のれんは外に出ていたが、戸口の前には「支度中」の札が立てかけられていたような気がする。勝手に入っていってしまって、大丈夫なんだろうか。
「ジュンカさんも、おいで」
大量のパセリを花束みたいに抱えたまま、カマタさんがこちらを振り返った。軽くあごをしゃくって中へ入るように示す。それで私も小走りに後ろについて縄のれんをくぐり、引き戸の奥へと進んだ。
「マスター、この人に何か食べさせてあげて」
中は思ったより明るい。カマタさんが声をかけると、店の奥から人が出てきた。
白髪まじりの頭を藍染めの手ぬぐいで覆った、細身の男の人だ。濃紺の作務衣に短い丈の白い前掛けをしている。そう、エプロンじゃなくて前掛けって感じなのだ。だから「マスター」とカマタさんが声をかけたのも、ちょっと不思議だった。「大将」とか「オヤジさん」とか、そんな呼び方のほうが似合う男性に見えたから。
「いらっしゃい」
マスターが渋い笑みを向けてくる。還暦くらいだろうか。カマタさんとは違う意味で、こちらの男性もまた見とれるほどかっこいい。べっこうフレームの眼鏡をして、髪より多めに白いものがまじる口ひげも相まって、往年の銀幕スターのような大物感がある。
「トンビにランチさらわれたんだ。腹ペコなんだって」
「そりゃあ災難だったな」
古民家は和食ダイニングのようだった。夜になるとちょっといい雰囲気の居酒屋になるのかもしれない。調理台の手前にはカウンター席がL字型に五つ。壁寄りに小さめのテーブル席が八つ。奥の上がりかまちにも四畳半くらいのスペースがあって、衝立ごしに古い道具や食材の段ボールがちらっと見えた。いざとなればここも座敷席として使えそうな趣きがある。
建物自体は古いけれど、内装は店舗として使いやすいように、すでにかなり改装されているようだった。それでも古い部分をそのまま残したところは、使いこまれた木肌が黒光りして、日頃から手入れが行き届いているのがわかる。
促されてカウンター席に座った私に、マスターがやわらかい声で問う。
「まだ仕込みの最中だから、まかない飯でいいかね」
「えっ、そんな、ええと……」
カマタさんはマスターとは旧知のようだけれど、私はそうじゃない。いきなり来て、この状態というのは、いくらなんでも図々しすぎやしないだろうか。
ところが肝心のカマタさんはといえば、カウンターの上にパセリとニンジンをどさっと載せると、行き先も告げずにまたどこかへ出て行ってしまった。
「あの、よろしいんでしょうか。その、準備のお邪魔なら……」
「いいんだよ、飯ならもうできてる。そこで待っておいで。ちょっと鍋であっためれば、すぐに出せるから」
マスターが笑いながら、手際よくガスに火をつける。
じきにカレーのいい匂いが漂ってきた。カウンター奥の鍋の中で、カレーがくつくつと音をたてている。どこか懐かしいような甘めの香りだ。
ご飯を片方に寄せて高めに盛り、その脇にさらりとしたカレーを流し込んだ大皿を、マスターが私の前へ置いた。同時にガラスの小鉢とスプーンも出される。かわいらしい小鉢の中身は、色あざやかなリーフサラダだ。
「あー、おいしそう! いただきます!」
「おかわりもあるよ。あ、今ちょっとフォークがないから、サラダは箸でつまんで。塩麹のドレッシングかかってるから、そのまんまで大丈夫だ」
「はい!」
追加で手渡された割り箸を、店名入りの箸袋から出していると、マスターがふと私の顔を見た。
「あなた、アレと知り合いかい?」
アレというのは、カマタさんのことだろう。私は勢いよく頭を横に振った。
「いえ、今日初めて会いました。海岸公園でトンビにバインミー……ランチを取られて、呆然としてたら声かけられて」
するとマスターは、「またか」と小さく笑った。
「あいつ、空腹の人をほっとけないんだよ」
「あ、それ言ってました。なんか超能力があるって」
いや、超能力とは言ってなかったかもしれない。私が勝手に「あっても不思議じゃないな」って思っただけで。
カレーとごはんを一度にすくって、ぱくりとひと口食べてみる。
「ん! んまーーーい!!」
とっさに口を手でおさえながらも、我慢できずに叫んでしまった。スプーンを握る手に力がこもる。
「なんですかこれ! カレーですよね? でも、普通のカレーと違う!」
カレーの香りはする。ところが和風なのだ。少しスープっぽく、さほど辛くもなくて、やたらとダシが効いている。そして、どこかなつかしい味がする。 「それ、甘酒カレーね。味噌と昆布ダシも入ってる」
「甘酒!? そんな材料が入ってるなんて、さすが古民家ダイニングの料理って感じです」
私が唸ると、マスターが笑った。
「いや、そんなご大層なものじゃない。豚コマ肉をざくざく切って、タマネギ、ニンジン、ジャガイモもそれぞれ十五ミリくらいに切る。このへんは普通のカレーと同じかね。ま、ちょっと具材が小さめってのはあるかな」
確かにそこまでは普通だ。私はうなずいて聞き耳をたてる。
「昆布水っての、わかるかな。真水に昆布を入れて一晩寝かせたやつ。わりとうちじゃあ使うんだが。ダシがよく出てうまいんだ。それをまず鍋で沸かす」
「ちょ、ちょっと待ってください。スマホでメモ取りたい!」
あわててショルダーからスマホを取り出した。メモのアプリを開いて、マスターの言葉を打ち込む。
「切った野菜を沸いた昆布水に投入。アクが出たら軽くすくう。このへんは雑でいいんだ。アクを取り過ぎても、昆布水がもったいないから。あとは、鉄のフライパンで豚コマに焼き色をつけて、カレー粉を振って香りを出しておく」
「お肉にいきなりカレー粉なんですね」
「そう。言っておくが、カレーは粉だからね。市販のルーを使うんじゃないぞ」
さすがにそれは、私でもわかる。もともとポトフの延長みたいなスープカレーが好きなので、常備しているのは粉末のカレーのほうだ。単独のスパイスもいくつかストックしてあるから、味の調整も自分の好みでやるのが楽しい。
そう反論したらマスターに「料理オンチをなめるな。あいつらは儂らの予想の常に斜め上をいく」と厳しい表情で言われた。なんだかよくわからないが、やたら実感のこもったセリフだ。料理が苦手な人に迷惑をかけられた経験でもあるんだろうか。
「野菜に七割がた火が通ったら、甘酒と豚肉と味噌を入れて、とろみが出るまで中火で十五分ほど煮こむ。以上!」
「えっ、それだけ?」
それだけだ、とマスターが私の言葉を繰り返す。
私はスマホを傍らに置いて、スプーンを手にふたたびカレーを攻略しはじめた。
甘酒カレーは、見た目どおりあっさりしている。ニンジンもタマネギもジャガイモも、口に入れると気持ちよく噛めて、すぐにホロッと溶けてしまう。特に変わった材料やスパイスの香りがするわけでもいないのに、スプーンを口へ運ぶ手が止まらない。
「すごい、これなら夜遅くにでも食べたくなる」
「そんなに煮込まなくても大丈夫だし、昆布水さえ前日に仕込んでおけば、三十分もあればできる」
「これは傑作ですねー」
いいレシピを聞いてしまった。作り方も難しくないから、今度作ってみよう。