「ちょっ、なにやってるんですか高塚さん、拭くものお持ちします!」
「いや、いい、あるから。ちょっと…次原、外して。後で呼ぶ」
ハンカチで口を押さえ、げほげほと咳込む久人さんに、怪訝そうな顔をしつつも、次原さんは「承知しました」と一礼して出ていった。
パタン、とドアが閉まるやいなや、私はデスクに駆け寄った。久人さんが立ち上がって迎えてくれるものの、その様子は見たこともないほど落ち着きがない。
「ねえ、桃こそなにやってるの、なんでここにいるの?」
「ご、ごめんなさい、私もなにがなんだか」
「仕事は?」
「前のところは先月で辞めたんです。今日からこちらで雇っていただくことに」
「転職したってこと?」
彼が目を丸くして尋ねた。
「はい」
「言って! びっくりするから、そういうのちゃんと言って!」
はい、すみません!
でも、給与も少しだけど上がるし、通勤時間は短くなるし、久人さんのメインの職場とも近くなる。
「…だからご迷惑もおかけしませんし、私の職場なんて、その、あまり話題にのぼったこともないですし、いずれご報告すればいいかと思って…」
久人さんの顔が当惑に歪む。動揺のためか、耳の先が少し赤い。
「俺だって、奥さんの勤め先くらい、いつも頭の片隅にあるよ」
申し訳なくなってしまった。言わなかったことだけじゃなく、久人さんのそういう優しさに、思いが至らなかった自分が。
「はい…」
「迷惑とかそういう話じゃなくて、桃の情報のアップデートでしょ、すぐに共有して」
「はい」
久人さんが、ふーっと気を落ち着かせるように、腰に手を当てて息を吐いた。
引き締まった身体を包んでいるのは、涼しげなストライプの入った、チャコールグレーのスラックスと、揃いのベスト。
「…これ、一緒に仕立てたスーツですね」
「ん? うん、すごい気に入ってる。ありがとね」
「すてきです」