目の覚めるような赤だった

「たぶん、何かの理由で俺は最後のお別れの時間をもらえたんだと思うんだよな」

それから迅はゆっくりと透けていく間、まるで世間話みたいにここに至るまでの話をしてくれた。

「現場が山間の集落でさ、昔はよく水が出てたらしいんだけど、まさかあんな規模の鉄砲水が起こるなんて誰も思わなかったみたいだな。上流で土砂崩れが起こって、周辺の沢や沼の水が一本道に全部流れ込んできたって話。もちろん、流された俺がそれを知ったのは目覚めてからなんだけどな」

迅は流され、命尽きたという。次に目覚めた時、迅は小学校の体育館に大の字で寝ていたそうだ。当時、救助活動の拠点にしていた場所だった。

「まず、助かったんだって思った。悪い夢でも見てたのかなって。試しに外に出て、畑仕事をしてたおばあちゃんに聞いてみた。あの災害はどうなったって。おばあちゃん、もう3ヶ月経ったって。仮設住宅は市役所の近くにあって、行方不明者は警察の人がひとりだけだって。現場にも行ってみたけれど、重機がひしめいていてよくわからなくてさ。とにかく3ヶ月記憶がないのは変だって思いながら、町の図書館を目指したんだよ。当時の新聞を読んで、あー、俺やっぱり行方不明のまんまじゃーんって」

呑気な口調で話す迅。私は信じられない気持ちで迅を見つめる否が応でも信じないわけにはいかない現実が目の前にある。迅の両腕はもう完全に透けていた。恐らくは脚も。

「でもまだ俺は自分が死んだって思いたくなかった。普通に人と喋れるし、みんなの目にも見える。でもさ、図書館を出て外が暗くなってきたらこうだよ。クラゲみたいにスケスケになっちゃってさぁ。死んだって実感したのはその時。一晩、体育館でうずくまってたら、翌朝また身体は人間に戻ってたんだけどね」
「迅……それはどういうことなの?」
「さあ、俺もよくわかんねーの。でも、とにかく日中は仮の身体で生きてて、夜になるとそれがふにゃふにゃに融けちゃうって感じかな。いつまでこの状態なんだろうって思いつつ、ここにいるのもなんだし東京に戻ることにしたんだ。昼間は国道を黙々と歩いて、夜になって透けてきたら、トラックの荷台なんかに紛れ込ませてもらってさ。幸い、飲まず食わずでも問題ないし、四日かけてここまできたんだよ」

迅は少し考える風に顔を上向かせて、それから私に向き直る。

「たぶん、この状態って長くは続かないと思うんだよな。俺、日頃の行い良過ぎだから、神様か誰かが気ぃ利かせてくれたんだろ。大事な人とさよならする時間を……的な?」
「それなら、伯父さんと伯母さんと聖に会いに行きなよ」

なんの根拠か知らないけれど、時間がそんなにないなら、一刻も早く会いにいくべきだ。私のところで居候している場合じゃない。

「わかってないなぁ、マナカ。神様もわかってない。俺は親父にもお袋にも別れを告げる気はないんだよ。もちろん、聖にもな」

迅は言葉を切って、自分の透けたてのひらを見つめる。左手首に私があの日持たせた真新しいミサンガが巻きついているのが見えた。赤いミサンガも頼りなく透けている。

「警察官になったときから、人より死に近いことは覚悟の上。職務上命を落したなら仕方ないだろ。それにさ、もう散々泣いただろうお袋をもう一回泣かせたくないよな。マナカんとこに泊めてほしいのはそういう理由」

迅は最後の挨拶より、家族を再び失う悲しみから救いたいのだ。それはすごく迅らしい考え方だった。
そうか、ここにいるのは間違いなく迅本人なのだ。仮の身体の、魂は本物の迅なのだ。

「マナカはごめんな。俺ともう一回バイバイするとき、わんわん泣いちゃうもんなぁ」
「ちょっとうぬぼれないで。そんなに泣きません」

普通に答えながら、私はこの奇妙な現実を受け入れつつある自分に驚いた。柔軟な思考とは言い難い私だけど、目の前には失ったはずの大好きな人がいて、彼は最後の最後に頼る相手として私を選んだ。それは嬉しいに決まってる。
だけど、迅はやはり死んでしまった。その事実はこうしてはっきりした。目の前、随分透けてふにゃふにゃになった迅は生きているとは言い難いもの。
私はため息をひとつつくと、顔をあげた。泣いちゃダメだ。

「わかった。大事な従兄の頼みだからね。迅がきちんと天国に逝けるまで、うちにいていいよ」

天国に逝けるまで、だなんて迅にとっては複雑な言い回しをしてしまったかと思ったけれど、迅はぱあっと笑った。

「おお!サンキュな、マナカ。このロスタイムがどのくらいあるか検討もつかないけど、何年もってことはないと思う。神様だってそんな太っ腹なことをするなら、逆に俺を生き返らせてるだろって話。きっとほんの数時間か数日だよな」

どこまでも陽気な迅に、なんだか私は笑ってしまった。ああ、迅だ。変わらない迅だ。
会いたかった迅とこんな形でも再会できた。またお別れするとしても、もう少しふたりで話す時間があるかもしれない。あんな急な別れ方をしてしまって、ものすごく辛かった。私だけは、迅にお別れをする時間がもらえたのだ。

「しばらく居候させていただきます。すまん!ありがとう!」
「お母さんが家にいるときは部屋から出ちゃ駄目だよ。透けててもよく見れば見えちゃうレベルだし」
「そうだよなぁ。どうせならもう少ししっかり消えたり出てきたりしたいんだけど、いち幽霊として」

日没後のリビングは暗く、迅の身体はもうすっかり全身が透けている。
エアコンが低く稼働音を響かせ、ぬるい風を吹き出していた。







迅はお母さんが来る前にと部屋に私の部屋に引っ込んだ。このときほど掃除しておいてよかったと思ったことはない。
迅は私のどきどきと裏腹に「マナカの部屋久し振りだ」なんて無邪気に本棚を漁りだし、漫画本の一冊も見つけられずしょんぼりとベッドに腰かけた。しょうがないじゃない。漫画を読む習慣がないんだもの。

間もなくお母さんが帰宅し、私はリビングダイニングで夕食にした。
お母さんにバレるリスクを減らすため、部屋の出入りを少なくしようとシャワー道具も持って脱衣所に置いておいた。

21時頃部屋に戻ると、すっかり透けている迅は私の勉強机にもたれて眠ってしまっていた。
幽霊なのに眠るんだ。勉強机でいいのかな。そりゃ、布団を敷くスペースもなければ、お母さんに見られたときの言い訳ができないけれど。
とはいえ、先に眠ってしまった迅を見てホッとした。
こんな形でも、好きな人と同じ部屋で眠るんだもの。緊張しなくて済む。
勉強机が占領されているので、ベッドで夜の分の勉強を済ませ、眠りについた。明日、迅は消えているかもしれない。
もしそうなら、一瞬でもいい夢が見られたと思おう。
怖がるな。そう自分に言い聞かせて眠りについた。
翌朝起きた時、迅は夜と同じ格好でぐうぐう寝ていた。
よかった、いる、と安堵しながら、透けていた身体が戻っていることにも気づく。
迅の身体はどこからどう見ても人間のそれだ。昨日のマシュマロみたいな柔らかさを思い出し、現実感がなくなる。

私はそろりとベッドから起き上がり、迅の頰に触れてみた。
人間の肌の感触だ。温度もある。

迅の姿を目でも指でも確認してやっと安心した。
私は変な妄想に憑りつかれちゃったわけじゃなさそうだ。大丈夫だ、迅はちゃんといる。生きてはいないらしいけど、こうしている。
ふにふにと頰を指で押しているとふがっと変な音を立て、迅が目覚めた。慌てて指を引っ込める。

「うお、マナカおはよ」
「おはよ。まだお母さん家にいるから静かにね」

私は迅を残し着替えを持って部屋を出た。さすがに同じ部屋では着替えられないから、洗面所で手早く着替える。

ダイニングテーブルにはいつもの朝食が並んでいる。この朝食を毎朝整えるだけでも、結構手間だ。
仕事をして食事の準備をして洗濯や掃除もして……お母さんは頑張っている。それはわかる。でも、頑張っているから私も頑張らなければならないの?
お母さんの気にいるように。私にはそのやり方がよくわからない。

「来週から夏休みね。予備校の時間増えるんでしょう?」

声をかけられ、その内容が決まりきったように勉強のことで、うんざりとする。他にお母さんと話すことがないことにも気付いているけれど。

「うん」
「しっかりやりなさいよ。夏休み明け模試があるんだから」
「うん」

朝の会話はそれだけだった。
お母さんが出勤していき、私は急いで自分の部屋に戻る。
迅はデスクで私の本棚から出したらしい小説を読んでいた。暇つぶしは、小説に落ち着いたのだろう。

「活字、読むの久し振り」
「迅、読まなさそうだもんね」
「漫画専門だけど、マナカの部屋ないもんなぁ」

確かに私の部屋に迅が興味を持てそうなものはない。漫画雑誌くらいは買ってきてあげようかな。

「私、そろそろ学校行くね。お母さんは夜まで帰らないから、自由にしてて。学校と予備校の間に寄れると思う」
「おう、俺のことは気にすんなよ」

鞄を持って、ドアに向かうと、迅がひと言声をかけてくる。

「言い忘れてたけどさ。俺のミサンガ、手首につけてるのな」

私は左手首を見下ろす。言われるまで忘れているほど手に馴染んだミサンガは迅の遺品だ。

「もとは私が作ったものです」
「うんうん、そうだよな」

迅は自分の左手も持ち上げて見せてくれる。その手首には赤いミサンガが巻きついていた。
ミサンガは迅の最後の瞬間まで彼の傍にあったのだろう。

「オソロイだな。カップルみたいじゃん」
「馬鹿言わないの」
「ごめんごめん。マナカにも似合うよ、赤」

私は少し笑って、部屋を出た。
本当は迅の無邪気な言葉に、鼓動が速くなって顔を見られなくなったのだけれど。
「真香、おはよ!」

学校に到着すると校門のところで優衣に会った。ポニーテール、体育のTシャツに制服のスカート。はつらつとした優衣は夏が似合う。

「今日こそ、夏休みの予定決めよ!」

今日も優衣はとにかく元気だ。いや、片想いの相手を失った私を元気づけようと、あれからはことさら明るく私に接してくれる。

「受験生だよ」
「でも、高校最後の夏じゃないの~」
「優衣は推薦狙いかもしれないけどね。私は一応受験生だから」

優衣は私の肩に腕をまわし、甘えた声で言う。

「いいじゃん、どうせ真香、志望校も楽勝でしょ。国内最高ランクの大学にさ。真香が桁違いに頭イイのってみんな知ってるし。本当はお母さん、海外留学とかさせたいんじゃない?」

どうだろう。私が言いだせば、お母さんは喜ぶかもしれない。でも考えたこともない。海外留学なんて。

「興味ないかな」
「うんうん、そっかそっか」

優衣は私が避けたそうにしている話題をこれ以上掘り下げる気はない。私が勉強もそれにまつわる色々も本質的に嫌っていると、優衣は知っているのだ。

「楽しい夏にしようね。お祭り行ったり、海に行ったり。そのくらいいいでしょう?」
「ううん、まあ……もう少し考えさせて」

優しい親友は必死なのだと思う。私に生きる喜びや楽しさを思い出させようとしてるのだ。そうしないと、迅を亡くした私は消えてしまいそうに見えていたのかもしれない。

だけどね、優衣、絶望の中に不思議な光が差し込んできたの。
いつ消えてしまうかわからない光だけど。

「真香、今日、ちょっと嬉しそうだね。何かあった?」

するどく聞いてくる優衣に私はようやく笑顔を返した。

「何にもないってば」

親友でも、この異常事態を話すことはできない。
迅はきっとすぐにいなくなり、私はまた絶望の海に投げ出されるのだから。
この束の間の夢みたいな日々は私だけの秘密にしておきたい。

学校が終わるとコンビニで漫画雑誌の最新号を三冊買って、家に戻った。
どの雑誌が好きなのかわからなかったし、三冊あればそこそこ暇がつぶせるのではと思ったのだ。週刊誌だから、前号までの流れがわからなければ楽しめないのではと思いいたったのは、帰り道だった。まあ、それはいいや。

急ぎ足で帰る。今度こそ迅は消えてしまっているかもしれないと思うと気が急いた。この不可解な現象は理由も期限もわからないのだ。

「お帰り、マナカ」

迅は何事もなかったようにそこにいた。私のベッドに勝手に寝ころび、小説を読んでいる。
安堵と走ってきた疲れで大きく息をついた私は、コンビニの袋に入った漫画雑誌を無言で差し出した。

「買ってきてくれたのかよ。ありがとな!幽霊だから、金返してやれないけど」

迅は週刊誌だとか、どの雑誌が良かったなんてこだわりはないようだった。嬉しそうに中身を取り出している。おおざっぱで迅らしい。

「いいよ、このくらい」

短く答えて、顔をそむける。安心で、ちょっと涙が出そうになっていたからだ。

「そう言えば、宅急便がきたっぽいよ。不在通知入ってなかったか?」
「え?確認してくる」
「あやうく取りに出そうになったわ。あぶねぇ、あぶねえ」

迅の無責任な態度に、背筋がぞっとした。思わず、怒声に近い声で怒鳴ってしまう。

「本当に危ないからやめて!じっとしてて!」

母子二人暮らしなのは、しょっちゅう来る宅急便の配達員もわかるはずだ。そこに見たこともない若い男が出てきたら驚くに違いない。

「でも、俺結構退屈だからな。そうだ、今度掃除とかする?」

私の剣幕を意にも介せず、無邪気に迅は言う。自分の怒声を恥じて、小声で答える私だ。

「本当にやめて。お母さん、結構敏感だから、私がやってないって気づくかもしれない」

じゃあ、やっぱりニート生活かあ、なんて笑う呑気な迅を後目に私は予備校に行くのをやめた。
まだ幽霊になって日が浅い迅を長時間ひとりにしておかないほうがいいのかもしれない。本人も自覚無しの行動をしてしまいそうだし。

そして、予備校を休んだからと言って、私にはあまり関係ないだろう。
ひとりでも勉強はできるのだから。