私はもう一度、スマホのメモ画面を呼び出した。

「ええと、タイトルもう一度。『クラヨリ特製、甘酒カレー』……その『クラヨリ』って、マスターのお名前ですか? どういう字を書くんでしょう」
「儂じゃない。あいつの名だ。作ったのは倉頼だから」
 あっさり言われて、思考が混乱する。
「え……? だってカマタさん……」
「カマタ・クラヨリっていうんだ。下の名前だよ。聞いてない?」
 もちろん聞いていない。それがカマタさんの名前?
「えーと……? それ、どういう字……」

「鎌倉の鎌に、田んぼの田、鎌倉の倉に、頼朝の頼だ。鎌田倉頼」

 鎌田……倉頼? えっ、ちょっと、鎌倉在住のカマクラさんですか!?

 そうツッコみたいのをぐっとこらえる。笑いそうになりながら、震える指でカマクラさんのフルネームをメモに打ち込んだ。
「……び、びっくりした。私はてっきり、マスターのお名前なんだとばかり」
「いや、儂は大仏だから」
 オサラギ、と言いながら、マスターは空中に漢字を書いてみせた。

 こっちもすごい。鎌倉でお店をやるために運命づけられた名前って感じがする。
 そこでようやく、私はあることに思い当たった。あらためて手元の箸袋を見直す。
「あれ? じゃあもしかして、このお店の名前……ダイブツじゃなくて、オサラギって読むんですか!」
「登記上はそうなんだが、みんなダイブツって読みやがる」
 ……すみません、私も読んでました。しかも、鉄板の観光名所に丸乗りしてイージー、とまで思ってました……。
「しかしあんた……ええと、ジュンカさんだっけ」
「はい。潤う香り、で、潤香です」
 鎌田倉頼さん――って言うと長いから略してカマクラ、鎌倉さんと心の中で呼んでしまおう――と、大仏さんの名前を聞いた以上、こちらも漢字表記を教えるのが礼儀かと思って、私も解説を加えた。
「はいはい、潤ちゃんね。しかしあんた、本当に倉頼を知らないんだな」
「はい。ぜんっぜん、知りません」
 深くうなずいたら、マスターにちょっと呆れた顔をされた。
「じゃあますますアレだ。初対面の知らない男の人に、そんな無防備にくっついて行ったら危ないよ」
 ですよね……。あの海岸で鎌倉さんに声をかけられたとき、自分でもちょっとどうかと思ったことを、お父さんみたいな年齢の人にしみじみと諭されてしまった。でも、そのおかげでこんなに美味しいカレーにありつけたのだし、結果オーライと思うことにしたい。それに……。
「あの人……鎌倉さん、男の人っていうか、葉っぱみたいだなと思って」
 あっ、しまった。心の中だけで呼ぼうとしていた略称を、思わず口に出してしまった。知り合いを変なあだ名で呼ばれたら、マスターもいい気分はしないかも。
 すると、マスターは小首をかしげた。
「……葉っぱ?」
 ひっかかったのは、そっちだったみたい。私は大真面目にうなずいた。
「自転車の前かごいっぱいに、葉っぱが入ってました」
「ああ、それね」
 マスターは鎌倉さんが置いていった、カウンターの上のパセリに視線を落とす。
「ハンドルにかけたビニール袋にも、できそこないのニンジンがいっぱい入ってました。だから、大丈夫かなって」
「そいつは一理あるな。でも、これからは名前も知らない人についてっちゃあダメだよ。みんながみんな、倉頼みたいに無害じゃないんだから」
 あははは、と大声で笑いながら、マスターが食器棚へ小皿をしまいに行く。

 私はそこで初めて気がついた。
 マスター、どうやら脚が悪いみたいだ。カウンターの中ではそんなことは気づかせないくらい優雅に動いていたけれど、実際には右脚を軽く引きずっている。

 ――立ち仕事、大変じゃないのかな……。

 棘のようなものがチクリと、心にささったような気がした。