目の覚めるような赤だった




迅、あなたのいない世界は色が無い。
真っ暗で前も見えなくて、私には歩ける場所じゃないと思ってた。
私の脚は動かし方がわからなくなってしまった。

だけど、違うよね。
もう泣きごとは言わないから。
私は進む。
途中で歩みを止めざるを得なかったあなたの分も歩く。
この広くて驚くほど美しい世界の隅々まで、
たくさんたくさん歩きまわってみるから。

だから、いつか会える日まで。
またね。



*****





食パン、ハムエッグ、ブロッコリー。毎朝ほとんど同じ内容の朝食は、お母さんが作ってくれる。
私はシリアルでもいいけれど、タンパク質をとったほうがいいとお母さんは言うし、そんなことで言い合いになっても面倒なので、おとなしく従うことにしている。
ハムエッグは固焼きだ。私は少し半熟が好き。でも、お母さんは固く焼く方が安全だと思ってる。

「真香(まなか)」

お母さんが私を呼んだ。自身は5分ほどで食事を済ませていて、すでに食器を流しに置いている段階だ。

「面談、いつになるか早めに連絡しろって担任に言っておきなさい」

私はごくんと食パンを飲み込み、頷く。お母さんは私を見ずにテーブルを拭いているので、非難がましく「返事なさい」と言った。

「うん、わかった」

あらためて言葉で答えると、お母さんは納得したようだ。我が家ではよくあるやりとり。
お母さんは慌ただしく食器を洗ってから、私に向き直った。

「春の三者面談なんて進路についてでしょ?どうしたってそこは行かなきゃいけないから、休み取りやすくしてほしいのよ」
「聞いておく」
「今日中によ」
「わかった」

私の返事に満足したのか、お母さんはリビングを出ていく。化粧は出がけギリギリにするのが習慣なのだ。
私はゆっくりと自分の分の朝食を咀嚼する。
食パンが飲み込めない。食べるのが得意な方じゃないので、私の朝食は時間をかけて進む。
眠いわけじゃないし、学校がダルいとも思っていない。
ただ、毎朝のお母さんとのやりとりは少し苦痛だ。早く出かけてくれたらいいのに、口には出さないけれどいつもそう思う。
食べ終わり食器をのろのろと流しに運ぶと、またしても後ろから大声で呼ばれる。

「真香、そういえば予備校はどうするの!?」

私は振り向き、ゆっくりと答える。

「今のままでいい」
「あんたの学力に合わせるなら、もう少し上のレベルにした方がいいって言ってるじゃない。面倒臭がらず、友達にリサーチしてらっしゃい。評判のいいところ、お母さんも探してるんだから」

お母さんはカバンを手にぶつぶつ言っている。一応ダイニングから廊下に顔を出すと玄関でパンプスを引っかけるお母さんと目が合った。

「春の時点でA判定もらっていたって、油断できないのよ?みんな頑張って学力あげていくのはこれからなんだから。受験生の自覚を持ちなさい」

私は反論せずに頷き、お母さんの背がドアの向こうに消えるのを見送った。

「A判定とってあげたんだから、それでいいじゃない」

もう届かないからこそ言える本音を呟いて、私は登校の準備を始めた。
高校三年生、四月。

最後の一年は始まったばかりなのに、私の毎日は憂鬱。うららかな日差しも散りかけの桜も楽しめる気分にはならない。
電車で15分、さらに駅から人の波に乗って5分のところに私の通う高校はある。学校に到着すると、まっすぐ三年二組のクラスに向かった。
誰に挨拶をするでもなく席につき、鞄の中身を整理しつ文庫本をとりだしたところで、頭のてっぺんにごつんと衝撃がきた。

「真香、おはよー!」

見上げればそこには隣のクラスの優衣がいた。衝撃は優衣の拳だ。高一、高二と同じクラスだった彼女は最後の年でクラスが離れてしまった。

「乱暴」
「おはようでしょ?真香」
「おはよう、優衣」

ポニーテールを揺らして優衣がはつらつと笑う。背が高くバレーボール部で、はきはきとなんでも物おじせずに言う彼女は、一応私の親友だ。私とは正反対のタイプで、どうして私たちが仲良くなったか、いまだに謎だ。

「真香は放っておくとクラスで誰とも喋らなさそうだから、挨拶にきた」
「もう、やめて。子どもじゃないんだから」
「ほら、あっちにバレー部のさっちんとユメがいるよ。あんたも顔見知りじゃん。挨拶しておいで」

私は首を振った。

「わざわざ行くことじゃないよ」
「も~、真香は。これじゃ新しいクラスで友達できないよ?」
優衣は私の非社交的なところをひどく心配していて、ことあるごとに隣の一組から様子を見にくる。クラス替えが終わって半月、ほぼ毎日だ。

「別に友達を作る必要ないもの。優衣がいるし」
「だから~、私だけじゃクラスでなにかあったとき困るでしょ?」
「平気よ」

そこそこの進学校だ。高三ともなれば、みんな友情を育むより勉強に打ち込むことを優先する。友人がいなくて不便することは少ないし、班や当番などの活動はそれこそ優衣の部活仲間の斉木さんと新藤さんが気を遣ってくれる。優衣が頼んでくれたみたい。

「真香が個人主義なのは知ってるし、それで充分やってけるのは知ってるよ。学年一位の秀才は勉強が一番大事なのも知ってる。でも、周りと強調するのって大人になるのに必要科目だと思うんだけどな~」
「優衣、お説教。オバサンくさい」
「真香、むかつく~。ま、いいや。お昼にまた来るね」

私がたたいた憎まれ口に笑顔を返し、優衣は去っていった。時刻は間もなく朝のホームルームだ。

個人主義。
その通りだから言い訳のしようもない。友達は積極的には作らないし、学業優先で三年間過ごしてきた。
それでいいと思っているし、この先もそうするつもりだ。優衣という友人ができただけで私の高校生活は恵まれていると思う。

学校は勉強をしにくるもの。それは小学生から言われてきた。私が小さいときに両親は離婚。お母さんは働きながらひとりで私を育ててくれている。苦しいだろうに私立の有名小学校に入れてくれた。すべては私が将来苦労しないためだとお母さんは言う。勉強していい大学に入って、いい職につきなさい。
いい職とはなんだろうと思いながら、私は幼い頃からそれに従ってきた。お母さんは私の唯一の保護者であり、お母さんに見捨てられたら生きてはいけない。それなら期待に応えるしかないのだ。

優先はいい点をとること。このどこにでもある進学校で一番を取り続け、お母さんがいうところのいい大学に行き、お金に不自由しない職種に就く。
それが私の展望というでもない決定事項。
ホームルームが終わり、廊下に出たところで担任を呼び止めた。

「どうした、樹村(きむら)」

今年の担任は川田という二十代半ばの英語の男性教師で、人気のある人だ。うちのお母さんは若いことが不満なのと、人気があることを知って「あんなチャラチャラした人が担任なんて」と文句を言っていた。川田先生も無頓着なところのある人だから、お母さんがどれほど苛々してものれんに腕押しになりそうだ。
そんな上手くいきそうもないふたりに挟まれ三者面談だなんて。考えただけで気が重い。

「三者面談の日程がいつになるかと……母が休みを取る関係で知りたいと言っていました」
「あー、ごめんな。学年全体で調整とっててさ。今週中にはお知らせ配るから」

またお母さんが騒ぎそう。「連絡が遅い」だなんて言われても、私の責任じゃないのに。
仕方なく、わかりましたと頷くと、川田先生は明るく笑う。

「まあ、樹村はうちの学校でも飛び抜けて成績がいいからな!国立大でA判定もらってるし、同じペースで勉強していけば、志望校はどこでも余裕だろ」

そういうのんきなことを言わないでほしい……少なくともお母さんの前では。万が一志望校に落ちたとなれば、母は「担任と学校側の指導が悪い」と言いだしかねない。

「ありがとうございます。母に伝えます」
「おう、よろしくな」

川田先生の後ろ姿を見送ると、ふと背後の視線に気づいた。ずっと貼りついていたらしい視線は、先生のファンのクラスメートたちだ。私と川田先生がなにを話していたか気になるのだろう。
私は彼女たちを一瞥もせずに教室へ戻った。安心してほしい、川田先生にはなんの興味もない。もちろん、彼女たちも私に文句を言ったり陰口をたたくことはない。私は随分とっつきづらく見えるらしい。
学年トップを二年間守り続けてきた樹村真香は、どの先生にも覚えがいいけれど、どの先生の目にも消極的で無気力に映っているだろう。
同級生も皆思っている。『樹村さんは変わってる』『勉強にしか興味がない』

別にそれでいい。学校は退屈だし、それは大学に進んでもたぶん同じこと。社会に出るまでの枠組みでしかないのなら、何事にも関心なく学生の本分のみに集中したっていいじゃない。面倒なんだもの、いろんなことが。

私は首をぱきっと慣らして、教室に戻った。一限がもうじき始まる。




放課後は週4日で予備校だ。地元の駅近くのビルにあるので、学校からまっすぐに向かう。入ってみて普段と雰囲気が違う。何事かと人垣の間を覗いてみれば、塾の入口ドアには張り紙。数人の塾生がそれを眺めてざわざわしている。張り紙はこうだ。

『水漏れにより、本日は休講です』

上の階で水道管が壊れたらしいと、前にいたふたりの他校生が話している。ラッキーと誰しも思っただろう。私も少し思った。別に予備校でなくても勉強はできる。予備校に通うのは母への体裁。ぽかっと空き時間ができるのは嬉しかった。