愛しいと思った。

この愛しい人を、大事にしたいと思った。

久人さんが目を伏せながら、ゆっくりと顔を寄せる。私も目を閉じた。

重なる優しい唇。

膝の上でつないだ手。

伝わってくる愛情は、間違いなく本物だ。私は大切にされているし、これからもされると思う。そこに不安はない。

だけどね、久人さん。

私が心配なのは、あなたです。

ようやく気づいた、違和感の正体。久人さんは、自分の価値をまったく信じていない。表面的には自信家だけれど、それは事業の成功とか、思いどおりに人を動かしてきた経験とか、そういうわかりやすい分野においてだけだ。

もっと根本的な部分で、彼は自分に、"高塚久人"として以外の価値があるとは、考えていない。そんな価値を欲しがってもいないんだと思う。

温かな唇が、何度も押しつけられる。焼きもちを焼かせた私を、たしなめるみたいに。お前は俺のだよって、マーキングするみたいに。

また泣きたくなった。

こんな愛情深いキスができるのに、この人の心は。

痛々しいほど、欠けている。


* * *


「久人はね、自分がないんだよ」


樹生さんが、さみしげに苦笑する。

週末、家に彼から電話が来た。久人さんが仕事で出ているのを知っていたんだろう。『ちょっと話せるかな?』と彼は近くのカフェに、私を呼び出した。


「自分がない、ですか…」

「流されやすいって意味じゃなくてね。あいつは高塚久人になる前の自分を、置いてきちゃったんだ。伯父さんたちの息子になるために」


彼はアイスティーのグラスを見下ろし、ストローで氷を回す。透明な氷がぶつかり合う、カラカラという涼しげな音がした。


「バランスの悪い奴だよ。一見そうは思えないから、よけいまずい」

「彼が引き取られてきた頃のことを、おぼえてらっしゃいますか?」

「もちろん。伯父さんたちはすぐに久人をうちにつれてきて、仲よくしてやってほしいと俺に言った。久人は頭もよかったし度胸もあって、俺は、こりゃいい弟分ができたと思った」