目の覚めるような赤だった

柔くふにゃふにゃの感触が私の頬に触れる。
迅の右手だった。何度も何度も私の頬をなで、涙を拭おうとしてくれる。
もうあるかないかの感触しか残っていない消えかけた温度。

私を見下ろす迅の瞳は、切なく歪んでいたけれど、そこに先までの苦痛はなかった。
夜明け前の空みたいに澄んで、穏やかだった。

「おまえはひとりで歩けるよ。立派な足を春香おばちゃんからもらってんだ。前を見ろ。俺の背中じゃない。おまえだけの未来を見ろ。そこに向かって歩け」

迅は、けして私を連れて逝ってはくれない。私が後を追うことすら許しちゃくれない。
わかっていた。わかっている。

そして、迅が誰より一番、私の未来を信じている。
今この瞬間、誰より私の幸せを願ってくれている。

私は迅とは逝けないんだ。
逝かないんだ。私がそう決めた。

「迅、迅……私、歩く」
「おう」

迅が切なく、でも鮮やかに微笑んだ。

「迅がいなくても生きるよ。精一杯、生きるよ!」

私の決意の直後に、ふ、と唇に柔らかな感触がした。

驚いて目を開けると、今までで一番近くに迅の顔があった。
かすかな感触は迅の唇だった。
顔を離して、迅がにっと笑う。
それはもういつもの迅だった。くしゃくしゃで愛嬌のある笑顔だった。

「本当は、俺が嫁さんにもらってやりたかったんだけどな」

え、と問い返そうとした瞬間だ。

迅が拳を握り左腕を高々と上げた。その手首には私が作った赤いミサンガ。
真っ赤な美しい赤い閃光がそこから溢れ、私の目をくらます。迅が光の中で笑っている。ああ、迅は逝ってしまう。

「マナカ、またな!」

そう声が響いた気がして、次の瞬間、あたりは雨の土砂災害現場に戻っていた。
遠くで聞こえる救急車と消防のサイレン。雨と風の絶え間ない轟音。

「迅……最後のずるい」

その場にへたり込んだ私にずっと隣にいてくれた勘太郎が寄り添う。鼻の先を私の頬に押し付けてくる。

「ずるい、ずるいよ、迅」

泣き崩れた私に、温度を分けようとするように勘太郎は隣から離れなかった。










「真香ー!」

高校の校門を出たところで、後ろから呼びかけられた。振り向くと冷たい風を切って走ってくる優衣がいた。白い息を吐き、鼻の頭を赤くして。制服に似合うオレンジ色のマフラーがはためいている。

「優衣、今日いたんだ」
「部室で後輩が送別会開いてくれてさー。帰ろうかってときに外見たら真香が歩いてくのが見えた」
「そっか。私は担任に報告」

入試の結果が全て出たのが昨日、私は担任に合格報告のため学校を訪れていた。

「川田先生喜んだでしょー。第1志望はもちろん、受けたとこ全部合格だもんね」
「おかげさまでね。優衣に続けて嬉しい」
「私は推薦だもん。楽してすんません」
「体育大は実技もあるじゃない。楽してないわよ」

3月の真ん中だ。まだまだ春遠く感じる寒さが続いているけれど、私も優衣も進路が決まった安堵感にふっと微笑み合う。

「来週が卒業式でしょ?早いよねぇ。答辞の原稿考えた?」

私は曖昧に笑う。なぜか卒業式で答辞を読む大役が回ってきてしまったのだ。

「んー、なんとなくね。でも、なんで私なのかな。こういうのって生徒会長とかがやるんじゃないの?」
「元々は成績優秀者がやる伝統らしいよ。観念して。真香が壇上に立ったら声援送るから」
「絶対やめて」

バス通学の優衣を見送るためにバス停に寄り道する。
5分ほどで到着と電光掲示板に表示されるのを眺めて、優衣とこうして帰ることももうないのかななんて思った。
優衣が思い出したように言う。

「そう!卒業式の二日後には卒業旅行だからね!風邪とかひかないでよ?」
「それ、本当に私とふたりでいいの?」
「一泊二日で近場の温泉なんて渋い卒業旅行、真香とでなきゃ行かないっつうの」

高校の卒業旅行なんて、海外に行く子たちもいるのに、私と優衣が選んだのは箱根のごはんが美味しいと評判のお宿だ。ふたりで温泉三昧してごはんを食べて喋りまくろうって約束をしている。

「ま、卒業してもお互い実家から通うし、池袋あたりで待ち合わせて遊べそうだよね」
「うん、言われてみればそうだね。あ、私バイトしてみたいの。優衣、よければ一緒に働けるところ探さない?」
「いいねぇ!真香にしてはいい提案!」
「『真香にしては』ってなによ」

私たちはきゃっきゃと笑い合う。優衣からしてみれば、私は随分明るくなったように見えるんだろうな。から元気でもなく、こうして心から笑えるようになっているのは、時間という薬が確かに作用しているためだろう。

「卒業かぁ」

優衣が空を眺めた。

「高校生じゃなくなるなんて信じられない」
「本当にね」

だけど、私たちは来週には高校生でなくなり、あとたった2年で成人するのだ。大人になるって覚悟を決める暇もない気がする。

「今週末、旅行の買い物行く?」

優衣に問われ私は両手を顔の前で合わせた。

「ごめん。今週末はトシさんのところに行ってくるの」
「ああ、夏にお世話になったおばあちゃんね」
「そう、従弟の聖と。行くと文句言われるけど行かないと寂しがるから」
「めんどくさい人だねぇ」

バスがスピードを緩めてバス停に到着する。
乗り込む優衣を見送って、私は駅に向かって歩き出した。


週末、泊まりがけで訪れたトシさんの家では、トシさんが忙しそうに立ち働いていた。

「来たね、うるさいやつらが。手伝いな」

玄関に立つ私と聖を一瞥するなり用事を頼んでくるトシさん。私たちは顔を見合わせ笑った。

「ぐずぐずしてると日が暮れちまうよ!」

奥からトシさんが大声を張り上げるので、私と聖は急いで靴を脱ぎ新しい板の間に足を踏み出す。

7ヶ月前の嵐の日、土砂崩れに巻き込まれたトシさんは肋骨と骨盤を骨折する大怪我を負った。奇跡的に助け出され、3ヶ月の入院とリハビリを終え、現在は同じ敷地の畑部分を潰して新しい家を建て住んでいる。こじんまりした現代建築の平屋で、縁側はないけれど、暮らしやすいように入院中からトシさんが手配して作った家だ。

「マナカはお彼岸のぼたもち作り、坊主はふきのとうのゴミ取りだよ」

挨拶をする暇も手土産のお菓子を渡す間も無くトシさんが指示を出してくる。

「ふきのとうって初めて見たわ」

私はトシさんが持っている金だらいいっぱいの緑の蕾みたいな山菜を見下ろす。味噌や天ぷらにするって聞いたことはあるけれど、食べたことはない。

「おばあちゃん、俺やったことないよ」
「あんたのおばあちゃんじゃないっていつも言ってるよ。教えてやるからやってごらん」

聖を伴い台所に向かうトシさんは背筋もシャンとしていて、怪我の後遺症はまったく残っていないように見える。

トシさんには娘さんと息子さんがひとりずついるけれど、ふたりにはこれを機にと同居を持ちかけられたらしい。トシさんがそんな提案を聞くわけがないのは、私でもわかるから、お子さんたちもダメ元で誘ったんだろうなと思う。結局トシさんはこうしてますます元気にひとり暮らしを続行中だ。

台所のシンクで聖にふきのとうを洗わせ、トシさんは鍋を手に戻ってきた。中には炊いたあずき。
するとこたつがごそごそと動き、中から勘太郎が這いだしてきた。
「勘太郎、そんなところにいたの?」
「おや、匂いで気づいたね、このいやしんぼう」

あんことトシさんを一瞥すると、勘太郎はふんふん鼻を鳴らして私に歩み寄ってくる。私は覚束ない足取りを抱きとめるように畳に座り、勘太郎の大きな身体を抱き締めた。

「勘太郎は私が来たのに気付いて出てきたんですよ」
「どうかね。こいつは座敷犬になってからとにかくよく食べるんだよ。おかげで死なないったらないよ」
「憎まれ口をたたかないでください」

私は勘太郎のごわごわの毛並を撫で、頬ずりした。

勘太郎の変化は目覚ましいものだった。死期が近いと思われていたのに、あの嵐を境にぐんぐん体力を戻し、今や家の中なら足を引きずりながらでも歩き回れるようになった。餌もよく食べ、瞳にも精気が戻った。
もしかすると勘太郎は、トシさんを守るために死の淵から立ちあがったのかもしれない。あの土砂の中、トシさんを見つけられたのは勘太郎が探して吠えてくれたおかげだ。

「こいつはね、私の入院中、息子の家で孫たちに甘やかされまくったもんだから、調子にのってんのさ。あんたがぼたもちを丸めだしたら、すぐに寄ってきておこぼれを狙いだすよ」
「勘太郎、甘いのは身体によくないからね。高級なジャーキー買ってきたよ。あとであげる」

私が勘太郎を撫でまわして話しかけると、トシさんが顔をしかめた。

「おお、やだ。あんたまでこの犬を甘やかすのかい?」
「勘太郎は賢いんですから、甘やかしてもいいんです」

私は言いきり、勘太郎から離れ立ち上がる。

「ぼたもち作りますよ。手を洗ってきます」
「ふん、そうしな。マナカ作の不恰好なぼたもちを期待してるよ」

意地悪を混ぜてくるのもいつものことだ。
シンクに並ぶと聖が、ふきのとうの細かいゴミまで洗い流しつつぶつぶつ言っていた。

「美味しいのかな、これ。こんなに苦労しておいしくなかったらしんどい」
「苦味があるって聞いたことあるよ。聖はお子様だから食べられないかもね」
「うるせー。子ども扱いすんな」

これで聖は好き嫌いなくふきのとうを食べるだろう。私も初めてだけど、最近はなんでも食べてみることにしている。トシさんが言っていた。

私たちは食べて働いて生きていく。
食べることは生きる上で一番目か二番目に大事だ。


ぼたもちはトシさんの期待通り不細工な仕上がりになった。トシさんは見本でふたつばかり作っただけで、ほとんどを私に任せ、自分は稲荷寿司を作り始めたのだ。

私は不器用にもち米を俵型にし、あんこでくるんだ。この作業がとても難しい。上手につけないと、すぐにあんこははがれてしまう。
さらに私の作る俵型が大きいようで、あんこがついて一回り大きくなると、巨大なぼたもちの完成。売っているものの倍くらいあるそれは、なかなかの迫力だった。

「いいねぇ。ほら、坊主、写真撮ってSNSだかに流してやんな。マナカの巨大なぼたもちを拡散して笑ってもらいな」
「トシさん、ほんと意地悪ばばあだね!」

聖が遠慮なく言って、トシさんに小突かれている。でも聖はちゃんと写真を撮って、うちのお母さんと伯母さんにメッセージアプリで送っていたみたい。比較にトシさんが作った上手な方と並べていた。
これは一生笑われるネタを作ってしまった。嫌になってしまう。

ぼたもちと稲荷寿司ができると、トシさんはふきのとうをすり鉢で擦り、味噌を加えて、ふきのとう味噌を作った。
それから、油を用意して生のふきのとうをさっと揚げる。サツマイモやにんじん、ゴボウでかき揚げも作り、鶏肉やタコは海苔をまぶしていそべ揚げにしてくれた。途中でお茶を飲んだり、聖が勘太郎の散歩に行ったりを挟んで、あっという間に夕食の時間だ。

並んだご馳走に私も聖も小学生のように歓声をあげた。

「ああ、うるさい。耳が痛くなるよ、あんたたちがいると」

トシさんは文句を挟みながらも嬉しそうだ。勘太郎も近くで餌をカツカツ食べている。
私と聖は稲荷寿司もぼたもちもたくさん食べた。天ぷらも漬物も、トシさんが育てたカブやブロッコリーも山ほどお腹に収めた。

「トシさん、ふきのとうの天ぷら、苦いけど俺食べれるよ」

威張って言う聖に、トシさんが言う。

「坊主は兄貴に顔は似てないが、雰囲気が似てるね。うるさいところも」

兄貴……迅のことだ。

聖がにかっと笑って答える。

「俺の方が兄ちゃんより頭いいよ。兄ちゃん、かなり馬鹿だったもん」

私はぶっと吹き出した。迅が聞いたら怒って聖と喧嘩になりそうだなと思う。

「まあ、賢そうには見えなかったね、迅は」

トシさんも真顔で答え、私はまた笑ってしまう。

あの夏の迅のことをこうして語れるのは、私たち三人だけなのだ。
迅が確かに存在していたと証明もできないけれど、私たちの記憶にはしっかり残っている。

迅はほんの一ヶ月だけ、この町で幽霊をやっていたのだ。
「兄ちゃん、ちゃんと成仏したかな」
「さあね、私はあれ以来見かけてないよ。マナカも見てないんだろう?」
「ええ。迅はもう幽霊にはならないと思いますよ」

私はひっそりと微笑んだ。トシさんが言う。

「彼岸だからね。あのうるさい馬鹿も帰ってきてるかもねぇ。悔しかったら姿を見せりゃいいのさ」

本当に。そんな風に再会できたらどんなに嬉しいだろうか。
でもあの日、目映く赤い閃光の中に消えた迅は、私たちとは違う世界にいったように思えてならない。

「そうだ、トシさん。話は違うんですけど、来週の水曜、卒業式なんです。よければ来てもらえませんか?」
「やだやだ。ごめんだよ、そんな面倒事」

ばっさりと断って、トシさんはお茶をすすっている。そんな気はしていたから、気にはしてないけれど。

「私、答辞を読むんですよ。晴れ舞台なのに」
「あんたの人生、これから山のように晴れ舞台がある。そのたび、他人の私を呼びつけるんじゃないよ」
「孫待遇だと思ってましたー。……まあ、いいです。四月の頭くらいに卒業旅行のお土産持ってまた来るんで、そのときに卒業証書見せますね」

私が笑ってみせると、トシさんもにやっと笑った。

「元気に未来を生きていて何よりだよ、根暗な子だったのにねぇ」
「夢ができましたから」

私ははっきりと言いきって、もうひとつ稲荷寿司を手に取った。


目の覚めるような赤だった

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