病院に来るのは二度目だ。
僕の友人はとっくに退院しているから、正真正銘、遠坂深空のお見舞いということになる。
僕が妙にドキドキしていると、渡は受付を素通りして院内を奥に進んでいく。
どうやら、正式な見舞客として記録に残るのを避けているようだ。確かに、あの怖いお兄さんが、渡が来る時間を把握するようになっては嫌だろう。
7階の暗い廊下を進む。今日もひんやりとしている。
渡が深空の病室前で立ち止まった。
からりと引き戸を開けると、先日と同じように、中央のベッドに彼女は寝ていた。
渡に続いて一歩部屋に入る。
エアコンの風は弱く、室内は涼しいというよりぬるい。
渡がベッドサイドに立った。僕はおずおずと横に並び、彼女を見下ろした。
ダークブラウンの髪は柔らかくシーツに散り、伏せられたまつ毛は細くびっしりと生えている。
近くで見ると、やはり眠り姫は綺麗だった。モデルや女優のような美しさとは違う。人形というのでもない。生と死の狭間で眠る静けさがことさら彼女を美しく見せるのかもしれない。
また会えたね。
そんな気持ちになる。
次の瞬間、自分の気持ち悪い思考に顔を隠したくなった。
恥ずかしい。話したこともない友人の姉の顔が見たくてついてきたなんて。
そして彼女に心の中で話しかけたなんて。
目の前の遠坂深空は口元に呼吸器をつけ、眠っている。
僕は耳を澄ませた。
どこからかあの少女の声が降ってくるのではないか。
もし、そうなら、僕に呼びかけていたのは彼女ということになる。眠り続ける深空が僕にだけ聞こえる声で渡を呼んでいるのだとしたら。
結局、何事も起こらず、僕はかすかに落胆した。
考えてみたら、彼女と僕に接点はない。彼女が僕を選んで、ファンタジーな力を使って話しかける理由はないのだ。
自意識過剰だ。やっぱり、僕は疲れて幻聴を聞いていたんだろうか。
僕がひとりで色々と考えを巡らせている間、渡は黙って深空の顔を見つめていた。
ものすごく静かに。
唇は彼女の名前を形作ろうとして、きゅっと結ばれてしまう。
渡は何度、こんな時間を過ごしてきたのだろう。
「渡、花瓶に花を活けてくるわ」
窓際のチェストに置かれた空の花瓶を手にする。
なんとなく、渡と彼女をふたりきりにしてあげたい気持ちになった。
近くのトイレで水を汲む。渡の無表情が浮かんだ。
彼女の名前を呼びたいはずなのに、音を発さなかった唇。鳶色の瞳の奥に見えるどうにもならない苦痛。
もしかすると、渡は……義姉のことが好きなのだろうか。
有り得ない話ではない。義理の関係は結婚ができるのだ。
すんと胸が空いたような感覚がした。
これはなんだろう。
渡はお義姉さんが好き。
別にいいじゃないか。僕は遠坂深空に横恋慕しているわけじゃない。断じて違う。そのはずだ。
妙な気分のまま病室に戻ると、廊下の前に女性が立っていた。
中に入ろうとして躊躇しているように見える。小柄な中年の女性だ。
僕が近づいたことに気づいた彼女が弾かれたようにこちらを見た。
僕の目的地が彼女の目の前のドアだと気付いたみたいだ。
「あの……渡のお友達ですか?」
どうやら、中に渡がいることは知っている様子だ。いや、『渡』と呼んだぞ。この人。
「私、渡と深空の母です」
「あ、ああ、そうなんですか」
驚いて声をあげそうになるのを飲み込む。渡の母親。家族には会わないと見込んできたというのに、早速会ってしまった。
「僕は白井といいます。今日は渡くんとお義姉さんのお見舞いに……」
「私は帰ります」
食い気味に言われ、僕は面食らう。もっと面食らったのは彼女が僕に近づいてきたことだ。
鞄から文庫本を取り出し、中表紙を破り取る。そこに走り書きされたのは携帯電話の番号。
「お願いです。渡のことをお伺いしたいんです。白井さん、どうかお時間をいただけませんか?」
「え?」
「お願いします!この番号に電話してください。私の携帯電話です。渡の話を聞かせてください」
必死の嘆願に、僕は気圧されながら頷いた。
「渡には私がいたことは黙っておいてください。どうか、ご連絡をお願いします」
丁寧に頭を下げると、渡の母親と名乗る女性は病室に立ち寄ることなく、足早に去って行ってしまった。
からりと引き戸を開けるとゆるゆると渡が顔をあげた。
頼りない表情をしていた。たった今、廊下で行われたやりとりは聞こえていない様子だ。
「渡?」
「ああ、うん。花、ありがとう」
僕は渡に言わなかった。母親が来ていたこと。
僕らは少しだけ深空の横で喋り、病室を後にした。
僕らの声は彼女の脳の奥まで響いただろうか。
もらった携帯電話の番号を見て、僕は当然ながら随分悩んだ。
渡には母親と会ったことを、まだ言っていない。言ってはいけないことだと思う。
彼の母親は、あくまでこっそり僕から渡のことを聞きたいのだろう。
本当に何があって、こんな風に断絶しているんだろう。
一人息子でのんびり育てられた僕にはわからないことばかりだ。
無神経に一歩踏み込んではいけないことはもうわかっている。
誰もが僕と同じ価値観ではないのだから。
結局、僕は黙ってその電話番号を見つめる時間に耐え兼ねて、翌日には渡の母親に電話をかけた。
昨日会った渡の友人である。お会いすることはできるけれど、僕は彼についてたいしたことはお話できないかもしれない。
彼の母親はそれでもいいから会いたいと言ってきた。
翌週の講義がない午後、僕は渡の母親と待ち合わせた池袋に向かった。
デパートのレストランフロアで昼下がりに会った僕らは、落ち着いて話ができそうな洋食屋でケーキセットを頼む。
「急にお呼びたてして申し訳ありません」
年上の女性に頭を下げられたことがない僕は、渡の母にお辞儀をされ、慌てた。
「いえ、本当に。僕でお役に立てるかわかりません」
「いいんです。渡が家を出て一年ほどになりますが、私も夫も、あの子がどんなふうに暮らしているか、まったくわからないものですから」
彼女は後ろめたいことがあるでもないのに、目をそらしうつむいていた。
僕は言葉を選んで話し始めた。
渡とは図書館で出会って、僕から友人になりたがったこと。
彼は近代文学を好んで読んでいること。コンビニでアルバイトをしていて、接客はきちんとこなしていること。食事は面倒くさいと抜いてしまうけれど、僕と一緒だと結構食べること。
遊びに不慣れだから、妙な仲間はいないこと。
お義姉さんのお見舞いに行きたいのに、遠慮してなかなか行けていないこと。
ゆっくりと、それでも僕が経験した彼との日々を説明していくと、彼の母親は相槌をうち、時に切なげに瞳を眇めて話を聞いていた。
話し終えてまず感じたのは、『こんなにたくさんのことを喋ってしまってよかったのだろうか』ということだ。
僕は渡と両親の断絶の理由を知らない。そこに義姉の深空が関わっていたとしても、詳細は聞いていない。
もし、目の前にいる渡の母親だって、渡を心配しているように見せ、心の内では彼を憎んでいたらどうしよう。
僕が明け渡した情報は、よくない作用を生まないだろうか。
渡の母はほおっと嘆息した。
それから、手付かずだったケーキにフォークを入れる。僕もならってフォークを持ち上げた。
ふたり無言でケーキを食べるその空間はちょっと不思議な感じだった。
気まずくてお皿とコーヒーカップばかりを見ていた僕は、ずるっという鼻をすする音で驚いて顔をあげた。
見れば、渡の母親は、ケーキを食べながらぽろぽろと涙をこぼしている。
「あの……お母さん……」
僕はどうしたらいいかわからなくて、ハンカチを差し出すことすら頭に浮かばず、おろおろとする。
すると、渡の母は両手で顔を覆うと、ぐいぐいと素手で顔を拭う。
お化粧とか気にしなくていいのだろうか、と僕は見当違いな心配をしてしまうほどだ。
「白井さん、ごめんなさいね。なんだか、渡が元気で暮らしていると聞いたら止まらなくなってしまって」
渡の母はくしゃくしゃの泣き笑いを見せる。
僕はまだどう反応したらいいかわからなくて、困惑の顔で渡の母を見つめ返した。
「あの子を追い詰めたのは私なんです」
自嘲気味に言われる言葉に返答に詰まる。しかし渡の母はそれ以上を語らなかった。
「渡は他人と打ち解けるのが苦手ですが、白井さんとは楽しく過ごせているのですね」
「僕なんか、何もしてません。普通に、友達してるだけで……」
「渡をよろしくお願いします」
あらためて頭を下げられ、僕はこの人に渡のことを話してよかったのだと思い直した。
渡の母親とは何かあったら連絡を取り合う約束をして別れた。
渡がたまに見舞いに来ていたことは気付いていたようだ。渡がいた痕跡を啓治というあの男性が見ないように片付けておくのは、母である彼女の仕事だった。
僕は何となく味方を得たような気持ちで帰路に着いた。
今日のことはやはり、渡に言うべきではない。
僕の胸にしまっておこう。
―――――ありがとう。
山手線に乗ってすぐに背後から声が聞こえた。
電車は混んでいたけれど、僕にはそれが彼女の声だとわかったし、妙にすんなりと受け入れた。
「どういたしまして」
誰にも聞こえない声で返した。彼女の声が僕に向かって発されたのは、これが初めてだった。
*
七月も末になり、僕のテストも今日で終わりというある日、僕たちは映画を見に行く予定だった。
話題作のレイトショーのチケットをバイト先でもらった渡が僕を誘ったのだ。
あの夏は話題作と呼ばれる映画がいくつもあって、僕と渡も何本かは見たのはずなのだけれど、どれもさっぱり印象にない。覚えているのは渡と映画に行ったという事実だけだ。
夕方に駅前で待ちあわせた。
僕は学校でテストを受けた帰りで、教科書を満載した重たいバッグをかついでロータリーのバス停で待つ。
コンビニでバイトを終えた渡はすぐにやってきた。
映画の前に何か腹に入れておこうと、二人でラーメンを食べに行った。
街はラーメン激戦区で、美味いラーメン屋がいくつもある。
僕は定番のしょうゆ味が好きだけど、渡はやたら脂っぽく匂いのきついとんこつラーメン屋が好き。この日もそこに付き合わされ、僕は全身とんこつ臭くなって店を出た。帰ってシャワーを浴びるまでこの匂いなんだろうなと思うと、うんざりしたけれど、渡がちょうどいい提案をしてくる。
「一度うちに戻っていい?」
「なんで」
「雨降るって、ここの店員が。洗濯物がベランダに干しっ放し」
バイト先の制服の洗い替えが干されているらしい。確かに見上げた空は西側にくもがかかっている。
「じゃ、シャワー貸して。僕はこの匂いを一刻も早く取りたい」
映画までまだ時間がある。自宅にも寄れる距離だったけれど、腹がいっぱいでこのままでは映画館で熟睡してしまうだろうから、渡に同行するのは良い腹ごなしにもなりそうだ。
服の匂いはスプレーの消臭剤でごまかそう。渡の部屋にあったはずだ。
曇った夕刻は、ひどく蒸し暑い。
もう真夏なのだと痛感する。僕の故郷よりこの街は熱い。
ひとり暮らし初めての夏はとっくに始まっている。
横に夏を過ごす友人がいてよかったなと思う。もちろん、彼女だったら尚可ではあったんだけれど。
歩きながらふと気づいた。
渡がぶつぶつ何かを口ずさんでいる。よく聞くと歌のようだった。
「何歌ってんの?」
歌の判別がつかないので聞いてみる。下手とかではなく、あんまり小さい声なのでわからなかったのだ。
どうやら無意識だったらしい。渡は自分が歌っていたことに気づき、まず赤面した。
カッコつける暇もない赤い顔に、僕は笑いを堪えるのに必死になる。
駄目だ、笑うな。耐えろ。
笑ったらこのひねくれ男はすぐに自分の殻にこもっちゃうぞ。
「いや、さぁ。なんかこの前聞いていいなぁって思った歌に似てたからさ」
「曲名は知らない……コンビニでよくかかってるから」
自然に覚えちゃったんだ。そう言い訳して、渡はうつむいた。
いいじゃないか、歌ったって。そう言ってやろうかと思って、僕は言い方を考えた。
うまい振りがわからないので、流行っている曲名をいくつかあげてみる。
「だから、曲名じゃわかんねーって」
渡がぶすくれた顔をして、仕方なさそうに今度はもう少し声を張って歌ってくれた。
渡の声。カラオケというものに行かなかったので初めて聞いたけれど、よく透る良い声だった。
「あー、知ってる!この前、深夜の音楽番組で見た!」
曲はすぐにわかった。その頃流行っていた邦楽で、歌っていたミュージシャンの出世作だ。
意外だった。渡が流行りものを好むなんて。
「よくねぇ?なんか、疾走感あって」
「うん、わかる。でも、渡にしては明るい曲を選ぶねぇ」
僕の言葉に渡が顔をしかめる。
「俺にしてはってなんだよ。暗いヤツって言いたそうだな」
「渡って見た目軽そうな今どきの若者って感じするけど、中身は硬派じゃん。流行りものにはのりませんって感じの」
硬派という言葉は割と彼にはいい褒め言葉だったみたいだ。
渡はにまっと緩んだ唇をきゅうっと結び直し、髪をかきあげた。
「別に。いいもんはいいって言うだろ」
「うん、そだね。あ、待って待って」
僕は鞄の中からMDウォークマンを引っ張りだした。
携帯で音楽を聞いたりするのはもう何年か先の話で、僕の青春時代はこのMDウォークマンやCDウォークマンが携帯できる音楽の主流だった。
本体に巻き付けたコードをはずし、片方のイヤホンを渡の耳に押し込む。
もう片方を自分の左耳につける。スイッチをオンにして少しすると件の曲が流れ出す。
「そうそう、この曲」
渡が喜々として言う。