「本当はもう少し猶予があるはずだったんだけど、会社が若返りを望んでるらしくてね、数年早まったんだ。樹生はその点、はやばやと結婚してたから、慌てる必要なかったんだよね」


さすがだよなあ、とため息をついて頬杖をつく。

少し前なら、そういういきさつだったんですね、と一緒に笑えた話題だったと思う。久人さんの口ぶりに、結婚自体を嫌がる様子も私を疎む様子もない。

だけど。

思わず顔をこわばらせた私に、さすが樹生さんは気がついた。気遣うような視線とぶつかって、私は慌ててごまかした。


「樹生さん、ご結婚されていたんですね」

「あ、ごめん、それも言うの忘れてた」


久人さんが、しまったという感じに軽く眉を上げる。樹生さんは、私を追及することはせず、「俺にかんすることだけ忘れすぎだろ」とぼやいた。


「親族の情報を知らなくて、困るのは桃子ちゃんなんだぞ」

「樹生は最後でいいかなって」

「あのな!」


いかにも仲のよさそうな、くだけた会話。


「桃子ちゃん、今度うちの嫁とも会ってやってね。子供がいてもよければ、家に来てくれたら喜ぶよ、人をもてなすの、好きだから」


お子さまもいるんですか、なんて話をふくらませながら、心はよそにあった。

最初から久人さんは言っていたじゃない。事情ができて、すぐに結婚しなきゃいけなくなったんだって。誰でもよかったんだって。


──俺、結婚したのが桃でよかったよ。


よみがえる優しい声と、ぬくもり。

だけど今の私には、彼が言わなかった続きが聞こえる。


──桃じゃなくてもよかったけど。


身体の中ががらんどうになったみたいに、心臓の音がドクンドクンと響く。