目の覚めるような赤だった

トシさんは台所仕事に戻り、入れ違いに迅がやってくる。迅用に麦茶は置かれてあるけれど、もうごまかして私が飲む必要はないんだなと思った。
トシさんに気づかれていることを迅に言おうか逡巡してやめた。トシさんは今まで通りの関係を望むだろうし、それは迅もまたそうだろう。

「勘太郎、今日は夕方散歩に行けるかぁ」

縁側にかけ、迅は呼びかける。寝転んだ姿勢になると勘太郎のスペースに手が届くのだ。
勘太郎はぼろぼろのぬいぐるみに鼻先を押しつけ、じっと迅を見ている。左目は白内障で少し濁っている。

勘太郎が弱っているのは、確かに明らかだった。
夏の暑さが堪えているのも事実だろうけれど、老いが勘太郎を連れて行こうとしている。
毛艶のなくなったボサボサの勘太郎を迅は寝転んだ姿勢で丹念に撫でる。

「向こうでも会えるかもなぁ」

心臓がずくんと痛んだ。
否定はできない。勘太郎にも迅にもその瞬間は確実に近づいている。ふたりはこれから、私には想像もつかないところへいくのだ。ここよりずっと遠くのおそらくは静かで安からな場所へ。
トシさんの前では全力で否定した私が、死に近いふたつの魂を見つめ、何も口にできなくなってしまう。

「先に帰ってるね」

かろうじて出た言葉は逃げ出すための言葉だった。


夕食のそうめんをゆでていると迅が帰宅した。
今日来ていた赤いTシャツを脱ぐと、デフォルトの白いTシャツにジーンズ姿になる。その手の先はもう透け始めていた。時刻は17時。日に寄って差はあるけれど、迅が“人間”を保っていられる姿は確実に短くなっていた。顕著になった身体の反応に、迅自身も気付いているだろう。
「涼しくなったなぁ。やっぱ、山だからかな」

迅は縁側にあぐらをかいてそんなことを言う。トシさんの家の縁側よりささやかで低いこの家の縁側は迅ひとりが座るともういっぱいだ。

「マナカがそうめん食っちゃったら、夕涼みしよう」
「うん、いいよ」

私は迅の背中を眺めながら、ちゃぶ台でミョウガとネギのたくさん入ったそうめんを食べた。トシさんにもらった小茄子のつけものも小鉢で並べる。
カナカナとヒグラシが鳴いた。扇風機はいらないくらい夕方の風は涼しい。
なんとなく話を引き延ばしたくてゆっくり食べたけれど、ひとりの食卓はあっという間に終わってしまった。食器を片付け、麦茶のグラスを持って迅の横に座る。
ヒグラシはずっと鳴いている。物悲しい声で、暗くなり始めた空に向かって。

「風、気持ちいい」
「な、東京じゃこうはいかないよなぁ」
「虫が少ないと最高なんだけど」
「無茶いうなよ、山だぞ」

それから私たちはしばらく黙った。夕暮れの風は強くなり始め、太陽の残光が塀の向こうに消えていく。あたりは薄暗かった。一番星は迅が言うには木星で、もう空の隅に見えていた。
迅の身体は全身が透けている。触れればクラゲかゼリーのように頼りない手触りだろう。そして、その感触すらじきになくなってしまう。

「このままでいたい」

迅から何かを切り出されるのが怖くて、私が先に口を開いていた。

「ずっとこのまま、迅とこうして暮らしていたい」

精一杯の気持ちに、迅が私の方を向くのがわかった。私自身は迅を見られず、暗い空を睨んでいる。

「……気付いてるだろ?俺の身体、透けるのが早くなってる」

迅は静かに落ち着いた声音で言った。

「最初は夏至以降の日没時間の変化が関係してんのかって思ってたけど、今じゃ日が落ちるよりずっと早く指先から透け始めてる。マナカには言ってないけど、真夜中なんてもう透けてすらいないんだぜ。自分の両手見ても何も見えない。実体がなくなってるって感じ。マナカから見ても俺は見えないんじゃないかな」
「え、……そんな」

初めて聞く話だった。迅は、おそらく私より先に自身の身体の変化に気づき、推移を見つめ覚悟を決めていたのだろう。
「たぶん、残り時間が短くなってる。相変わらずどういうシステムかわかんねーけど」

後半、迅は茶化して笑った。
私は笑える気分になんかなれない。今にも泣き出しそうな気持ちを奮いたたせ、唇を噛みしめているだけだ。

「俺は、近い未来いなくなるよ」

嫌だ。そんなの嫌。
大声でわめきたい。どうにかなるものでなくても、泣き叫びたい。
迅は、私のすべてだ。
私の世界そのものだ。
もう失いたくない。どんな姿でもいいから、ずっとずっと隣にいてほしい。

「二度も見送り任せちゃって悪いな」
「平気だよ」

大荒れの心の中と裏腹に、私はにこっと笑顔を作る。そして、あらためて迅の顔を見つめた。

「迅のこと見送れる。聖にも頼まれたしね、従妹として務めを果たすよ。迅、頼ってくれてありがとう」
「ん、そっか」
「いつになるかわかんないけど、後悔ないように暮らそう。また理由つけて戻ってこられても困るし。今度はまっすぐ天国へ行ってよ?」

私が強気に笑うと、迅が苦笑いで返す。

「おまえなぁ!ひとが善良な幽霊なのをいいことに言いたい放題かよ」

ふたりで顔を見合わせ笑った。ひとしきり笑うと、並んで空を見上げ風を浴びた。
迅の左手にはミサンガ。私はそれに触れた。ミサンガもはっきりとした触り心地はしない。すると、迅の左手が私の右手をつかまえた。

ふにゃりとした温度のない何かが私の手の甲を包んでいる。それが迅の左手であることが切なく、そしてこんなかたちでも、手を繋いでいることに狼狽した。勇気を出して、右手をひっくり返す。迅のてのひらと私のてのひらが合わさる。指と指が自然と組み合わされる。

「明日、ハギレで勘太郎のおもちゃ作るんだ」
「おお、いいじゃん。勘太郎のアレ、すげーぼろだもんな」
「中綿、買いに行きたいの。洗ってもへたりづらいやつ。明日、付き合って」
「お安い御用」

私たちは随分長いことそうして夜風を浴びていた。
繋いだ手の感触はやがてなくなっていた。





優衣からメッセージアプリで連絡がきた。
こんな内容だった。

『真香元気ですか?』
『この前、真香のお母さんに会ったよ。
真香が元気か気にしていたので、元気にやってますと伝えたよ』
『お母さんに連絡してあげてね』

この内容だけだとはっきりしないけれど、お母さんは優衣をわざわざ呼び出したのだろうか。そして、私の様子を知りたがった。

優衣とは1週間に2、3度メッセージアプリのやりとりをしている。ほとんど優衣からくる他愛のない話題に私が返す形だけど、一応生存確認にはなっていると思う。

一方でお母さんとはまったく連絡をとっていない。こちらに着いた時に無事に着いた旨をメッセージで送っただけだ。
聖が一度様子を見にきたし、暮らしぶりは伝わっているとは思うけれど。

私はスマホをちゃぶ台に置き、朝食の準備をしようと立ち上がった。優衣にはあとで返信しよう。お母さんには……連絡した方がいいのはわかってる。
こうして離れてみて、別々に暮らしてみて、率直に寂しさは感じていた。
まるで気が合わず、一緒にいれば息苦しさしか感じない関係なのに、慣れない住宅でどこにもお母さんの気配を見つけられなければ妙に心細い。迅といることで幸せや温かさは感じるけれど、母親の不在は別問題だった。自分で決めたことなのに。

私の心の中にはすごく幼い子どもがいるのだと思う。
お母さんに嫌われたくない。
期待に応えたい。
だけどできない。
どうしよう。
お母さん怒らないで。
お母さん笑って。
……結局マザコンだったのかな、なんて妙に納得してしまう。
私はお母さんの期待に応えられない自分が嫌いだった。そして、お母さんもまた私に期待を託すことで、自分の子育てを正当化したいのだと思う。

迅に言われたことを思い出す。『つかみ合って殴り合いの喧嘩でもしてみたら?』それは極論だけど、ある意味正しいかもしれない。
喧嘩する勇気。自分の意思を通す気力。
私にはなかった強さだ。

お母さんは自分の意思通りに扱える私を望みながら、その無気力な態度に苛立っていた。たぶん、お母さんも気づいているのだろう。自分自身の歪みに。矛盾に。
わかっているからこそ、私本人に連絡できないのだ。聖を使ったり、優衣に聞いたりするほかないのだ。

私たちは決定的に互いへのリスペクトを欠いていた。
今、帰って、お母さんとの関係がすぐさま良好になるとは思えない。長い時間かけて深まった溝だ。一朝一夕でどうにかなるものじゃない。だけど、私たちは一度離れることで本来の親子の形に想いを馳せることはできたのかもしれない。
今なら、私は自分の気持ちを言えるかもしれない。
たぶん、お母さんよりトシさんの方が怖いし、トシさんの方が百倍気難しい。だけど、そんなトシさんに、私は意見できたし、ちょっと好きだと思っている。

不思議だ。煮詰まっていた私とお母さんの関係をほぐすきっかけがこんな形で降ってくるなんて。

ごはんを食べたら、優衣にメッセージを返して、それから久し振りにお母さんにメッセージを送ってみよう。
朝晩こちらは涼しいこと、知り合ったおばあさんの作る野菜が美味しいこと、登山にチャレンジしたこと。
お母さんはどんなことを思うだろう。勉強もしているって言わないと怒り出すかもしれない。遊びに行っているのかって。

炊飯器からごはんをよそっていると、迅が戻ってきた。珍しい。朝、勘太郎の散歩に行ってからはそのままトシさんちで手伝いなのに。

「マナカ、朝飯食ったら、トシさんち行こう」
「なに?勘太郎、具合悪いとか?」

勘太郎にはおもちゃ用にぬいぐるみを縫ってあげたばかりだ。一昨日渡しに行ったとき、勘太郎はめずらしく私の手をぺろぺろ舐めてくれた。お礼を言われてるみたいだった。

「違う違う。勘太郎じゃなくて台風だよ」

迅が顔の前で手を振る。

「この家、テレビないから気づくの遅れたけど、台風がきてるんだよ。本州上陸の恐れ。大雨警戒。トシさんちのテレビで見た」
「え?そうなの?」

私は慌てて携帯の天気アプリを開く。本当だ。台風10号情報なんて、でかでかと見出しが躍っている。
予報円は太平洋から関東に直撃に見える。

「明日上陸?どおりで空が暗いと思った!」
「台風が大雨連れてくるんだってよ。すげー降るらしいから、トシさんちの補修と畑の保護と……色々あるから手伝えよ」
「うん!わかった」
「夕方から降り出すって。帰り道、マナカもメシとか買い込んだ方がいいぞ。懐中電灯やラジオ出しとこう」

迅はばたばたと納戸に向かう。そうと決まれば急がなきゃ。お盆明けだから台風シーズン到来なんだろうけれど、知らない土地と慣れない家で遭遇する台風はちょっと不安だ。

私はちゃぶ台につくなり、ごはんに昆布の佃煮を山盛り乗せて勢いよくかき込んだ。
優衣とお母さんへの連絡はトシさんちから帰ってきたらにしよう。
「あんたまで来たのかい」

私が迅と並んで顔を出すとトシさんはいつもの調子で言う。そんなに迷惑がってないくせに、と思いつつ私は胸を張って答えた。

「手伝いに来ました!何かできることはないですか!?」
「ふん、マナカは虫が嫌いかい?」

虫?私が変な顔をしているとトシさんは馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「迅、おまえさんは屋根だ。マナカは私と畑においで」

迅は工具と板を担いで、梯子をかけた屋根にするすると登っていく。春、雨が多かった頃、トシさんの平屋のあちこちで雨漏りがあったらしい。そこの修繕をしなければと迅は言っていた。
でも、私は畑?

畑に入るのは初めてだ。トシさんに伴われ、スニーカーのまま畑に足を踏み入れる。ふにゃっとした柔らかな土。沈み込む感触に、おどおどしてしまう。

「ミミズも虫もいるけど、悲鳴をあげるんじゃないよ」
「う、ミミズ……。はい、気をつけます」

ずらりと並ぶ畝には最初の2列にはナス、奥の2列にはキュウリ、さらに通路を挟んで向こうにはトウモロコシとミニトマトが植わっている。他にもここからではわからない野菜がたくさん。山裾まで続く畑は、トシさんひとりで切り盛りするのはさぞ大変だろうというほど広い。
迅はもう1月近くここを手伝っているのだ。トシさんには良い労力だったろうなと思う。迅がいなくなって、たまには私が手伝いに来た方がいいだろうか。

「ほら、ここからここまでのナスとキュウリはもいじゃいな」
「え?いいんですか?」

今実っているほとんどを収穫していいというトシさん。もちろん、小さすぎる実は残すけど、それ以外は普段売りに出すサイズより小さくても採っていいという。
「台風でやられる前に採るんだよ。普通の台風くらいなら放っておくんだが、今回は馬鹿みたいな嵐になるらしいからね」
「でも、食べきれないですよ、こんなに」
「近所や街場の知り合いに安く分ける約束をしてんだ。午後に取りに来るんだから、ちゃっちゃと手を動かしな」

さすが、トシさん。しっかりしてる。せっかくの野菜を無駄にするわけがない。
私は軍手をして、教えてもらうままに園芸用のハサミでパチンパチンとナスをもいでいく。

「トゲがあるからね。指さすんじゃないよ」
「はい!」

台風接近のせいか曇っていても湿気が多く蒸し暑い。中腰で同じ動作を繰り返していると汗が吹き出してきた。
ナスとキュウリを採り終え、トウモロコシとミニトマトの畝に移る。トウモロコシは根元からバシッと音を立てて折る。これは面白い。私は髪を振り乱して一心不乱にトウモロコシを折る。
厚い前髪が鬱陶しくて、泥のついた軍手の甲でかきあげた。首にかけていたタオルをターバンみたいにして髪をまとめると、トシさんが笑った。

「マナカ、あんた可愛い顔してたんだねぇ」
「褒めても何にもでないですよ」
「前髪なんか切って顔出しゃいいのに。損してるねぇ。馬鹿だねぇ」

意地悪に笑うトシさんに私はへの字口を向ける。
迅にもよく言われたことだけれど、それは従兄のひいき目というか、何かにつけて自信のない私を励ますための言葉だと思っていた。だから、まったく歯に衣着せないトシさんに可愛いだなんて言われて驚いてしまった。嬉しいより猛烈に恥ずかしい。

「ほら、次はミニトマトだよ」

トシさんのミニトマトは私の大好物だ。低木に実っている赤くて丸い実は土埃を被っていてもとても美味しそうに見えた。ひとつもいで、軍手の綺麗なところできゅっきゅと擦ってみる。赤が艶々と一層鮮やかになる。
「トシさん、ひとつつまみ食いしちゃダメですか?」
「おや、都会っ子は水で洗わなきゃ食べらんないかと思ってたよ。好きにしな」

私は採りたてのミニトマトを口に運ぶ。ぷちゅっと口の中で潰れたトマト。甘くて酸っぱくて、スイーツよりずっと幸せな味。

「美味しい。いつも美味しいけど、畑で食べるともっと美味しい」
「たった今までそこにくっついてたもんだからねぇ。畑の栄養が逃げる余地がないのさ」

トシさんが言ってから、まじまじと私の顔を見つめる。背の低いトシさんが下から睨むように見てくるとちょっと怖い。

「あんた、顔色よくなったね。ほんの何週間かだけど。少し太ったようだし」
「え?太りましたか?」

私は慌てて自分の身体を見下ろした。確かにこっちにきてから、真面目に自炊をしている。ごはんや肉魚の摂取量はたいして増えていないけれど、トシさんからもらった野菜は毎日大量に食べるので胃は大きくなった気がする。
毎日買い物やトシさんちに通うから、以前より脚に筋肉がついたようにも見える。ふとももは太くなった。

でも、便秘がちだったのが治ったのは、野菜の繊維と歩き回っているせいだろう。登山にチャレンジできる程度に体力は少しついたし、野菜の料理レパートリーは増えた。
トータルで見たら、悪いことよりいいことの方が多い気がする。

「いいんだよ。食べることで人は生きていくんだ。しっかり食べて、必死に働いて……死ぬまでそうして生きるんだ」

トシさんはミニトマトをすいすいもぎながら言う。

「あんたの人生はあと80年続くと思いなさい。あのあんちゃんがいなくなったあともね。残されるもんはどうあっても生きていかなきゃいけない。そのために食べて働くんだよ」

ハッとした。迅がいなくなったあとのこと。
私はどうやって生きていくのだろう。

わかってる。迅がいなくても私の人生は続く。
この日々はその覚悟を決めるための時間だったはずだ。