――海浜公園。

 平日でも人の多い場所だが、今日はめずらしく人影がまばらだった。
 上着のジッパーを下げると風が入ってきて、汗で湿った肌を乾かしていく。
 なんて気持ちがいいんだろう。ゆっくり伸びをして深呼吸する。それから、ショルダーを足元の砂地に置いて、腰を左右にひねってみた。ゴキッゴキッと腰が鳴る。恥ずかしいほど運動不足だ。でも、久しぶりにたくさん歩いた気がした。

 右手に江の島の灯台がくっきり見えた。ただ天気が良いだけでは、見えるとは限らない景色だ。今日はラッキーだった。
 さっそく公園へ降りる階段の中段あたりに、右端へ寄って座った。ここでランチタイムだ。バインミーの紙袋を自分のかたわらに並べ、まずはパン屋さんがくれた紙製のお手ふきで、砂っぽくなった手をよく拭いた。ショルダーから水筒を取り出し、蓋を外して足元の階段へ置く。食事をしている間に、少しでも黒豆茶が冷めればいいと思って。
「私、天才かな」
 誰も言ってくれないから、自分で自分を褒めておく。
 旧式のステンレス水筒は、今は亡き祖父が長年使っていたものだ。ろくに保温が効かないレトロな魔法びんなんて重いだけなのに、大好きな祖父の形見と思うと簡単には捨てられなかった。でもこれ、黒豆茶の容れ物としてはちょうどいいんじゃないだろうか。飲む時間を考えて淹れれば常温よりやや熱めの、私の好みの温度になるからだ。明日からは自分の部屋でも毎日、がんがんこの水筒を使っていこう。
 そんなことを心で誓いながら、私はパンの入った紙袋を破った。ついでにショルダーの内側についたポケットを片手でさぐる。
 出てきたのは、アメリカンなロゴが好みでつい買ってしまったマスタードとケチャップのパウチだ。フレンチなバインミーに使うには邪道かもしれないが、どっちにしろ食べるのは私だけだし。
「美味しければ、問題ないもんね」
 海風が強くて、声が大きくなった。なんだか今日の私はひとり言ばかりだ。
 職場に行けば否応なく人としゃべらなければならないが、ひとりでいると、そんなにたくさん声を出す機会がない。無職一日目の私が話した相手といえば、電話ごしの母と沙紀だけだった。それでつい、ひとり言が多くなるのかもしれない。
 階段差がなくなるように調節した膝の上で、二つの調味料をパンの間へ挟み込む。パウチのごみは空いた紙袋へ入れ、紙ナプキンでくるりと巻いたパインミーに、おもむろにかぶりつく。
「うわ、パクチー強い。うんまーーい!」
 たまにレバーペーストがダメという人がいるけれど、これだけ大量にパクチーを入れてしまえば、レバー独特の匂いは隠されて旨味だけが口に広がる。もちろん、パクチーも人によって好き嫌いが分かれるが、たっぷりの香草は私には最高においしく感じられた。
 ねっとりしたレバーペーストが、野菜のなますとパクチーをしっかり抱えこんくれる。フランスパンのシンプルな粉の味が見事にマッチした食べ物だ。鮮やかな色のにんじんと大根のなますには、ほんの少しだけ柑橘系の香りがした。
 こうなると、薄めの黒豆茶を持ってきたのは正解だった。食べかけのパンを片手に、私は水筒へと手を伸ばす。香ばしい匂いごと、お茶をひと口飲みこんだ。
 そのとき、バササッと頭上で音がした。振り仰ぐと青空に、一羽のトンビが大きく旋回している。

「来たな……」

 これぞ湘南名物、トンビ襲来。
 この大胆すぎる大型鳥は、人間が浜辺で食べているものを我が物顔でさらっていく。そして今現在、海浜公園でこれ見よがしに食べ物を口に運んでいるのは、私ひとりだ。完全にロックオンされている。でも、ここでひるんだら鎌倉の住人ではない。私だって何度かは、トンビとタイマンを張った過去があるのだ。
 意を決してふた口目に進む。次はベトナムハムと決めて大口を開けると、またしてもバサッと音がした。今度は、かなり近い。耳のすぐそばで羽音が聞こえた気がする。
 ぎょっとしたら手元が狂って、レバーペーストの塊が白ニットにボトリと落とした。

「ひゃっ」

 慌てて立ち上がり、胸元にくっついたペーストとパクチーを払う。が、服の上にべっとりと、ケチャップとマスタードの跡が残ってしまった。

 あああ……。真っ白なニットに鮮やかな赤と黄色のシミがよく映えて……じゃなくて、こんなに目立つ食べ物汚れをつくったのは、小学生以来かも……。

 立ち尽くした私の左手に、予想外の方向から衝撃があった。腕が揺れるほどの重さで、何かが背後からぶつかってきたのだ。

「ちょ……っ、嘘でしょ!?」

 階段の下に、グレーの砂にまみれたパンの塊が見えた。
 このタイミングで直接攻撃をかけてきたのは、さっきまで上空を旋回していたはずのトンビだ。人間の中でも特にチョロそうなヤツと判断したのか、私が握りこんでいたバインミーを、くちばしで階段下へと跳ねとばしたのだ。
 食事の取り落としと、不可抗力で派手な色つきになったニット。そのダブルショックからまだ立ち直れずにいる私をしりめに、トンビがふたたび滑空する。
 視界の端をするりと抜けて、砂地へ落ちたバインミーを誇らしげに咥えると、盗賊トンビはふたたび空高く舞いあがった。あとには、強奪されたフランスパンからこぼれ落ちた野菜かすが、砂まみれで残されている。
 気がつけば、冷ますために中栓を開けたままだった祖父の水筒も、中身の黒豆茶をぶちまけて階段の上に転がっていた。どうやらさっき、あわてた私が倒してしまったみたい。

「バインミー……まだ、ひと口目だったのに……」

 ほんの一分やそこらの出来事で、現場は取り返しがつかないほどの大惨事だ。ショックでお腹の虫もどこかへ飛んでいってしまった。
 すっかり食欲も気力もなくした私が、階段の途中で空を見あげたまま立ち尽くしていると、砂浜のほうから声がかかる。

「ケガは?」

 声の主は階段の下にいた。自転車を押した男の人だ。