その人は糊のきいた白いシャツに、ロング丈の黒いソムリエエプロンをしていた。
 ウエイターにも見えるし、料理人のようにも見える。すごく背が高くて、たぶんまだ若い。髪は少し長く、一部を頭の後ろでくくっていた。遠目にも整った顔立ちとスタイルの良さがわかる。実は芸能人なんだと言われたら、思わず納得しそうなルックスの持ち主だ。
 傍らにひいた自転車の前カゴいっぱいに、伸びすぎた観葉植物のようなものをもっさりと積んでいる。そのカゴの中身だけがちょっと謎だが、どうやら買い出しの帰りなのか、ハンドルの両側にも近所のスーパーの買い物袋を提げていた。 
 男の人が、また口を開いた。

「それは……血?」

 気遣わしげな視線は、私の胸元に注がれている。

「いえ。これは、ケチャップです」

 反射的にぶんぶんと手を横に振った。イケメンさんに心配されるなんて、めったにない経験だからついつい挙動不審になってしまった。でも、自分で返事をしておいて、深く落ち込んでしまう。

 だってこの白いニットは、大好きな叔母から成人のお祝いにと、プレゼントされたものだったのだ。
『潤香ちゃん、年に一度は白いものを買いなさい。白いと汚れちゅうし安いのでいいやー、なんて言ったらダメよ。本当に好きで、長く大切に着られる良いものを買うの。それが、カッコイイ女のたしなみってもんよ』
 口癖のようにそう言って、実際、彼女はとてもおしゃれな人だった。
 そして有言実行の叔母が、ちょっと学生には手が出ないようなものをあげるね、と私の二十歳の誕生日に手渡してくれたのが、このコットンニットだ。ブランドにはぜんぜん詳しくない私でも、抜群の着心地のよさだけはよくわかった。

 そこから六年。虫がついたりしないように、汗ジミになんかならないように、使うたびに手入れをして、大事に大事に着ていたのに……。 
 私のどんよりした気持ちとは裏腹に、胸元の汚れが血ではないと知って、男の人はわずかに表情をゆるめたようだった。
「トンビのくちばしが当たると、かなり流血するから。食べ物を盗られたくらいで済んでよかったと思えば、まあ」
「そう……ですよね」
 荷物をまとめた私は、とぼとぼと階段を降りた。それから、男の人の足元に散らばる野菜かすを、手持ちのティッシュでくるみながら拾う。
「ほかにケガは?」
「ないです。でも……」
 パン屋さんでもらったお手ふきで、胸元の汚れをざっと落としながら、私はぼそぼそつぶやいた。
「お気に入りの服が汚れちゃったし……最悪」

 ――どうしよう。やっぱりケチャップとマスタードが落ちない。

 こすったらもっと広がってしまいそうだし、そのままにしておいたら繊維の奥まで染みていってしまいそう。それが気になって、男の人のほうには目もくれずに応じた。
「白ニットが、こんなになっちゃって……」

 だめだ。自己嫌悪で泣きそう。

 なんで私って、いつもこんなふうなんだろう。仕事から逃げて、モヤモヤする電話からも逃げて、それなのにトンビからは逃げられなくて、大切なものをダメにして。
 今も、ケガはないかって声をかけてくれた親切な人に、すごく感じの悪い態度をとってるって、自分でもわかっている。

「…………ごめんなさい」

 相手の顔がまともに見られない。うつむいたまま、私はペコリと頭を下げた。
 すると、なんとなく頭上で笑っているような気配がした。

「お腹、すいてる?」

「え?」

 急に話題が変わって、びっくりする。思わず顔をあげると、男の人が少し呆れたような表情で私のことを見ていた。
「トンビとの攻防戦、見てたから」
「は……」
「食事を始めたところでやられたでしょう。だから、ほとんど食べてないかなと思って」
 深いバリトン。すごくいい声だ。端正な容姿にハマりすぎている。
 洋画の吹き替えみたいな美声につられるように、私は何度もうなずいた。
「昨日から食べてなくて。お腹、すきすぎてしまって……」
 男の人が、プッと噴きだした。
「それはかわいそうに」
 笑うことないじゃないと思ったけれど、今の自分の台詞を反芻してみたら、たしかに笑われるようなことを言っていた。
「じゃあ、いいところに連れて行ってあげようか」
「は……?」
 またしても、話の飛躍についていけない。きょとんとする私に、彼は片目をつぶって見せた。それからもう一度、いたずらっぽく告げる。
「いいところ。美味しいものもあるし、そのシミも、なんとかしてあげられるかもしれない。保証はできないけど」
「はあ……」

 ――初対面の相手にそんなことを言われて、誰がついて行くんだ!

 内心ではそうツッコんでみたものの、今の私に〝美味しいもの〟と〝シミぬき〟の魅力は絶大だった。脳内のおまわりさんが「知らない人にはついて行くな!」と全力で止めにきているのに……。

「一緒に、行く?」

 こんなにもあからさまに不審者っぽい誘い文句も、極上のルックスと人気声優みたいな美声で言われると、まるで悪魔のささやきのようになる。もうどんな契約書にサインしてもいいような気分になってしまった。それに、彼のいでたちが完全に地元民って感じで、いかにも買い出しの帰りにふらりと海を見にきましたっていう、さわやかな空気をまとっていたのも、信用できる……ような気がした。

「行きます!」

  綺麗な笑顔にふらっと心が傾いた私は、そう即答してしまったのだった。