住宅地に入る。

「ほら、ここ、ここ。覚えてるか、マナカ」

ひいおばあちゃんの家は古い木造平屋の戸建てだった。隅の崩れた石垣塀は何年も修理された形跡がない。門扉をくぐれば、引き戸の玄関と草の生い茂った庭が見える。百日紅が濃い桃色で咲き乱れ、その隣には大きな栗の古木が植わっていた。

「ああ、……懐かしい。ぼんやり覚えてる」
「鍵貸してみな。結構鍵穴硬いから」

迅が戸に鍵を差し込み、何度か苦心して開錠する。引き戸自体はするりと開いた。
鼻に感じる懐かしい家の匂いに、記憶が呼び覚まされる。そうだ、この家に来たことある。香りは脳の記憶にダイレクトに響くと聞いたことがあるけれど、まさしくそんな感じ。私は自分が目の前の上がり框で靴を脱いでいる一瞬を思い出した。

「マナカが最後に来たのは、ひいばあちゃんが亡くなった年だろ?」
「そう、お見舞いを兼ねてきたの。お母さんたちがたまにお墓参りに来てるのは知ってたけど、こうして家に来るのはすごく久しぶり」

小さな平屋の家は、居間がひとつ、隣接した台所がひとつ、寝室にしていただろう六畳間がひとつ。あとは納戸と風呂、トイレで全部だった。寝室の部屋にはエアコンがついていて、居間には扇風機がある。真夏でも室内の熱中症は避けられそうだ。
お仏壇に遺影はない。祖父母宅の仏壇に異動しているのかもしれない。それでも、私と迅は手を合わせた。ひいおばあちゃんお邪魔します。しばらくおうちを借ります。

電気や水道、ガスの復旧手続きに三時間ほど。業者の人が来たりするので、私は今夜寝るために布団を二組干した。それから途中で買ってきたおにぎりを食べ、私ひとりが昼食にする。
「よし、買い出しに行こう」

業者の人が帰ると迅が元気よく言う。

「買い出し?」
「夕飯の材料とか、生活に必要なものとか。箸や食器はあっても、ティッシュなんかの紙類はねーぞ、この家」
「あ、そっか」
「でっかいホームセンターは明日以降にして、今日は近くの商店街で揃えられるものを揃えよう」

スーツケースの中身もほどかずに、私と迅は連れ立って家を出た。

ここまでの道程、迅は誰の目から見ても生きている人間だ。さっききた業者の人たちも私たちを兄妹だと思った様子で、迅を世帯主として話をしていった。
こうして歩いていると、私も錯覚しそうになる。迅はまだ生きていて、私は少しの間、妙な夢を見ていただけなのかもしれない。迅が死んでしまい、ひとりぼっちで世界に取り残される……そんな夢。

大きな県道に出るまではまばらな住宅と草ばかりの空き地が続く。夜は街灯も少なく寂しい道になりそうだ。県道は交通量が多く、市内を突っ切る大きな道路だ。道路沿いを歩くと割合すぐに隣の駅についた。特急で到着した駅とは路線も名称も違うけれど、ものすごく近くにある駅だ。商店街はこの周辺らしい。レトロな建物が立ち並ぶ商店街は石畳が敷かれ雰囲気がある。

「ちょっといい感じだよな」

迅が横で言う。私はコクコクと頷いた。知らない土地に来てしまったという感覚がぐっと強まった。

「ひいばあちゃん、元気な頃、この商店街までは歩いて買い物に来てたんだってさ」
「足腰丈夫だったんだね。あんまり覚えてないんだ」
「おまえもちっちゃかったもん。聖なんか記憶にも残ってないんだろうな」

少ない思い出は、ひいおばあちゃんの膝の上で大福を食べたこと。しわしわの指が私の身体に食い込んでちょっとだけ痛かったこと。ひいおばあちゃんはお線香みたいな匂いがしたこと。
スーパーでは当座必要なものを買いそろえた。ティッシュペーパーやトイレットペーパー、洗剤やシャンプー、石鹸なんかも。タオルはいくつか家から持ってきたけど、一ヶ月もいるとなると買い足しも必要になりそうだ。

「一応、言っとくけど、俺にはなんの気遣いもいらないからな」
「Tシャツでしょ?」
「それはいるけど、メシや生活用品は不要。髭も伸びない身体になっちまったからなぁ」
「すごく経済的」
「だろ、家計に優しい幽霊です」

冗談を言い合いながら、結構な大荷物で帰路につく。本当はもう少し知らない街を歩いてみたいけれど、今日急いで全部しなくてもいいだろうと思う。そりゃ、明日突然迅が消えてしまわない保証はないけれど、日々を惜しんで忙しく暮らすのはもったいない気がした。
なにより、今日のところはちょっと体力が限界。

「俺って、荷物、持てるんだよな」

迅が油や塩で重たいビニールを手に下げ、胸の高さまで持ち上げて見せる。

「どういうこと?」
「いやさ、俺って昼間は周りの人間にも見えるじゃん。でも、それは周りの人に錯覚させているだけで、実際俺は実体のない幽霊なんじゃないかって。だとしたら、荷物が持てるのはおかしいよなぁ」
「もしかすると、荷物を持ってるのも本当は私だったりして。迅は私や周りの人に無意識に錯覚させてるのかもよ」

言いながら、これはある線だな、なんて思う。迅の感触や存在感は私が脳内で作りだしているものなのかもしれない。周囲の人たちに見えるのも、迅の存在を脳が誤認するようになっているのだろうか。そうだとしたら、それはどんな種類の魔法だろう。

そして、この魔法は誰がかけたのだろう。……魔法が解けるのはいつだろう。