いやいや。

いくらなんでも、情だけで女子高生とつきあおうとは、すまい。


だけども。

あの時点で、情以外のなにが健吾くんのなかにあったというのだ。


とはいえ。

あれから半年たっているわけだし、その間に嫌になれば健吾くんはいくらでも、そういう態度をとれたわけだし。


なにより。

健吾くんは、かわいがってくれているじゃないか。

この私のことを、あんなにも。

そのくらい信じろよ、私。


お風呂に半分顔を沈めて、そんな問答を延々した。


すなわち。

気にする必要は、ない。


以上。



「あっ、しまった」



脱衣所に上がってから、着替えを忘れたことに気がついた。

しょうがないので取り込んだ洗濯物から下着だけ引っ張り出して履いて、首からバスタオルをかけて部屋に向かう。

ダイニングとリビングを突っ切って、階段のある玄関前の廊下へのドアを開けたところで、私は悲鳴をあげた。



「ぎゃー!」



靖人が、玄関で兄と話していたのだ。





「健吾くんにも見せたことないのに…」

「おかしな言い方すんな、どこも見てねえって言ってんだろ!」



ベッドに顔を伏せて、しくしくと嘘泣きする私を、靖人が怒る。



「じゃあなんでそんな顔赤いの!」

「お前がそういうこと言うからだよ!」



ふんだ。

見られたからには動揺させてやりたいという、この複雑な乙女心理がわからないのか。
「お兄ちゃんとなに話してたの」

「いや、犬の件で、治樹くんがわざわざうちに、店のテイクアウト料理を届けてくれたんだよ、今日」

「あっ、そうだ、話したら、お礼しなきゃなって言ってた」

「で、そのお返しにお菓子を預かってきたの」

「え、もしかしておばさんのケーキ?」

「そうだよ」

「早く言えバカ!」



部屋を飛び出して1階に駆け下り、キッチンに向かった。

兄がホールのベイクドチーズケーキを切っているところだった。



「あの、私、120度くらいで」

「チーズケーキってカロリーすごいぞ、言っとくけど」

「そのぶん靖人は15度くらいでいいから」

「それ、なんの帳尻も合ってないからな」



ため息をつきつつも、オーダー通り、私のお皿にはどっさり全体の1/3を、靖人には倒れそうなくらいの薄切りを載せてくれる。



「そういや、おばさんがすっごい浮かれてたんだけど」

「うん?」

「お前と一緒に犬を連れてきたイケメンて、誰のこと?」

「あー…」



やっぱりそう来るよね。

兄には、事故に遭った犬を拾って、困っていたら靖人の家が預かってくれた、というざっくりした説明しかしていなかったのだ。



「…困ってたとき、助けてくれた人」



嘘はついていない、と自分に言い聞かせながらの返答だったものの、兄は納得したようで、ふうんとうなずく。



「お前、変な知り合い多いもんな」

「だてにバイトしてないからね」



ケーキ皿をフォークと一緒にトレイに載せて、グラスもふたつ置いて、冷蔵庫から牛乳パックを取り出して脇に挟んで逃げるように自室へ上がった。



「マジでそれ食うの?」



トレイを見て、靖人が信じられないという顔をした。
「健吾くんは、『ダイエット中だから』ってわざわざ口に出されるのが嫌いなんだって」

「まったくもって同感だけど、健吾くんいねーし、そもそもダイエットなんかしてねーだろ、お前」

「おいしい!」



まだ焼きたてだ。

冷やして二度おいしいのだ、明日が楽しみ。



「治樹くんに、健吾くんのこと突っ込まれなかったか?」

「今まさに突っ込まれてきた。でもぼやっと説明したら、なんとなくごまかせた…気がする」



ごまかすって言葉、嫌だなあ…。

そんな心情を察してか、靖人も複雑に表情を曇らせた。



「母さんに口止めしときゃよかったな」

「靖人って、健吾くんのこと気に入らないのかと思ってたよ。実は応援してくれてるの?」

「応援、は…」



ケーキのお皿をあぐらの脚に載せて、フォークでつつきながら靖人が、考え込むような声を出す。



「してない」

「あ、そう」

「俺もう、これ食い飽きた…」

「嫌々食べるくらいなら残しといて!」

「でもこれがお前の脂肪になると思うと、幼なじみの義務として」

「おいしいって思いながら食べれば栄養になるんです。あーこれダメやばいって罪悪感にまみれながら食べると脂肪になるの」

「そんなことはない」



薄情な発言を無視してお皿を引き取り、もりもりと食べる私を、失礼にも靖人は、薄気味悪そうに見ていた。





週明け、通りを歩いていると、控えめなクラクションが聞こえた。



「郁実ちゃーん」

「あ」



ちょっと行ったところに赤い車が停まっていて、運転席側に女の人が立ち、こちらに手を振っている。

青井さんだった。
「こんにちは」

「学校帰り? 暑いでしょ、乗りたまえよ」



くいと男前に親指で車を指して運転席に座ったので、私も歩道と車道を隔てている柵を乗り越えて助手席のドアを開ける。

青井さんが、座席の上にあった大きなバッグを後ろに置いた。



「すみません、あの私、食べてる途中で」

「見ればわかるよー、声かけたの、それが目的でもあるし」



私が持っていた大判焼きの紙袋を、にやりと笑って指さす。

私は吹き出し、「ツナと粒あん、どっちがいいですか」と聞いた。



「ツナ、お昼食べてないの!」

「車内で食べてもいいですか?」

「もちろん。あ、タダでもらったりはしないからね、はい」



大判焼きを受け取る代わりに、コンソールボックスから百円玉を3枚くれる。

乗り込みかけていた私は、一度歩道に戻って自販機まで行き、そのお金でコーヒーとジュースを買って戻った。



「はい、どうぞ」



青井さんはぽかんとして、それから笑った。



「郁実ちゃんの飲まないほうちょうだい」

「じゃ、ジュースいただきます」

「どこ行くところだったの?」

「図書館です」

「じゃ、そこまで行くね、出すよー」



車の中は、冷房が効いていて気持ちいい。

後部座席に置かれた、使いやすそうなバッグには、ファイルやPCが詰まっていて、いかにも仕事中って感じだ。

車内はなんとなく、大人の女の人の香りが満ちている。



「これ、ご自分の車ですか?」

「そう、うち営業車少ないから、各自がマイカー使ってもいいの。ガス代は会社から出るし」



健吾くんから聞いたところによると、青井さんは健吾くんと同い年ではあるけれど、関連会社からの"出向"で来ているので、同期ではないらしい。

遠藤さんのほうは健吾くんと同期入社。

出向ってなに? って訊いたんだけど、いくら説明してもらってもよくわからなかった。
同期っていうのも、なんとなくしか雰囲気が掴めない。

要するに同じ学年でしょ、というのはわかるんだけど、たぶんそれだけじゃないんだろう。

健吾くんが日々のほとんどを費やしている仕事というものは、私にはこんなふうに、想像力も届かないくらいの、ぼんやりした遠い世界でしかない。



「その制服、いくと同じ高校だね」

「あ、はい、たまたまですけど。青井さんはどちらでした?」

「美菜でいいよ、もしくは青菜とか。ずっとそう呼ばれてた」

「あはは、じゃあ、美菜さんで」

「私は二高。郁実ちゃんたちのセーラーに憧れたなあ」

「二高のブレザー、かわいいじゃないですか」

「セーラーは永遠の憧れなわけよ!」



言いながら、大判焼きをむしるようにかじる。

そ、そうですか。

きれいなのに、気取らない人だな。


そのとき、カーナビのあたりにくっついている携帯が軽快なメロディを発した。

【着信:生島健吾】とある。



「あら、いいタイミング」



美菜さんは私に向かって人差し指を口に当て、いたずらっぽく微笑んでみせると、ちょんと指で操作して通話に切り替えた。

薄いピンクオレンジに塗られた爪が、清潔感もあってきれいで、思わず目が吸い寄せられる。



「はいはい」

『お疲れ、なあN企画さんの更新ていつ? それによってはライセンスをひとつ、こっちに融通してほしいんだけど』

「9月末よ、できないこともないけど、なんで?」

『俺のお客さんが、けっこう近々の入れ替えを検討しててさ、もともと提案してたハードが、S社のだったんだ』



スピーカーから聞こえてくる健吾くんの声は、なんとなくいつもより、鋭い気がする。

仕事中の声。



「あー、生産終了」

『そう。だいぶ先の話だけどさ。だからってもう永久には使えないってわかってるもんを納入するとか、できないだろ』

「真面目ねえ」

『お前も今外だよな? 後で調整させてもらってもいい?』

「いいわよ、私はあんたの大切なお姫様ともう少しおしゃべりしてから戻るから」



健吾くんが黙った。

やがて困惑ぎみの声が聞こえてくる。
『…え、どういう意味? 俺の、なんだって?』

「不用心に一人歩きしてるから、思わず拉致しちゃった」

『誰を?』

「あんたって、そんなにいっぱいお姫様いるの?」



戸惑っている様子が目に見えるようだ。

ためらいがちに、健吾くんが問いかけた。



『…郁?』



なんだかわからないけれど、私はやけにドキッとした。

健吾くんが、私じゃない人に向けて、私に聞かれているともたぶん思っていないときに私の名前を呼ぶと、あんな声になるんだ。

さっきまでより響きが優しいなんて思うのは、うぬぼれだろうか。


運転しながら、美菜さんが愉快そうに笑う。



「正解ー」

『なに、郁がお前といるの? なんで?』



健吾くんの声は、困惑を深めていた。



「偶然会ったの」

『変な話聞かせるなよ』

「変な話ってなによ。ちなみにこっちは車で、郁実ちゃんも聞いてるからね、これ」

『えっ』



美菜さんが、促すように携帯を指さしてみせる。

えっ、どうしよう、えーと、えーと…。



「…もしもし」

『郁…』



お互い、人前でなにをしゃべっていいのかわからず、次の言葉が出てこない。

こちらの雰囲気がわからないぶん、健吾くんのほうがより困っているだろうなあと気の毒になった。



「あの、お仕事お疲れさま」

『…おう』



今日何時頃終わる? とか訊ける場面でもないし…ええと。

私、健吾くんとのこと、なんて美菜さんに説明したんだっけ。

地元の繋がり?

それってどんな距離よ。

参ったな、なにを話しても不自然になりそう。
「あの、あのね、靖人のお母さんが、また健吾くんに会いたがってるの。すっかりファンなんだって」

『マジか』

「それって小瀧さんのことでしょ? 水曜に引き取りに行くとき、いくも行ったら? 夕方だし、中日なら上がれるでしょ」



えっ。

あんまり何度も会うと、いよいよ関係を問われそうで、ぎくっとしたんだけれど、自分で話を振っただけに、引きようがない。



「…健吾くん、どう?」



どうって訊かれても困るだろうなあと、心の中で手を合わせる。

案の定、迷っているような数秒の沈黙があって、それから健吾くんは、すごく言葉を選んだ返事をしてくれた。



『郁がいいなら』

「先方がご迷惑でなければ私もお邪魔したいなあ。郁実ちゃんも来られるかな?」

「あ、はい、私は…隣なので」

「ならそこでまた会えたらいいね。うちの親がもう直接連絡取らせていただいてるから、訊いてみるね」



靖人のお母さんはお客様好きだから、ウェルカムだろう。

私、本当に、そこにいていいんだろうか。

あれっ、まさか靖人もいたりは…ないか、部活だもんね。

いっそ、いてくれたほうが心強い気がしないでもない。



「じゃあ、また連絡するわ」

『わかった。郁は家まで送ってもらうの?』

「ううん、図書館まで。勉強しに行くつもりだったから」

『そっか、がんばれよ』

「ありがと」



健吾くんのほうが通話を終わらせた。

ふうと息がもれて、自分が緊張していたのを知る。



「がんばれよ、だって。郁実ちゃんの前だと兄貴だね」

「実際、お兄さんですし、だいぶ」

「あいつこそ最近大変で、がんばり通しだったんだよ」



…え?

車内が冷えてきたので、冷房を弱めながら、美菜さんが続けた。



「ひとり、いきなり辞めちゃってさ。フタを開けてみたら適当な取引だらけで。担当が近かったせいで、いくが尻拭いみたいなことさせられて」



なにも言わない私に気づき、美菜さんが慌てて笑う。
「ごめん、つまんないね、こんな話」

「…いえ、聞きたいです」

「そう? まあ営業やってりゃよくあることだけど、いくが悪いわけでもないのに頭下げて、取引先に怒鳴られて、自分の担当のケアもしなきゃならないし、相当参ってたんだよ」

「それ、いつ頃の話ですか?」

「ここ1ヶ月くらい。先週あたりからようやく落ち着いたかな」



全然気づかなかった。

確かに土日も会えない日が多くて、忙しいとは言っていたけど、それは単に、そういう時期だからなんだと思っていた。

そんなつらいことしていたなんて、想像もしなかった。



「いくは、帰れるときはさっさと帰るタイプだから、一見楽にこなしてそうに見えるんだけどね。そのぶんほかの日はめちゃくちゃ働くわけよ」



…そうやって、私と会ってくれていたわけか。

この間の、唐突な午後休とか、もしかして相当限界だったから、もうあそこで休むしかなかったんじゃないの?


言ってよ、とか。

私に言う権利、ないよね。

言いたくなかったから、言わなかったんだもんね。


言っても仕方ないしね。

聞いても、わかんないし。



「さ、もうすぐ着くよ。余計な話して、いくに怒られちゃう」

「変な話聞かせるなって言ってましたもんね」

「あー、あれはね」



言葉を途中で切って、美菜さんが図書館の敷地に車を入れる。

正面に着けてくれるつもりなんだろう、駐車場を無視してロータリーを回り込むと、乗降場で停車させた。



「はい到着、勉強がんばってね、ごちそうさま!」

「…あの」

「ん?」



私のほうを見て、不思議そうに眉を上げる。



「変な話っていうのは…」

「え、ああ」



そんな食いつかれると思っていなかったのか、きょとんとしてから、きまり悪そうにちょっと笑う。



「まあ、男と女の、よくある話」
…あれ、私、乗せてもらったお礼、言った?

お年寄りが多いせいか、中途半端な涼しさの図書館で、学習スペースの椅子に座った瞬間、はっとした。

どうやって車から降りたのかも覚えていない。



『もう昔の話よ、一回だけね。これほんと誰にも言ってなくて、遠藤も知らないから、内緒ね』



美菜さんはそう言って、しーっと指を立ててみせた。

実は誰かに言いたかったとか、そういうはしゃいだ感じでもなく、それがかえって、大人ふたりが厳重に隠してきた秘密なんだろうと思わせて、私を打ちのめした。


ポキ、というかすかな音をたててシャーペンの芯が折れた。

今日、もう何度目?

ため息をつきながらカチカチと押すと、短くなった芯がぽろっと落ちてくる。

引き続きカチカチ押してもなにも出てこず、振っても音がしない。

これが試験だったら大幅な時間のロスだよ、と自分を叱りながら、ペンケースから替え芯を取り出した。


手が震える。


いいじゃない、大人なんだから、そういう話くらいあるよ。

健吾くん、かっこいいんだし、いっぱいあるよ、絶対。

これこそが、4人"くらい"の"くらい"の部分なんだよ、きっと。


でもさ。

なにもわざわざ、そんな人にあの子をあげなくても。

うまく芯が入らなくて、苛立っているうちに、視界が揺れてきた。



『会いに行っちゃいそうだ、俺』



あんなこと、言わなくても。

私が知らないと思って。


健吾くんたちにはもう、クラス替えもない、卒業もない。

同じ会社にいる限りずっと、美菜さんとああして、楽しそうな仕事の話、するんでしょ。

ふたりだけの秘密を抱えて、みんなの前では知らないふりして、仲間の顔、するんでしょ。

この後だって、会社に戻ったらさっきの話の続きして、"調整"とかして、私にはわからない世界で疲れてくるんでしょ。


私は市立図書館で、制服を着て試験勉強。


ぽたりとノートに滴が落ちた。

拭うのも惨めで、こぼれるままにした。