長い信号待ちの間、バッグから黒豆茶の水筒を取り出した。そーっとすすってみたら、まだかなり熱くて、ひと口しか飲めなかった。もう少し急須で冷ましてから中身を移せばよかったかもしれない。保温性の低い水筒に入れてきたつもりだったが、猫舌にはつらすぎる熱さだ。

 水筒をバッグにしまうと、またスマホに着信があった。今度は母ではなかった。でも、見知った名前が表示されている。
 どういうことだろう。今日は不思議と、次から次へと珍しい電話がかかってくる。
 タイミングがよすぎて、ちょっと気味が悪いくらいだ。神様が無職になった私を天から眺めていて、知り合いに謎の電波でも送ってくれているのだろうか。
「はい、もしもし……」
『あ、潤香? げんきー? 今、電話して大丈夫?』
 よく通る明るい声の主は、大学のゼミで一緒だった山本沙紀だ。私が退職のダシに使った飲食店修行中の安田あかねとも共通の友人だ。
「あー、久しぶり。沙紀も元気?」
 沙紀は半年に一度くらい、なんの予告もなく電話してくる。
 前回の電話は、たしか去年の秋だった。まだ私が退職を決める前のことで、以来まったく音沙汰がなかったから、私の今の状況なんて知るわけもない。
 沙紀の声が弾んでいる。なんとなく、いやな予感がした。
『あのね! 今度、カフェの内装のプロジェクトリーダーに抜擢されたんだ! ほら私、ずっと好きだったでしょ、北欧っぽいデザイン』
「北欧……ああ、ムーミン好きだったよね、沙紀」
 沙紀が熱心にグッズを集めていたのを思いだしてそう言うと、電話の向こうで爆笑するのが聞こえた。
『あははは! まあ、そう言えばわかりやすいね! あのね、建物自体は古いビルのリノベだから外見は地味なんだよね。場所、京都だしさ』
「それは、ずいぶん遠いね」
 沙紀の活動拠点は東京だ。関西の仕事となると、何かと不便も多そうだ。 
『ま、短期集中であっちの業者さんと組んで仕事するから、しばらくはやっすいビジネスホテル暮らしかなー。オーナーさんの持ってる別の物件に、寝袋持って泊まり込んでもいいんだけどさ』
「なんか、沙紀っぽい」
 私は思わずクスッと笑った。学生時代から男まさりで大胆というか、細かいことを気にしない、誰より元気な子だった。
「でも、よく京都から依頼がきたね」
『それそれ! 私、サイト作ってるじゃない? それ見たオーナーさんが連絡してきてくれたんだよね。北欧好きなところが気に入ったって。それで内装は私の好きにしていいよって、お許しが出てんの。実はオーナーのお孫さんが九歳の女の子でね。ムーミンが大好きなんだって。まあ、公式のコラボとかじゃないから、ムーミンをそのまんまは絶対使えないんだけどね。でも、北欧好きってこう……好みの方向性があるじゃない? だから、その子が喜びそうな店にしてほしいんだって」
 京都の市街地につくる北欧カフェ。それはどんなにステキだろう。きっとそのお店は、沙紀の夢のお城にもなるんだ。
 そういえば沙紀は、大学のときも塾のバイト代をつぎ込んで、ひとりで北欧弾丸ツアーに行っていたっけ。大切に抱えて帰ってきたビンテージのお皿が綺麗にふたつに割れていたっていうのも、彼女の鉄板トークのひとつだ。
全身北欧女子だから、こだわりに共感した依頼がきたのか。デザイナーとしての絶対的な得意分野がハッキリしているのは正直うらやましい。それくらい一方向へ振り切っていると、さぞ仕事の話も来やすいだろう。
そこまで考えて、私は大きくかぶりを振った。にわかに羞恥がこみあげてくる。
なんなの、その言い方。「さぞ仕事の話も来やすいだろう」って、なに? 私ってば、どれだけ上から目線なんだろう。
ぼんやりしていて方向性も定まらない私と比べたら、沙紀は何倍も立派だ。長年こだわり続けた大好きなものがある。そしてそれが、ちゃんと仕事につながっているんだから。
「よかったねー」
 内装が完成した新店舗で、ヘルメットを外しながら笑いあう人たち。その中心に沙紀がいる。傍らにはオーナーらしきお祖父さんと、その孫娘も。
 そんな絵が浮かんできて、自分のことのように嬉しくなる。……うん、心から嬉しいと思ってる。でもなぜか急にこみあげるものがあって、私はあわてて声色を変えた。
「あっごめん! あれっ、ちょっとキャッチが入ったみたい」
『え、ほんと?』
「うん、ちょうど連絡待ちでさ」
 とっさに嘘をついてしまった。
『いやー仕事忙しいとこ、ごめんね。つい嬉しくって電話しちゃった』
「……ううん、ぜんぜん」
 平日の昼間だ。当然沙紀のほうは、私が勤務中に電話を取ったと思っているだろう。そう考えると、チクッと胸が痛んだ。
『じゃあ潤香、近いうちに会おう。一ヵ月後にはたぶん京都に詰めちゃうから、それより前に一度さ』
「だね。私も、話したいことあるし……」
 あわただしく切れたスマホを片手に、「いいな」がころりと口から転げ落ちた。

 夢を追いかけてキラキラしている沙紀に、こっちは半分リストラみたいな状態で仕事を辞めたんだよ、なんて言えなかった。もう沙紀とは同業じゃないんだよ。私、デザイナー辞めたんだよって、言えなかった。キャッチの着信が入ったなんて嘘だ。はつらつとした沙紀の声を聞いていると、自分がどんどんみじめになる気がして、私は逃げたんだ。
 今から一ヵ月で、私はちゃんと次の道を見つけていられるのかな。沙紀に会わせる顔なんてあるだろうか。

 風が強くなってきた。
 それにしたがって、海の匂いも濃くなってゆく。

 沙紀の話を振り払うように、かかとを強く地面につけて速足で歩いた。

 スニーカーの底でキュッと砂が鳴る。一心不乱に歩き続けて、ちょうど汗ばむくらいで目的地に着いた。