「今日がちょうど土曜日でよかった」

「ほんとだね」


突然聞こえた声に、弾かれるように立ち上がり、振り向いた。

ずいぶん前に別れたはずの久人さんが、そこにいた。


「どうして…」

「俺が聞きたいよ。どうしてわざわざ、俺と別れてひとりで来たの」


ワイシャツの袖をまくりながら近づいてきて、手桶の水の中からたわしを取り上げる。そして私では背の届かない、大きな石碑を磨きはじめた。


「ご両親の命日でしょ、今日?」


彼が柄杓で水をかけると、しずくがこちらにも飛んでくる。土埃に汚れていた石碑が、みるみる本来の姿を取り戻していくのを、私は呆然と見つめた。


「そうです…」

「俺に気を使った?」


最後、手桶に残った水を全部撒いてしまうと、久人さんはようやくこちらを振り返った。私は消え入りそうな声で、「すみません」とやっと謝った。

久人さんが、微笑んで首を振る。


「こっちこそごめん。俺が、家族ドラマは苦手だなんて言ったからだね」

「いえ、ご報告くらい…すべきでした」

「ところでこのお墓、線香を置くところがないね」


きょろきょろしている彼に、私は地面の片隅にある石の台座を指し示した。そこには年季の入った香炉が置いてある。


「これなんです。うち、みんなお線香が嫌いで、仏壇でもお香を炊くんです」


私はバッグから、コーンタイプの白檀のお香を取り出した。香炉に置き、マッチで火をつけ、蓋をする。自然に火は消える。

私の隣に久人さんもしゃがみ、手を合わせた。

私はいつもどおり、こちらは元気です、安心してね、と話しかけて、目を開ける。久人さんは、まだ手を合わせていた。

なにか、すごく熱心にお祈りでもしているみたいに、じっと目を閉じている。私が見ている前で、やがて祈りは終わった。

古い花と手桶を持ち、帰る支度をする。洗った石碑はもう乾き、早くも新たな土埃をまといつつある。


「なにをお話ししました?」

「入籍前に来なくて申し訳ありませんって」


砂利道を戻りながら、ぽつぽつと会話する。