「じゃ、また明日な」
いつも僕と相良は、部活が終わると途中まで一緒に帰る。
手を振る相良に、僕はまた明日と言って、古い町家が立ち並ぶ通りに入っていった。その奥に、じいちゃんと暮らす家がある。
一度振り返ると、暗闇の中に相良の後ろ姿が見えた。
――遠くから見ても、大きな背中だ。
相良は今、施設で生活している。小六のときに両親が離婚し母親とふたりで暮らすようになったが、その母親も中学生になった彼を置いて出ていってしまったらしい。
彼と仲よくなったのは、似た者同士だったからというのもあるかもしれない。両親がいないとは言っても意味合いは違うけど、似た状況に置かれているふたりだからこそ話せることもある。
彼は、自分を見捨てた家族を悪く言うことはなく、そういった話も明るく語った。高三になった相良は、施設の年長者としてほかの子どもたちのお兄さん的な存在になっている。基本的に面倒見がいいのだ。
そんな彼は僕の話も親身になって聞いてくれて、記憶が戻るといいな、とも言ってくれた。相良の背中が大きく見えるのは、単に身体がでかいからだけではない、と僕は思う。
向き直ると、オレンジ色の街灯に照らされた馴染なじみのある静かな風景が迎えてくれていた。背は低く、黒や焦げ茶など、落ち着いた色をしている。夜でも木の温もりを感じることのできる町家が、僕は好きだった。通り沿いに並ぶ桜の木は満開を迎え、街灯に照らされながら、花びらがひらひらと舞い落ちる。
毎日歩いていても見飽きることのない、そんな風景の中を僕は進んだ。じいちゃんとこの町で暮らし始めてもう六年になる。
じいちゃんは長年、この町家通りの奥で小さな古本屋を営んでいる。二階が自宅になっていて、両親を亡くした僕はそこに引き取られることになった。
「ただいま」
ガラガラと音の鳴る引き戸を開けると、そこはもう本の世界だ。左右に天井まで高さのある本棚が続く。白熱灯の優しい光に照らされた本たちは、自分が手に取られるときを、息をひそめて待っている。
「おかえり、立樹(たつき)」
目の前にも立ち並ぶ本棚の奥から、じいちゃんの低い声がした。僕が本棚の間の狭いスペースを進むと、大きな木のテーブルに向かって本を読んでいたじいちゃんが、老眼鏡ろうがんきょうを持ち上げて僕に視線を向けた。
いつもこうやって、目尻のしわをいっそう際立たせて「おかえり」と言って迎えてくれるたびに、僕はなんだか安心していた。
「じいちゃん、今日はなに読んでるの」
「今日はね、本棚の本だ。作家や珈琲こーひー屋の主人、学芸員など、いろんな人の本棚を取材してまとめた本なんだ」
じいちゃんは目尻を下げながらそう言うと、片手で本のページを見せてくれた。
「へえ、おもしろそうだね」
「おもしろいとも。本棚にはその人の価値観や人生そのものが反映されるからな」
読み終わったら僕にも貸して。そう言ってから、これまたギシギシと音の鳴る階段をのぼって自分の部屋へ上がった。紐を手で探り当て、カチ、と電気をつける。
四畳の狭い部屋だけど、逆にそこが気に入っている。物といえば、木のローテーブルと本棚、画材セットがひとまとまりになっているだけ。あとは押し入れに布団、そして記憶のない頃の所有物が詰め込まれている。
僕はセカンドバッグを置き着替えると、また電気を消して出窓に腰をかけた。暗くなった部屋に、外から街灯の灯りが差し込む。窓を開けると、ゆっくりとした風とともに桜の花びらがちょうど一枚入ってきた。キャッチしようとしたが、利き手ではない左手ではうまくつかめなかった。
空をつかんだ左手を見て、僕は今日の昼間の出来事を思い出し、ある女の子の名前を心の中でつぶやいた。
――もしりた、かの。
今日、声をかけられたあの瞬間、彼女と目が合ったと感じた。ベージュ色の眼鏡の奥にある瞳は、驚くほど澄んでいて、やわらかく優しい光を放っていた。
声をかけられたあと、すぐに斜め下を向いた僕には、その後の彼女の様子はわからないけれど、申し訳なさそうにする彼女の表情は想像できた。
素直に、お願いすればよかったのに。
全力で試合に臨んだ結果だからと、怪我をしたあの日はやり直したいとは思わなかったけれど、このときは、一日をやり直したいと強く思った。
声をかけられた日から、僕は彼女の存在を意識するようになった。けれど彼女のほうはそれまでと変わらず、僕があんな態度をとってしまったこともあまり気にしていないようだった。
今回のことで、彼女は、積極的に人に話しかけたりはしないけど、困っている人を無視したりはしない人だということがわかった。
それは、見返りを求めない優しさだと思う。声色から緊張していることが伝わってきたけれど、親切をすること自体は彼女にとって自然な行動なのだろう。
彼女は僕のことをプラスにもマイナスにも捉えていないように思えた。そんな森下さんの隣は、なぜだか居心地がよかった。
改めて意識して彼女を見ると、気がついたことがいくつかある。
まず、髪の毛。やわらかくふわふわとしたくせっ毛は、茶色っぽい。セミロングのそれは肩に当たって外側にはねていた。
次に、背丈。平均よりも低いんだと気付いた。座っている僕の横を彼女が横切ったとき、反射的に顔を上げた。すると、目の高さにあったのは、彼女の後頭部だった。
最後に、笑った顔。彼女は、いつでもほんのりと赤く染まった頬を持ち上げ、目を細めながら「ふふっ」と小さく笑う。幼い子どもが、サンタクロースからのプレゼントだとか遊園地に行くことを楽しみにしながら笑っているような、幼さを残しながらも温かみのある笑い方だと思った。
気が付いたといっても大したものじゃない。きっとほかの誰でも気が付くことだろう。でも、僕にとってこんな風に女の子を意識するのは初めての感覚だった。
そんないくつかのことに気付いたあとでも、僕たちの間には特に会話はない。ただあのとき彼女の厚こう意いを断ってしまったことを謝り、そしてありがとうと言いたい気持ちを抱えながら僕は過ごしていた。
五月に入って間もないある日の休み時間。
彼女にごめんなさいとありがとうを伝えられるチャンスがきた。彼女が、僕の席の近くに、筆箱を落としたのだ。
このとき、僕の頭は想像以上のスピードで回転し、心臓の鼓動こどうが勢いを強めた。
――これを拾って、渡して、そしてもし「ありがとう」と言われたら、「こちらこそこの前はありがとう」と言おう。できることなら、謝ろう。
作戦はよかったけど、焦ったのがいけなかったんだろう。
ゴン――。
僕らは、筆箱を同時に拾おうとして、頭をぶつけてしまった。
「いたっ」
声を上げたのは彼女だ。きっと、周りからも間抜けな光景に見えただろう。
またやってしまった。僕はいつもこうやって空回りをする。
すると、彼女が先に、言葉を発した。
「ごめん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。こっちこそごめん」
あまり痛くはないけれど、反射的に左手で頭をおさえながら返すと、彼女の目はまっすぐこちらを見ていた。痛かったのか、少し潤んでいるようにも見える。
そして、今度は彼女が動かないことを確認してから筆箱を拾って彼女に渡した。
彼女は僕の目を見ながら小さく会釈をし、
「ありがとう」
と言った。ゆっくりとした口調だった。
『この次が肝心だぞ!言え!』と頭の中の僕が命令する。今度は、素直に従うことができた。
「こ、こちらこそありがとう」
予定していた『この前は』という言葉をつけるのを忘れたし、一カ月近く前のことなので、彼女はなにに対してお礼を言われてるのかわからないじゃないかと思った。突拍子もなさすぎる発言だった。
でも、彼女は、僕の言いたいことを察してくれた。そして、申し訳なさそうに言う。
「ごめんね、この前はおせっかいをやいて。その……それだと、大変だと思って。でも、そんなことなかったね」
やっぱり、彼女は勇気を出して僕に声をかけたんだ。そして僕はその厚意を受け止めずに、彼女におせっかいだったと思わせてしまった。彼女は、謝る必要なんてないのに。申し訳ないのは完全にこっちである。
「ごめんはこっちだよ。せっかく言ってくれたのに、断っちゃって」
僕は慌てて返す。やっと、謝ることができた。
「右手、大丈夫?」
「あ、これ……うん。もう少しでくっつくんだ。痛みもほとんどないよ」
早く治るといいね、と彼女は優しい笑顔で返す。
なにか手伝えることがあったら言ってね、とは言わなかった。言わなかったけれど、これから僕が困っているときがあったら彼女は助けてくれようとするだろうということはわかった。
押しつけがましくないし、人の気持ちもしっかりと考えてくれる。やっぱり、彼女の隣は居心地がよいと思った。
そんなことがあってから、僕らはなんとなく朝会ったときにお互い挨拶を交わすようになった。「じゃあね」とか「また明日」を言うほどではないけれど。
そして、なにか作業をするとき、僕は森下さんに『ごめん、お願いしてもいいかな?』と聞き、彼女は『うん』とだけ返して快くやってくれた。
それから、美術の時間。果物のデッサンを描く授業だったのだけど、そのときは控えめながら隣から彼女の視線を感じた。僕が慣れない左手で描いていたものだから、気になったのだろう。
森下さんは、「利き手じゃないのにすごく上手だね」と、そんなひとことをくれた。
時間をかけて一生懸命描いたものの、出来栄えは最悪だと思っていたので、唐突な褒め言葉に驚いた。頬が熱くなるのを感じながら、僕は小さな声で「ありがとう」と返した。
それ以外は、今までどおり。必要以上に関わりを持たないところから、彼女は前と変わらず、僕のことをプラスにもマイナスにも捉えていないようだった。
しかし困ったことに、僕のほうは彼女に関心を向けざるを得なくなっていた。隣に
いて、妙に落ち着く雰囲気。見返りを求めない優しさ。控えめな態度。
ほかのクラスメイトと接している姿を見ていると、彼女は微笑みを浮かべ、友達の話を「うんうん」と頷きながら目を見て聞いていた。相手をないがしろにせず、心を向けている態度に好感を持っていた。
彼女の心は、その瞳と同じように、綺麗だと僕は思う。
どんな環境がこんな心の持ち主を育てたのだろうかと、少し興味が湧いていた。
だんだん気温も上がってきた。今日は、日曜日。待ちに待った瞬間がやってきた。
「もう骨はくっついてるから大丈夫だけど、動かしたりするのにはまだ痛みを伴ともなうだろうね。ボールを持ったり投げたりっていうのは、様子を見ながらにしてね」
整形せいけい外科げかの先生は、涼しい顔で僕の右手に刺さっていたワイヤーを抜きながら言った。するすると僕の手から銀色の長い棒が顔を出していく。意外と、痛くはない。
「わかりました」
先生にお礼を言って、診察室を出る。そして、両手でガッツポーズを作った。
ギプスが外れた。これでようやく、練習にも参加できる。右手でご飯が食べられる。着替えの時間が早くなる。お風呂に全身浸かることができる。右手で字や絵が書ける。
今回利き腕を怪我したことによる不便さは想像以上で、そのストレスが募っていた。その分、今日ギプスが外れたときの喜びや解放感は大きなものだった。
先生はボールを持ったり投げたりすることを控えたほうがいいと言っていたけれど、サッカーで手を使うときと言えばスローインのときくらいなので、骨がくっついているなら多少痛くても問題はない。
僕はやる気満々だった。右手でグーとパーを交互に作り、手の感覚を確かめると、少しだけ痛みを感じた。
病院からの帰り道、公園の前を通りかかると、見知った顔を見つけた。あちらも僕に気付き、手を振る。
「たつき兄ちゃん!」
「やあ、かおるくん」
かおるくんは近所の子で、今は確か五歳だったはずだ。お母さんのゆいこさんと一緒によくこの公園に遊びに来ていた。初めて会ったのは、僕が高二になったばかりのときだったから、もう一年の付き合いになる。
手を振り返し、公園の中へと入った。
かおるくんは、今日もしゃがみ込んでコンクリートのキャンバスにチョークで絵を描いていた。ゆいこさんは、近くのベンチに座ってその様子を見守っている。
こんにちは、と彼女に会釈をしてから、僕は陽だまりの中にいるかおるくんのそばにしゃがみ込んだ。日差しが暖かい。かおるくんのさらさらとした髪は光を反射して輝いていた。
「なに、描いてるの」
「イルカ。ここぜんぶ、海なの。いま、たつき兄ちゃん海の中だよ」
「そっかぁ」
ここ、とはこのキャンバスのことだ。この公園の中央にある三メートル四方ほどのコンクリートは、水で落とせるチョークに限り絵を描いてもいいことになっていた。
かおるくんと僕はよく、ここに絵を描いて遊んでいた。海、空、森……と、描くものはかおるくんが決める。今日は海だ。メインとなる絵はかおるくんが描き、僕は背景を担当した。空の絵のときは白鳥を、森の絵のときは兎うさぎを描いていた。
初めて会ったときも、僕がランニングをして通りかかったところに声をかけられ、促されるままに絵を描いた。一緒にそうやっているうちに、僕らは仲よくなったのだ。
「じゃあ、お兄ちゃんは、あわをかいて」
「わかった、泡ね。何個くらい描こうか?」
「いっぱい!」
子どもらしくかわいい返答に思わず僕は笑ってしまった。よし、いっぱいだねと言って水色のチョークを手に取り、かおるくんが大きく描いているイルカの周りに泡を描き始める。
描いているとき、僕らは決まって無言だった。おしゃべりが嫌いなわけではないけれど、お互い集中していたのだ。ただ、絵を描いているときには会話は必要なかっただけ。
ふと、視界の右側に影が落ちたのを認め、顔を上げると、ゆいこさんが優しい笑みを浮かべて立っていた。
「立樹くん、右手よくなったんだね」
「はい。さっきギプスが取れたばかりで。早く絵を描きたいなって思ってたところなんです」
この前、まだ治ってないときにふたりに会い、せっかくの機会だったのに一緒に絵が描けなかった。かおるくんは寂しそうに『たつき兄ちゃんはやく手なおってね』と言った。
「タイミングよかったね。この子も、早く立樹くんとお絵描きしたいなって言ってたの。いつもありがとね」
ゆいこさんは、温かい眼差しでかおるくんを見ながら言った。
「こちらこそ。僕も、かおるくんと一緒に絵を描くの好きです」
僕の言葉に安心した様子のゆいこさんは、「用事があるからあとで迎えに来るね」と言って僕にかおるくんを預け、公園をあとにした。
それから僕とかおるくんは、夢中で絵を描き続けた。泡を描き終えると、僕は背景も描いていった。どんどん、キャンバスが色鮮やかに染まっていく。不格好ながらも、
のびのびとしたイルカが泳いでいる。
自分の身体が日差しで温まっていくのと同時に、心も温まっていくのを感じた。やっと絵を描けていること、かおるくんと一緒に絵を描くことを通して、心を通わせることができることが嬉しかった。
もうすぐ、絵が出来上がるというときだった。また、視界の右側に影が落ちた。
ゆいこさんが帰ってきたのだと思い顔を上げると、僕はふたつのことに驚くことになる。
「こんにちは……日比野くん」
「かのちゃん!」
ひとつは、そこに立っていたのがゆいこさんではなく森下さんだったということで、もうひとつは、かおるくんが彼女の下の名前を呼んだことだった。
森下さんはかおるくんの前でしゃがみ込み、その細い指でかおるくんの頭を撫でた。かおるくんは、満面の笑みで目を細めている。
「かおるくん、久しぶり」
森下さんはかおるくんの頭を撫でると、立ち上がって僕に向き直った。
「日比野くん、かおるくんと知り合いだったんだね」
そう、彼女は優しい笑顔で言う。その顔がなんだか、誰かに似ている、と思った。
「うん。こうやって一緒に絵を描くくらいの仲だけど。それにしても驚いたよ。森下さん、このあたりに住んでるの?」
「うん、そう」
「初めて知った」
絵を描き終えたかおるくんは、砂場で遊んでいる。そんなかおるくんを見ながら、僕たちはベンチに座って話をしていた。いつも隣に座っているとはいえそこまで親しい関係でもないから、少し距離を置いて座る。
彼女の私服姿を見るのは初めてだった。白色のワンピースに、薄ピンクのカーディガンを羽織はおっている。改めて見ると、彼女は細いな、と思った。強い風が吹いたら飛ばされてしまいそうな華奢きゃしゃな身体つきだった。それに、顔も幼いから制服を着ていないと中学生くらいに見える。
彼女が近所に住んでいることを今まで知らなかったのは、僕の通学時間が極端きょくたんに早いせいだと思う。僕はいつも早い電車に乗り、部活の朝練に参加しているから学校に着くまで誰とも会わない。
「かおるくんはね、私の甥おいっ子なの」
「え、じゃあゆいこさんは……」
「私のお姉ちゃん」
「そうだったのか……世間って、狭いんだな。驚いたよ」
僕はかおるくんが四歳のときからふたりを知っている。
驚く反面、納得もしていた。ゆいこさんも、かおるくんも、そして彼女も、綺麗な眼をしているからだ。纏まとっている優しい雰囲気も、似ている。さっき、彼女の笑った表情が似ていると思ったのは、ゆいこさんのことだったのだと僕は気付く。
「日比野くん、すごく絵が上手なんだね」
森下さんは僕とかおるくんが描いた絵をまっすぐ見ながら笑顔で言った。
学校ではこんなに話したことはないから、少し、緊張する。普段目にすることのない白く細い手足が人形のようだと思った。
「僕はこのとおり、絵ぐらいしか取り柄がないんだ」
「そ、そんなことはないよ!」
森下さんはとっさにこちらを向き、否定した。そしてすぐに顔を赤くして、「ごめん知ったようなこと言って」と小さく謝った。
「でも、絵が得意なのって羨ましい。私下手だから」
「そんなの、大したことないよ。僕は、勉強が苦手だし、サッカーやってるけどパスとかドリブル苦手だし、走るのは遅いし……あと、大事な時期なのに怪我しちゃうし」
不得意なことなんて、いくらでもある。でも、それを相良以外の人に言うのは初めてのことだった。なぜだか、森下さんには言ってもいいと思ったのだ。
「でも日比野くんは、苦手なことを補うくらいの努力をしてると思う。授業だって一生懸命受けてるし、休み時間には復習もしてる。部活にも一生懸命なの、伝わってくるよ」
いつもはゆっくりと話す彼女が少し早口でそう言った。そんな風に言ってくれるのは意外だったけれど、それが偽いつわりの言葉ではないことはわかる。褒められることに慣れていないから少し戸惑ったけど、素直に、受け止めることにした。
「ありがとう」
「あと、日比野くんの絵、もちろん上手なんだけど、それ以前に私はすごく好きだよ。なんて言うか、すごく綺麗で、幻想的。優しく語りかけてくるみたいな絵」
彼女の『好き』という言葉に反応してしまう。絵のことだとは言え、妙に照れくさい。いつもの彼女だったら、そこまで思っていたとしても、口には出さないと思う。僕はそんなことを不思議に思った。
「あ、ありがとう……」
「それにさ、なんだか絵本の世界みたいだよ、日比野くんの絵。私、小さい頃から絵本をたくさん読んでるんだけど、そのどれよりも好きだな」
「森下さんは、絵本が好きなんだね」
今日の彼女は予想外によく話す。何気ない会話もしてみたいと思っていた僕はとても嬉しく思うけれど、それと同時に緊張してしまう。僕は少し口ごもりながら答えた。
うん、好きなんだ。彼女はそう言うと、こちらに身体を向けた。そして、僕が予想もしなかった言葉を口にする。
「ね、日比野くん。突然だけど……絵本の絵を描いてみない?」
相変わらず綺麗な瞳は、まっすぐ僕の目に向けられている。
「……え?絵本の絵を……僕が?」
唐突なその言葉に、僕はただ呆気あっけにとられて彼女を見た。
「うん。絶対に合うよ、日比野くんの絵。絵本に」
だんだん興奮こうふん気味になりながら彼女は話す。心なしか先ほどよりも距離が近い。突然のことに、僕の頭は混乱していた。
その日の夜。僕はベッドに寝そべりながら、公園での出来事を思い返していた。
森下さんの夢。それは、絵本作家になること。しかし、いくら練習しても、絵が上達しないことが悩みらしい。そして、彼女が言うには、僕の絵は彼女が書きたい絵本のイメージにぴったりなのだそうだ。
彼女のあんな積極的な姿は、初めて見た。教室では目立たないほうだし、一カ月以上隣の席に座っているが、そもそもあんなに会話をしたことがなかった。
僕は突然のお願いに驚きはしたが、絵を褒めてもらったことと自分を選んでくれたことが嬉しくて、『僕なんかの絵でよければ』と言って承諾しょうだくした。
右手のいいリハビリにもなるとも思ったことも大きい。それに、自分が必要とされる経験はめったにないことで、単純に嬉しかった。
彼女は、出来上がった絵本はコンクールにふたりで応募おうぼしたいとも言っていた。受賞すればもれなく出版されるものだ。そうすると、図書館や子どもに関係するさまざまな施設にも配られることになる。
子どもはもちろん、たくさんの人にも読んでもらいたい。
それが、彼女の願いだった。そんな気持ちを聞いて、僕もがんばりたいと思った。必要とされたからには、彼女の力になりたい。
そして早速、どんな物語なのかを彼女に聞いてみた。すると彼女は『ふふっ』と笑ってこう言った。
『話は、明日学校で渡すね。タイトルは、まだ秘密』
このときぼくらは、初めて『また明日』と言い合った。
次の日、朝練を終えて教室に戻ると、ちょうど森下さんが登校し、鞄の中身を机に入れているところだった。
「おはよう」
「おはよう、日比野くん」
朝の挨拶をするのはいつもどおり。ただ、おはようのあとに名前を呼ばれたのは初めてだ。そういえば、昨日公園で会ったときも「日比野くん」と呼ばれていたことを思い出す。
「昨日は、急にごめんね」
少し顔を赤くして彼女は言う。昨日、僕に絵を描いてほしいと頼んだあとも、距離が近づいていることに気付いて、慌てて離れてからそんな表情になっていたな。
「ううん。いろいろびっくりしたけど、嬉しかった」
素直にそう伝えると、彼女は嬉しそうに一冊のノートを鞄から取り出して、周りに誰もいないのを確認してから僕に差し出した。その行動から、このノートは学校では開いてほしくないという彼女の意図を察する。
僕はノートを受け取り、そっと鞄に入れた。それを確認してから、彼女は口を開く。
「それね、全部は書いてないの。話は考えてるんだけど、少しずつ読んで、少しずつ描いてもらおうと思って。見開き一ページにつきひとつの絵っていうイメージで書いていくつもり。絵本だけど、対象年齢は少し高め。小学校の高学年くらいかな」
「わかった。構図の指定とかはある?」
「しない。日比野くんが読んで、頭に浮かんだものをそのまま描いて」
「えっ!」
それは意外だった。絵本を描きたいと思っているからには、絵の構図の指定はされるものだと思っていたから。どんな視点で、なにを、どこに、どのくらいの大きさで、どんな色で描けばいいのか、彼女は全部僕に任せると言っている。
「……それでいいの?」
「うん。そのほうが、日比野くんらしい絵になると思うから。部活も忙しいだろうから、日比野くんのペースでゆっくり描いて」
「わかった。とりあえずやってみるよ」
僕は、うまく描けるか不安に思ったけれど、自分らしい絵を描いてほしいと言われたことが嬉しかった。
――とにかくがんばろう。森下さんがどんな話を書くのかはわからないけれど、彼女の作品に見合う絵を描くんだ。
僕はそう思った。