僕の知らない、いつかの君へ






「水嶋くん」

教室の入口から聞こえた妙によく通る声。その声の主を見て、一瞬、聞き間違いかと思った。
いや、聞き間違いであると良いなと思ったというほうが正しいかもしれない。

「水嶋慶太くん、おるかな」

教室じゅうに響き渡るような声で呼ばれたそれは、やはり間違いなく俺の名前だった。

野球部で三年の森田篤。
この学校で彼を知らない人間はおそらくいない。

高校生離れした体格から繰り出す豪速球で、我が校の弱小野球部を甲子園出場に導いた、関西の中学校出身の四番ピッチャー。
どこを歩いていても目立つその彼が、わざわざ野球部でもなくスポーツコースでもない二年生の俺のところまでやって来る理由なんて、まったく思い付かなかった。

「水嶋慶太くん。ちょっとええかな」

日に焼けた顔から白い歯をにかりと覗かせて、彼はいった。

俺は昼休みのクラスに残っている全員の視線を一身に受けながら渋々立ち上がる。

食べかけのコロッケパンを袋に戻し、とりあえず「食うなよ」と中岡に押しつけておく。

「何しでかしたんだよ、慶太」と小声でいった中岡に「知らねえよ」とだけ返し、俺は教室の入口に立ちはだかる黒い壁、森田篤に向かって歩き出した。

教室の中央で固まっていた女子たちも、その中心にいる七瀬さんまでもがこっちを見ている。
森田篤に呼び出される俺の姿は、動物園のライオンの餌にされる生きた鶏みたいに見えているんだろう。
スポーツコースのエースと、普通科帰宅部、とくに秀才でもなく目立つ悪さをしてるわけでもない俺。

大丈夫。身に覚えはない。そもそも森田篤と俺にはなんの接点もないのだ。




「急に呼び出して、ごめんな」

「はい、いや、いいっすけど」

デカイ体の森田の後を追いかけるようにして付いていく。昼休みの中庭は眩しくて、指定のシャツにベストだけでは少し肌寒い。

俺と同じ格好をしてるにも関わらず、森田はちっとも寒そうには見えない。
ウエストに近いところでベルトをしてもダサくならないのは多分、尻の筋肉があるからだ。

「実は俺、美貴ちゃんのことが好きやねん」

唐突に、そしてその、大きな体つきに似合わないはにかむような笑みを浮かべて彼は言った。

「はぁ」

そこまで驚くようなことでもなく、かといってわざわざ大袈裟なリアクションをするべきことでもなかった。俺の口からは呆れたようなため息のようなものが漏れただけだった。

「ごめんな、弟のきみにこんなこと」

彼は申し訳なさそうな顔で言った。

美貴というのは俺の一歳上の姉の名前で、姉は同じ私立高校三年の特進クラスに通っている。大学に付属したマンモス校であるが故に、同じ学校に通っていても普段姉と出くわすことはほとんどない。


「はぁ」

俺の口からはやっぱりこんな声が出ただけだった。他になんと言えば良いのか、正直なところまったくわからなかった。

「もう何回も、告白してるんやけど、ずっと無視や」

「……はあ」

「俺、美貴ちゃんに嫌われてるんやろか」

「…どうっすかね…わかんないっすけど…」

真剣な表情で語りかけてくる彼に悪いとは思うけれど、きっとそういうことなのだろう。
さすがに「でしょうねー」とは答えられないし、かといって、希望を持たせるようなことも言えない。

ただひとつ、俺が知っていて確実に言えること、それは、姉の美貴は頭の悪い男と坊主頭が嫌いだということだ。

けれどそれは、目の前の彼にとっては致命的なことに違いない。




「もう卒業まで時間がないねん。頼む、慶太くん」

切羽詰まった表情は、全国放送された甲子園の一回戦、惜しくも一点差で敗れた瞬間のキャプテンの顔だった。高校卒業後は大学野球のため関西に戻ると決まっているらしい彼の目には涙のようなものさえ浮かんでいる。

「協力してくれへんか、俺に」

「え……」

俺のそれとは色も質感もまるで違う、けれど意外にも繊細そうなふたつの掌が俺の手を握っている。

これまでの人生のほとんどを照りつける太陽の下で生きてきた男、たぶん俺とは正反対の男。

返事をしたつもりなんてなかった。
けれど彼の熱に負けた脳は勝手に筋肉に指令を出したらしい。俺の首はこくんと縦に振られていた。

「……ありがとう!慶太くん!」

「……っぷ」

勢いよく大きな身体に抱き締められ危うく窒息しそうになる。


満面の笑みで携帯の連絡先の交換を強要されたあと、ようやく解放された俺は半分放心状態で教室へと戻った。


中岡に預けておいたコロッケパンの残りを受け取ると、「で、どうだったんだよ」と興味津々の顔で問い詰められる。

「どうって……?」

「だーかーらー、呼び出しの理由だって。慶太、森田なんかと接点ないじゃん」

中岡はあっさり森田と呼び捨てにしたが、奴の目の前で奴をそう呼ぶ勇気のある男じゃないことは間違いない。

「姉貴だよ、姉貴」

答えてからコロッケパンを口に押し込む。あと4分で、昼休みが終わる。


「慶太の姉ちゃん?」

「ああ。好きなんだって、姉貴のこと」

「へえー。まぁ、確かに美人だしな、慶太の姉ちゃん」

中岡は、ひとりで納得したようにうんうんと頷いている。

「性格は最悪だけどな」

「そうかあ?俺は、慶太の姉ちゃんになら蹴られても縛られても良いけど」

「気持ちわりぃこと言うなって」

姉の美貴が美人だということについては否定しない。見た目が整っているからといって、それは両親の遺伝子の賜なのであって美貴が偉いという訳では決してない。
それに加えて姉は美人だが性格にまったくといっていいほど可愛げがない。
美人と言われる女子より可愛いと言われる女子のほうが遥かにハイレベルだと思う男は、俺だけじゃないと思う。

昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り響く。口の中のコロッケパンの味をコーヒー牛乳で洗い流すように飲み込んだ。

放課後、携帯をチェックすると早速、森田篤からのメッセージが届いていた。
タップしなくても画面に勝手に表示される一行目。

〈これからよろしくな!我が弟よ!〉

「何だよ、弟って」

いかにもウザくて一行目から既に暑苦しいその内容に、既読をつけてしまうのが面倒で、メッセージの続きは確認せずに画面を閉じる。
各学年が一斉に動き出す下校時刻の渡り廊下に中庭からの砂埃が舞い上がる。


「水嶋くん」

背後から聞こえた、鈴が鳴るような声。振り返るとそこには、七瀬さんがいた。

思いもよらない人物に名前を呼ばれたのは今日で二回目。
七瀬さんに呼び止められる理由も、森田篤に呼び出される理由と同じくらいにわからない。

「…ええと、何?」

「あ、あのね、水嶋くん」

「うん?」

七瀬さんが少しだけ、言葉に詰まる。
二年間同じクラスにいたけれど、二人だけでまともに話したことはない。
席が近くなったときに何度か、それこそもう覚えていないくらいの他愛ないやりとりをした程度。

中庭に面した渡り廊下には下校する生徒と部活に向かう生徒が逆方向に通り過ぎていく。向かい合う俺たちに無遠慮な視線を投げ掛けては、声を掛けずに去っていく。


「途中まで、一緒に帰ってもらえない?」

七瀬さんはいった。「だめかな?」と俺の顔を下から覗きこむように見上げるその表情には、断られる恐怖や緊張感のようなものは感じられない。

「……いいけど」

俺の返事に嬉しそうに笑う七瀬さん。

「良かった。じゃあ行こ」

くるりと俺に背を向けて歩き出す。
七瀬さんはまるで前にもこんな風に一緒に帰ったことがあるみたいに自然に、ふわふわの髪を揺らしながら下足室に向かう。


七瀬さんは可愛い。

というのは俺のクラスの男子生徒全員の共通認識だ。

女子のナンバーワンというのはそういうもので、言うなれば不動の安全パイ。
「お前のクラス可愛い子いる?」なんて他のクラスの奴から聞かれたとき用の模範解答だ。


周囲の視線を気にしながら、七瀬さんと並んで校門を出る。
若干の優越感と、七瀬さんの思うがままになっていることへの不安でなんとなく落ち着かない。

短く折り上げたスカートは七瀬さんのために作られたように風に踊っている。

「いきなりごめんね」

と七瀬さんがいった。

「びっくりしたよね。ごめんね水嶋くん」

当たり前だ。中途半端に焦らされているみたいで、ちょっと苛立つ俺。

「何か理由があるんだろ?何?」

「……実はね、わたし、さいきん帰り道に後をつけられてるみたいなんだよね。知ってる人なんだけど、気付いたらだんだん気持ち悪くなっちゃって」

七瀬さんは両方の眉を八の字にさせて、困った顔をして見せた。

「水嶋くんが、途中まで同じ道を通るの知ってたから、だからお願いすることにしたの。本当にありがとう」

「…いいよ」

七瀬さんは可愛い。そして、自分が可愛いことを知っている。
自分がクラスのナンバーワンだということも。


「後をつけられてる相手って、誰?」

俺がたずねると、七瀬さんはキョロキョロとあたりを見回した。

「よかった。今日はいないみたい。あのね、違うクラスの男子なんだけど、すごい気持ち悪いんだよね。一度も話したことだってないんだよ。なんか暗い感じだし、なんていうか…」

七瀬さんは嫌いな食べ物の話でもするように、心の底から嫌そうな顔で続けた。

「なんていうか、何?」

「いかにも陰気で、オタクっぽいの。ほら、爬虫類とか魚とかさ、飼ってそうな感じ」

七瀬さんはそう言って、「気持ち悪いでしょー?」と、俺に同意を求めるような顔をして見せた。

俺は何も答えなかった。
それと同時に、なんだかとても残念な気持ちになった。

何かを「気持ち悪い」と言う七瀬さんは、いつもの可愛い七瀬さんではなかった。

誰にでも笑顔で接する優しい七瀬さん。という、俺の中の勝手なナンバーワン像が崩れ落ちた瞬間だった。

「ありがとう。ここまでで大丈夫」

学校近くのバス停まで来ると、七瀬さんは笑顔でいった。

「明日も、お願いしてもいい?」

断られる恐怖なんてひとかけらも感じさせないその整った顔で、七瀬さんは首を傾げて見せた。

「ごめん。今日だけで勘弁」

俺の返事に「えっ」と目を見開く七瀬さん。

「俺も飼ってるんだよね、魚」

七瀬さんの少し崩れた表情に背中を向けて、バイト先の方向に歩き出す。

ほんの少し残念な気持ちと、もったいなかったかなという気持ちがまだ胸の奥に残っていた。



高校一年の春、バイト先を探していた俺が偶然見つけた求人広告、『アクアリウムショップタートル』。タートルは亀。店長の名前が亀田さんだからだ。

第一印象は『暇そうだし、ラクそう』。

アクアリウム専門店なんて、いかにもマニアックだし客も少ないだろうという俺の予想通り、店が客でごった返して忙しくなるなんてことはないし、希望した通りに休みがもらえるし。
おまけに店長の亀田さんはかなり気のいいオジサンで、嫌なところの全くない珍しい人だった。

亀田さんは金魚すら飼ったことのない俺に、水槽のことを一から十まで教えてくれた。

それまでアクアリウムなんてまったく興味がなかった俺も、バイトを始めて一年たった今ではすっかり水の中の世界の虜になってしまった。

バイトで稼いだ金の半分近くは自宅のアクアリウムに費やしているから、結局はなんのために始めたバイトなのかわからなくなってしまっているのが正直なところ。

見た目も中身もいわゆる『チャラい』部類にいる俺が、このいかにもオタクっぽい趣味にどっぷりはまってしまってることを知っているのは、せいぜい姉の美貴と親くらいだろう。