「消しちゃうの?」
目の前の絵しか見えていなかったから、飛び上がるほど驚いた。
次の瞬間、その声の持ち主に思い当たって、頭が真っ白になった。
「……彼方くん」
おそるおそる振り向くと、夕日を背に受けた彼方くんが真っ直ぐに私を見つめていた。
「なんで、消しちゃうの?」
もう一度くりかえす。
その視線がゆっくりと絵のほうへ動いた。
「それ……俺だろ? 俺の絵だろ」
しん、と美術室の空気が静まった。
彼方くんを縁取るピンクを帯びたオレンジ色の夕陽が、部屋の中に射し込み、私の指やキャンバスやパレットを鮮やかに染め上げる。
真っ白に染めてしまおうと思ったのに。
なにもかもなかったことにしてしまおうと思ったのに。
彼方くんが、すべてを鮮やかに照らし出してしまう。
「俺のこと……好きなの?」
彼方くんはどこか呆然としたように呟いた。
その直後にはっと口をつぐみ、「ごめん」と言った顔は、見たことがないくらいに真っ赤だった。
「ごめん……。そうだったら嬉しいな、って思ったら、口に出ちゃった」
泣きたくなる。
すべてを忘れようとしていたのに、どうして、そんなことを言うの?
しばらく私の顔をじっと見ていた彼方くんが、ふいに、「消さないでよ」と言った。
「消さないでよ、それ」
私は、なんで、とかすれた声で聞き返す。
すると彼方くんは、困ったような顔でわらった。
「だって、泣いてるから」
笑いを帯びた声が言った。
「泣いてる……? 誰が?」
「遠子が」
そう言われて、私は刷毛を置いて、右手でそっと頬を撫でた。
ひんやりと冷たかった。
次々と溢れる涙が、頬を流れていた。
「泣きながら消すくらいなら、消さないでよ」
彼方くんがそう言って、窓枠に手をかけた。
え、と目を見張っているうちに、彼はひょいっと窓から中へ入ってきた。
「こんなに簡単に入れるのに、今まで入る勇気がなかっただけなんだな」
彼方くんは窓の内側からグラウンドを見た。
それから私に向き直る。
彼は私の左手からパレットをそっと抜きとり、机に置いていた刷毛をつかんで背後に隠した。
「これで、もう、消せないよな」
くすくすと楽しそうに笑った彼方くんの耳は、夕焼けのせいではなく、赤く染まっている。
「遠子」
と呼ばれた。
心地のいい柔らかい声で。
「遠子、俺は」
そう言って一歩近づいてきた彼方くんの瞳に、いつもとはちがう熱のようなものを感じた。
それに気がついた瞬間、私は弾かれたように後ろへ下がった。
「……遠子?」
彼方くんが悲しそうな顔をする。
そんな顔をさせたかったわけではない。
でも、彼の言葉の続きを聞きたくなかった。
聞いてはいけないと思った。
黙っていたら、彼方くんがゆっくりと口を開いた。
「なんで俺の絵を描いてくれたの? 俺のこと……だからじゃ、ないの?」
一番大事なところで、彼の声が震えてしまって聞き取りにくかったことに安堵する。
だから私はわからないふりができた。
わからないふりをしたまま、私は答える。
「彼方くんの、身体が、好きなだけ。跳ぶ時の姿勢が綺麗だと思ったから、描いた。それだけ」
なんとか、笑えた。
頬はまだ冷たかったけれど。
「それだけ」
もう一度くりかえして、私は美術室を飛び出した。
さよなら、彼方くん。
もう会わない。
もう会えない。
絵を見られてしまったから。
もう隠し通せる気がしないから。
だから、もう、会わない。
い
つ
か
き
み
の
空
を
*
次の日も英語の授業があった。
休み時間のあいだは一度も顔をあげず、絶対に彼方くんと目を合わせないようにしていた。
授業が始まって、やっと顔を上げる。
すると、彼方くんと遥の姿が目に入って、ものすごくつらくなった。
しかも、前の黒板の端には、昨日の相合い傘がうっすらと浮かび上がっていた。
ちゃんと消したつもりだったのに、消しきれずに跡が残っているのだ。
文字が読み取れるほどではないからよかったけれど、授業の間じゅう、気になって気になって仕方がなくて、落ち着かなかった。
終わりチャイムと同時にトイレに駆け込んで、次の授業が始まるぎりぎりまで外に出なかった。
「遠子、大丈夫? なんか調子悪そうだけど」
遥が心配そうに訊いてきてくれたけれど、私はなんとか「平気だよ」と返した。
「それより、彼方くんとは、どう?」
そう訊ねると遥が途端に嬉しそうな顔になる。
「昨日、夜にライン送ってみたら、ちゃんと返事もらえた。五回くらいやりとりして、おやすみって終わったの」
「そうなんだ。すごい進展だね、やったね」
白々しくないか心配だったけれど、嬉しそうな遥には気づかれなくて済んだ。
このままうまくいけばいいのに、と思った。
そしたら私は変な期待なんかしなくてすむから、そのほうがずっと楽だと思った。
そういうふうにして彼方くんを避けて、遥を励ましているうちに、文化祭当日になった。
二人はラインのやりとりをして、待ち合わせ場所も時間もきちんと決めてあった。
「今日はよろしくお願いします」
彼方くんと遥が少し緊張した様子でかたい挨拶をするのを、もう一人の男子の長谷くんと私は笑いながら見ていた。
「なんか初々しくて微笑ましいなあ」
長谷くんがくすりと笑いながら私に話しかけてくる。
彼方くんの親友というだけあって、落ち着いた感じの大人っぽい男の子だ。
「本当、そうだね」
私も彼と同じような表情を意識して浮かべて、遥の良い友達を演じた。
心の中では、やっぱり複雑な気持ちを抱えながら。
忘れよう忘れようとしているのに、どうしてもうまくいかなくて、
私はやっぱり彼方くんのことばかり気にしてしまう。
彼方くんと遥、長谷くんと私というペア二組の形で、クラス展示を回ったり、ステージ発表を見に行ったりした。
華やかに飾りつけられた校内の様子や、みんなのテンションの高さに引きずられたのか、遥はいつになく行動的で、彼方くんにもいつもよりずっと近づいていた。
遥ががんばっているんだから、私も応援しなくちゃ。
そう考えた私は、二人があるクラスの展示に入っていったすきに、長谷くんの手を引いて渡り廊下までやってきた。
「どうしたの、望月さん」
「いや、あのね、遥たちを二人きりにさせてあげたくて」
そう言うと、長谷くんはすぐに私の意図に気づいたようで、にっこりと笑った。
「そっか、そうだよな。じゃあ、俺らは二人で回ろうか」
先に立って歩き出した長谷くんの背中を追いながら、考える。
遥は今日のことについて香奈たちから色々と言われているようだった。
文化祭で男の子と回るときの心得、みたいなものだ。
そしてその話の最後で、香奈がこんなことを言っていた。
『文化祭って非日常で、みんないつもよりも開放的な気分になってるから、チャンスだよ。タイミング見計らって、彼方くんにも告白しちゃえ!』
遥は『まだ早くないかな』と悩んでいたけれど、『そんなことない』と菜々美にも励まされて、告白する決心をしたようだった。
だからきっと今頃、彼女は『告白しよう』とタイミングを見計らっていると思う。
真面目な彼女のことだから、親友たちからのアドバイスを実行しようと必死なはずだ。
遥が告白したら、どうなるかな。
あんなに可愛い女の子に告白されたら、男子なら誰だって嬉しいと思う。
きっと彼方くんは照れながらも告白を受けるだろう。
それでいい。
そうなってくれたら、私も楽になれる。
変な期待をしなくていいし、あれこれ悩まなくてもいいし、遥に対する罪悪感からも解放される。
だから、どうか、うまくいってほしい。
「え……っ、望月さん、なんで泣いてるの?」
長谷くんのおろおろした声で、いきなり現実に引き戻された。
その言葉を聞いてはじめて、泣いてしまっていたことに気がついた。
「ごめん……ちょっと、お腹が痛くて。部活の展示の当番もあるから、そろそろ行くね。じゃ」
早口でまくし立てて別れを告げると、私は逃げるように長谷くんを置いて駆け出した。
すぐ近くにあったトイレに入り、涙が止まるまで個室にこもってから、外に出て旧館に向かった。
このまま美術室に行って、今日はずっとそこにいよう。
そう思っていた。
すると、途中で誰かのか細い泣き声のようなものが聞こえた気がして、私は足を止めた。
きょろきょろとあたりを見回して、近くにあった植木の後ろに人影を見つける。
近くまで行ってみて、遥だと分かった。
見てはいけないものを見てしまった、という気がした。
そのまま踵を返して戻ろうと思った。
なのに、近くの枝に肩が触れてしまって、音を立ててしまった。
弾かれたように顔をあげた遥の、泣きはらした目と目があってしまった。
「……遠子」
「遥……大丈夫?」
遥は小さく笑って、「ふられちゃった」と冗談のように軽く言った。
でも、その顔を見れば、その声を聞けば、かなりのショックを受けていることは分かった。
私は何も言わずに彼女に近づき、隣に寄り添う。
「……最初に入ったお化け屋敷でね、けっこういい感じになったから、今日告白しちゃおうって決めてて」
「うん」
「でも、途中から彼方くん、なんか落ち着かない感じになっちゃって」
「……うん」
「だからね、このままチャンスを逃したくないなって思って、思いきって、好きですって言っちゃったの。付き合ってくださいって」
遥はそこでふうっと息を吐き出した。
「そしたらね、ごめんって。即答。即答だよ、ひどくない?」
遥はまたくすくすと笑う。
でも、今にも泣き出しそうな顔だった。
そして、それを聞いて、それを見て、私は――自分が確かに心のどこかで喜んでいるのを感じた。
彼方くんが遥の告白を断ったことを、嬉しいと、感じている自分の心の動きを感じた、