「子どもの頃はみんな素直だよ。日比野くんは?なにか大切にしたりしなかったの?」

「うーん、僕は子どもの頃から超常現象みたいなのは信じてなかったから、そういうことはしなかったよ。


ただね、あのページの真似はした。

というか、両親にしてもらった」


「どのページ?」


僕は、その絵を頭の中でイメージした。


すごく、温かい気持ちになる一ページを。



「えっとね、夜寝るとき、男の子が布団の中で肘ついてさ、うさぎのための空間を作ってあげるページがあったんだ。


『うさぎのあな』とか言ってさ。その絵を見てね、


すごくいいなあって思ったんだ。

うさぎ、羨ましいなあって」


僕は両手で頭の上に三角を作り、布団をかぶるジェスチャーをして見せた。

それを見て彼女は「それで?」と言いながら目を細めた。

「それで、両親に頼んだんだ。絵本読み終わったあとでそのページ開き直してさ。

ねえこれやってって。

両親は僕の両側に寝て、肘ついて空間を作ってくれたよ。


『じゃあこれは、立樹の穴だね』って言って」



「いいなあ、日比野くんはすごく愛されていたんだね」


彼女は、胸の前で両手を握り合わせ、目を輝かせながらそう言った。
 

その穴は、僕だけのもの。

守られている、と感じて、安心した。

抱きしめられるよりもずっと、本当に、幸せな時間だったと思う。



「もしかして、日比野くんがその絵本のこと覚えてたのは、その思い出があったからなのかもね」


 彼女は、少し涙目になっていた。


「森下さん、笑いすぎ」


「だって、子どもの頃の日比野くんを想像したら、かわいすぎたんだもん」


あと、と彼女は言って付け加えた。


「日比野くんの新しい一面が知れて、嬉しかったの」

ーーそうなのかもしれない。


森下さんといるとき、僕は両親のことをありありと思い描くことができた。


 彼女と出会うまでの僕は、ふたりのことを思い出さないようにしていた。

ひとりで両親との思い出を浮かべると、自分の寂しさが際立つから。


でも、なぜ今は、こんなにも幸せな気持ちなんだろう。





ーーああ、そうか。


 今は、ひとりじゃない。


僕の思い出を、共有してくれる人がいる。だから安心して思い出せるんだ。



「日比野くんだって、ほっぺたすごい上がってるよ」

「えっ」


 とっさに口元に手をやる。


僕らは、同じポーズで顔を見合わせて、
もう一度笑った。
 終業式のあとも、サッカー部は練習を行った。

今日は、ずっとBチームでの練習だった。

僕は試合で感じた自分の課題に意識を集中させた。


自分のチームが攻撃に転じるとき、守るだけではなく僕もゴールに向かわなくてはいけないのだ。


その気持ちはあるのだが、技術がその気持ちに追いつかなかった。


ボールを奪っても、そのあとのパスがうまく通らない。ドリブルでも相手を抜けない。


そんな調子で僕は、チャンスを活かしきれずにいた。

Bチームはその日、得点を入れることができなかった。


「日比野、これからどうする?」


 練習終わりに相良が声をかけてきた。


「もうちょっと練習していこうかな」


「がんばるね」


相良はそう言いながらも、付き合うよ、と言ってボールを用意した。



「パスの練習だろ?」


「……よくわかるね」

 
相良には、なんでもお見通しだなあと僕は思う。
 
今日、あれだけ失敗していたんだから、当たり前か。

「まあね」


 
僕らは距離を置き、お互いにパスを出し合う。

相良のパスは、スピードがあるのにすごく受け止めやすい。

距離やパスを出す試合の場面によって回転のかけ方を変えているのだ。


その理屈はわかるけど、簡単に真似することはできない。


「今日は見苦しいところを見せたね」


「ミスしてたこと? いや、俺からすればむしろ日比野はかっこいいって思ったぞ?」


 その言葉に驚き、動揺し、パスが狂った。
「ごめんっ」


 
僕がパスを打った瞬間にもう動き出していた相良は僕の逸れたボールを難なく受け止めた。



「かっこいいっていうのは、相良みたいなプレーができる奴のことを言うんだろ? 

僕なんて全然じゃんか」


僕がそう言うと、相良は「違うよ」と言って僕にパスを出した。



「日比野は、勇気を出して攻撃に参加しようとしてる。

今までと、動きとか目線とか全然違うから、わかるよ。

だからあのミスは、チャレンジしてる証拠だろ?」


なんだか、森下さんみたいなことを言うなあと思った。

つまりは、僕はその言葉にまんまと納得し、勇気付けられてしまったということ。


「あのさっ」


 僕は狙いを定めて鋭くパスを放った。

そして、離れた相良にしっかりと届くように大きな声でこう言った。


「これからも練習、付き合ってもらいたいんだっ」



「いいよーっ!」


 相良は、パスを受け取りながら、即答した。


まるで、そう言われるのがわかっていたかのように。


「ありがとう! ……あとさ、縦パスの出し方、おしえてっ」


相良も「まかせろ!」と大きな声で返してきた。


そしてこう続けた。


「日比野には、試合に出てもらわないと困るからなっ!」





……相良の優しさに、僕は感謝しなければならない。


後悔しないためにも、苦手なことからは絶対に逃げない。

相良からボールが返ってくる。


僕は、これが試合中なんだと思って相良にまっすぐパスを放った。


今度は、ボールが相良のもとへしっかりと飛んでいった。



帰りの電車の中で僕は、相良と出会ったときのことを思い出していた。


記憶をなくし、進学した中学校では特定の友達を作ることもせず、絵ばかり描いていた僕は、友達と付き合う楽しさをまったく忘れてしまっていた。


高校に入学したときは、これから始まる高校生活でも同じように過ごすのだろうと思っていたし、僕はそれでいいと思っていた。


しかし、そんな思いは、初日に打ち砕かれることになった。


隣の席になった長身の男が、僕にいきなり話しかけてきたのだ。


「俺、相良翔太っていうんだ。よろしく」


人懐っこい笑顔を浮かべて彼は僕に手を差し伸べた。


「……僕は、日比野立樹。よろしく」


いきなりのことで少し動揺したけれど、そうされたらその手を握らないわけにはいかない。


そうして僕らは握手を交わした。


大きく力強い手に驚いた。




「日比野さ、サッカー好き?」

「サッカー? いや別に……」

唐突に相良から聞かれて、僕は首を横に振った。



「そうかー、残念だな。……あれかな、体育ではやったけどあんまりボール触れなくて楽しくなかったっていう感じ?」


図星だった。

体育、特に球技は憂鬱な時間だった。


マラソンだけは好きだったけど。


「うん、そんな感じ」


「体育の授業って、うまい奴と運動神経のいい奴の
独壇場になったりするんだよな。


だからもともと苦手だったり嫌いだったりする奴は、ますますサッカー嫌いになる」

確かにそうだった。


僕は、足が遅いし、たまにこぼれ球が来てもそれをさばけずにすぐうまい人に取られていた。



「でも、ここのサッカー部はそうじゃないぜ」


 相良は大きく口を開けて笑った。彼の真っ白な歯が僕の目に映る。


「ここの監督は、選手一人一人のことよく見てくれる。スタープレーヤーはいないけど、
選手のよさを活かせるように考えてる。

チームも、うまい奴を引き立たせるんじゃなくてみんなで守ってみんなで攻めるって感じの雰囲気なんだ」


 へえ、と思った。


彼の話す内容は、僕のイメージしている『高校の部活』のものとは違った。

「日比野って、走るのは好きだろ?」

「えっ……そうだけど、なんでわかるの?」


「姿勢がいいからさ。

体幹がしっかりしてる証拠だよ。

そういう奴って、身体のバランスを取るのがうまいから、長く走れるんだ」


姿勢なんて、自分では意識したことがなかった。


マラソンだけは得意な理由がそんなところにあったなんて。


「サッカーって、走ってなんぼの競技だよ。

強いチームは選手の運動量が圧倒的に多い。

全員で攻めて点を入れたときの喜びはそりゃあもうすごいぞ」

彼は興奮気味に話していた。

「それでな、体幹はサッカー選手にとってすごい重要なんだぜ。

日比野はきっと、守りに向いてると思う。

基礎体力はあるだろうから、練習すれば今からでも全然楽しくやれるはずだよ」

彼はそう言うと、またニカッと歯を見せて笑った。