──あいつはそれが誇りなんだよ。生きる意味といってもいい。


カチカチとなにかが鳴っていて、なんだろうと思ったら、自分の歯だった。冷たい汗と震えが、全身を襲う。

久人さんの絶望、喪失感、すべての信頼が崩れた瞬間。

とても想像できるものじゃない。あえてするなら、果てのない闇が見える。


「久人さん…」

『あいつが帰ってきたら教えてくれる? 俺、行きそうな店とか声かけてみる。桃子ちゃんは家にいてね。あいつを絶対にひとりにしないで』


気づいたら電話は切れていた。

グラスの氷は解け、コーヒーの上に透明な層ができていた。

あんまりだ。

お義父さま、お義母さま、あんまりです。あなたがたが久人さんを選び、息子にしたんです。彼はそれをよすがに生きてきた。必要とされるままに、喜んで自分を全部投げ出して。

事情があるんでしょう、誰にだってあります。だけどあんまりです。

久人さんの目には、あなたたちしか映っていないのに!




どれだけ時間がたっただろう。

私は暗いリビングで、ひざを抱えてラグの上でうずくまっていた。

ライトを消したのはあえてのことだ。なんとなく、人が起きている気配がないほうが、今の久人さんが帰ってきやすいんじゃないかと思ったからだ。

私がいることで、彼が安心してくれたら一番なんだけれど。残念ながら私はまだ、彼にとってそこまでの存在にはなっていない。

携帯に触れると、液晶がふわっと室内を照らし、三時前だと教えてくれた。

まとまらない考え事をしているうち、こんな時間になっていたのか。

ローテーブルに、顔を伏せた。廊下のフットライトが、ガラスドアの向こうで淡いオレンジ色に光っている。

帰ってきますよね、久人さん。

ここがあなたの家です。

そう思ってくれていますよね。

そのとき、なにか気配を感じた気がして、はっとした。耳を澄ましても、家の中はしんと静まり返っているばかりで、物音はしない。