私が甘酒カレーを完食したところで、ようやく鎌倉さんが外から戻ってきた。
目の前に立った鎌倉さんは、いきなりこう言った。
「服、脱いで」
「えっ!?」
反射的に変な声が出た。
すると鎌倉さんは、きなりの手提げ袋から黒いTシャツを取りあげて、私に渡してきた。
「一旦、これに着替えて。俺のだからかなり大きいけど、この店にいる間だけだし、予備で買ってあった新品だから別に汚くはない」
びっくりした……。心臓に悪いから、誤解しそうな言い方はやめてほしい。
どうやら鎌倉さんは、私の白ニットをシミ抜きしてくれるつもりらしい。言われるままに奥の和室にある衝立の陰で上を着替えた。すると鎌倉さんの予想どおり、Tシャツは私が着るとブカブカだった。肩の縫い目の部分が二の腕の下のほうまで落ちて、まるで大人の服を着た子どもみたいになってしまった。
私が着替えている間に、鎌倉さんはマスターの作業台の端を借りて、小皿で謎のクリームを調合していた。使い捨てのマスクと薄いゴム手袋した鎌倉さんの手元からは、独特な薬剤のにおいが立ちのぼっていて、さっきまでのカレーの香りを消し始めている。
汚れた白ニットを預けると、鎌倉さんはタオルを丸めたものをその胴体部分に詰めた。それから別のバスタオルを敷いた作業台にニットを広げて置いて、胸元の汚れ部分に小皿のクリームを一気に塗った。
「な、なんですかそれ」
「重曹と漂白剤なんかを混ぜたやつ。生地が白いから、試し塗りしなくても平気だろう」
ぎょっとする私に、鎌倉さんが事もなげに答える。確かにクリーム状の薬剤からは、塩素っぽい刺激臭がしている。
「ちょっと臭いから、離れていな」
特製クリームがニットの汚れを浮かせてゆく。近づいて様子を見ようとした私を、鎌倉さんがゴム手袋をはめた右手でさえぎって止める。
それから十五分ほどで、鎌倉さんは手際よくシミ抜きを完了させてしまった。
薬剤を落とし終え、水分をタオルで吸い取ったニットを戻される。私はその胸元をまじまじと観察した。
「すごい……魔法みたい」
もう元には戻らないと絶望していたケチャップとマスタードの汚れは、どこにあったのかわからないくらい、綺麗さっぱり消えている。
「嬉しい。鎌倉さん、ありがとうございます!」
「……ちょっと待て。なんだその、鎌倉って」
あ、また言っちゃった。しかも本人の前で。
「えっと、マスターに聞いたんですよ、鎌倉さんのフルネーム。鎌田倉頼さんだから、略して鎌倉さん」
「略すな」
それから鎌倉さんは「あんたも余計なことを言うな」とマスターをにらみつけた。
でも、悪くないと思うんだけどな……鎌倉さん。
「さて、コーヒーでも飲むかい?」
鎌倉さんの抗議をしれっと受け流したマスターは、私たちの返事も待たずにドリップを始めた。あきらめたようにため息をつくと、鎌倉さんはカウンターに手をついて、私の隣の席へ腰かけた。
「あの……このTシャツ、あとで洗って返しにきますね」
こそっと話しかけると、鎌倉さんは「そんなことしなくていいよ」と言った。
「そっちの和室で着替えて、置いてってくれれば」
「いえ。また来たいんです、ここに。だから理由をください」
私がきっぱりそう言うと、鎌倉さんは面食らったようで、軽く片眉をあげた。
「いいんじゃない? なに、潤香さん。この店が気に入ったかい」
何も言わない鎌倉さんの代わりに、マスターがカウンターの奥から笑いかけてくる。
「はい、とっても。お店、すごく素敵だし、甘酒カレーも最高だったし、絶対また来たいです。っていうか、これから何度も通いたいです」
「嬉しいねえ」
マスターがニコニコしながら、渋い陶器のコーヒーカップを三つ、食器棚から出してきて並べた。
「でも、今日のカレーは倉頼の特製だからなあ。今度は儂の手料理を食べにおいで」
「はい! あっ、忘れてましたすみません! 甘酒カレーとシミ抜きと、あの、コーヒーのお代も……」
急いで財布を出そうとした私を、鎌倉さんが片手で制した。
「いらないよ。お客じゃないんだから」
「でも……」
それじゃあまりに申し訳ない。何から何までお世話になったのに。
オロオロする私に、鎌倉さんはふっと表情をやわらげた。
「じゃあこれ、人助け。SOSを解決できたんなら、それでOK」
「え、そんな……」
そんなに私にばかり都合のいいことを、納得してしまってもいいんだろうか。
「本人がいいって言っているんだし、こっちの手間賃は、ちゃんと倉頼に身体で返してもらうから、あんたは気にしなくていいんだよ」
楽しげなマスターの言葉に、鎌倉さんもうなずいている。
「あの、どう伝えたらいいのか、よくわからないんですけど……」
ふたりとも私の気持ちを先回りして、負担にならないよう気を遣ってくれている。しみじみと人の優しさが身にしみるって、まさにこういう状態のことを言うんだろうな。
「どんなに感謝しても足りないくらいです。鎌倉さんは、私の正義のヒーローです」
「そんなこと、初めて言われた」
くすぐったそうに鎌倉さんが笑った。整いすぎて冷たそうに見える顔立ちが、その笑みひとつでいきなり華やぐ。
「だって鎌倉さん、お腹がすいてる人に親切じゃないですか。『ボクの顔をお食べ』って言ってくれるヒーローみたいです!」
「なんだそれ」
握りこぶしつきで力説したら、さらに笑われてしまった。
どさくさまぎれについ、あだ名で呼んでしまったけれど、鎌倉さんはそれにはもう文句をつけなかった。