「すみません…」

「謝らなくていいけど、どうしたんだよ」

「すみません、でも、今日は帰らせてください」


頭をなでてもらいながら、顔を伏せたまま、蚊の鳴くような声で言うのがやっとだった。久人さんが覗き込んでくる。


「なんで? 別に婚前交渉ってわけでもないんだし、誰もなにも咎めないよ?」

「こんぜ…こう…」

「俺たち、来月には一緒に暮らすわけだしさ、その前にある程度、お互いの生活とか、知っておいたほうが手間も省けるっていうか…わあ、待って、泣くの? 今泣くの? ここで?」


両手で顔を覆った私に、久人さんはいよいようろたえ、桃、と必死な感じで声をかけてくれる。うう、違うんです、すみません、すみません…。


「あの、泣いてはいません」

「じゃあ顔上げようよ」

「私、箱入りなんです」


言われた通り顔を上げたら、床にひざをついて、ぽかんとしている顔があった。「知ってるよ?」とその首が片側にかしげられる。


「御園家っていったら、過去には内閣総理大臣も輩出してる家柄じゃない。そこの一人娘なんて、どれだけ…」

「そういう意味じゃないんです。実質、ということです。正味です」

「正味ってなんだよ」


ますますぽかんとしてしまった久人さんは、それでも私の言ったことを、頭の中で検証してくれたようだった。いくらもしないうちに、その顔にひらめきが宿る。右手が私を指さした。


「あ」


そうです、はい。

私はどんどん熱くなってくる顔と耳にめまいさえ覚えながら、じっとしていた。

驚き顔の久人さんが、誰もいないのになぜか小声で、「処女?」と遠慮がちながらもダイレクトに聞いてくる。

私はうなずいた。もう涙目だ。


「ごめんなさい」

「いや…謝らなくていいって」


久人さんは若干呆然とした声で、「でも、へえ」とひとりで相槌を打っている。


「ちょっと驚きだね。桃ってお嬢さんぽいけど、悪い意味で浮世離れした感じ、そんなになかったし」

「立派に離れてるんです。しかも、それどころじゃないです」

「それどころって…あ、キスとか?」

「手を繋いだこともないです。男の人とふたりで遊んだりとかも」