婚約記念品として、私から彼に贈ったものだ。

私が指輪をもらうことに決まった後、ひとしきり悩んだ彼が『スーツが欲しい』と思いついたのだ。フルオーダーなので、結納には仕上がりが間に合わず、あの場では控えを渡した。


「ついついスリーシーズン着られるほうに金掛けちゃいがちなんだけどさ、夏物でひとつ勝負着があると、やっぱり上がるね」

「男の人でも、そういうのあるんですね」

「あるよー、俺の場合スーツだけじゃなくて、靴とネクタイにもあるよ」

「ベルトは?」

「三本を使い回してるだけだから、適当」


あはは、と笑ってから、お互い、はっと状況を思い出した。


「あの、この会社は…」

「俺、自分でやってる会社のほかにも、いくつか面倒見てるとこあってさ。このファームもそのひとつ。今一番力入れてるんだ。だから秘書が欲しかった」

「そうでしたか」

「ごめん、俺も自分の勤め先、ちゃんと全部教えるね。名前貸してるだけのとことか合わせるとほんといっぱいあるから、つい無精してた」


ということは、最近の久人さんは週の半分ほどを、このオフィスで過ごしていたのか。グレーと黒を基調とした、シックな役員室。イメージにぴったりだ。


「あの…久人さん」

「うん?」


おそるおそる切り出すと、彼が不思議そうに首をかしげる。


「やっぱり私が秘書ではやりづらいでしょう。首にしていただいてけっこうです。でもあの、差し支えなければ、次の職が見つかるまでは置いていただけませんか」


久人さんは目を見開いて、黙ってしまった。

うう、すみません。図々しいのは承知ですが、給与と職歴に望まないブランクができるのは避けたいんです。


「ねえ桃」


じっと私に視線を注いで、久人さんが呼びかけた。


「はい」

「どうしてこの会社を選んだの?」

「それは、あの、場所や労働条件がぴったりだったので」

「桃は若いし、秘書業務の経験者だ。ほかにもいっぱい募集かけてる企業、あったはずだよ。今までいたところに近い業態だってあったでしょ」