イヤな夢を見た。

 内容はよく覚えていない。でも、すごくあせっていたという記憶だけは、残り火みたいに胸にある。寝起きだというのに、全力疾走のあとみたいに心臓がバクバクしていた。

「うー…………」

 遮光カーテンで覆われたままの部屋は、まだ薄暗い。私――竹林潤香は、間の抜けた電子音を響かせるスマホを、シーツの上から手探りで引き寄せる。
 しょぼつく目を手の甲でこすりながら、まぶしく反射する液晶画面を眺めた。デジタル表示は午前九時だ。会社に行くなら遅刻確定。なんでこんな時間にタイマーをセットしたのかと、ざっと頭から血の気が引く。
 反射的に上体を起こしかけ、それからもう一度、私は枕に頭を沈ませた。

「あせっ、たぁ……」

 もう行かなくていいんだった。なんなら九時でも十時でも、自分の好きな時間に起きればいい。二度寝しても寝坊しても、誰も私を責めないんだ。そう、しばらくの間は。
 だって私は、会社を辞めてしまったんだから。

 薄い羽毛の掛け布団にくるまったまま、何度も寝がえりを打つと、カーテンのすきまから差し込む光で埃が舞いあがるのが見えた。
 そういえば、ここのところずっと忙しくて、掃除もきちんとできていなかった。いつも終電間際に帰ってきては、化粧も落とさず気絶するように眠っていた。気がつくともう夜が明けていて、すぐにシャワーで目を覚まして部屋を飛び出す毎日だったから、こんなにゆっくり埃のダンスを眺めたことなんてなかった。

 左肘で上半身を支えるようにしながら、私は右手をベッド横の窓辺へ伸ばした。
 シャッと勢いよく遮光カーテンを開くと、さっきまで細い筋のようだった朝陽が、急に太い幅になって室内を照らした。カーテンの動きで起こった小さな風が、細かい埃を上のほうまで巻きあげる。

「うわー、やばい」

 朝陽の角度でありありと、フローリングに積もった砂埃の白さがわかる。
 これはひどい。二十代女子の部屋として、完全に間違っている。

「掃除しなきゃ……」

 考えてみれば貴重な土日の休みは、くたびれて寝つぶすか、会社の同僚や学生時代の友人と朝から出かけていた。だから、ひとり暮らしを始めたときに、ちょっと贅沢して購入したはずのハンディタイプのサイクロン掃除機は出番がなかった。というか、掃除そのものをサボっていた。
 早朝深夜に使うと音がうるさいもんね……と自分に言い訳して、あまりに気になったときだけ、不織布の掃除シートで軽く拭いてごまかしていた。そのツケがここへきて、一気に襲ってきた感じだ。
 でもこれからしばらくは、忙しいという言葉を言い訳には使えない。

 なにしろ私は、今日から無職だ。

 まずは部屋の掃除をしよう。数日したら離職届が前の職場から送られてくるだろうし、そうしたらすぐハローワークに通わなきゃ……。
 そんなことをつらつら考えていたら、お腹がキュウと鳴った。
 そういえば、昨日は最後の出勤日で、緊張と気疲れで食欲がなくて、ほとんど何も口に入れていなかった。ご飯を食べたいという気持ちすら、疲れ果てて忘れていた。
 でも、生きている限りは腹も減る。

「おなか、すいたな……」

 声に出してみたら、もう我慢ができなくなった。かといって、埃だらけの部屋で食事するのは気が滅入る。そもそも、食材の買い出しなんて何日も行っていないから、冷蔵庫はほぼカラだ。そして掃除よりも、今は外に出たかった。
 なにしろ晴れて自由の身だ。せめて今日一日くらいは、無職の開放感を満喫したい。

 ……そう、たとえば。
 お気に入りのパン屋さんに寄って、ランチを仕込んでから海へ散歩へ行くとか。