渡がベッドの横に寄り添うように立っていた。
その顔を見て、僕は一瞬にして浮かれた気持ちが吹っ飛んだ。

肝が冷えた。
渡はぞっとするほど何もない表情をしていた。空っぽの表情……それ以外に形容ができない。

見てはいけない光景だったのだ。
僕は少女に見とれておきながら、渡の後をつけたことをようやく後悔する。
渡の内側を覗いてしまった。それは暗く深いがらんどうだ。

「何か御用ですか」

不意に背後から声をかけられ、死んでしまうかと思うほど驚いた。

振り向くとそこには背の高い男が立っていた。
僕は178センチの身長があるけれど、その男は悠に10センチは高いように見え、がっしりとした頑健な骨格をしている。
年の頃は20代後半だろうか。彫の深い顔立ちを険しく歪め、僕を怪しんでいることは明らかだ。

何も答えられずにいると、彼は僕を頭から足までじろじろと眺め、結局何も言わずに僕を除けてドアを開けた。

僕はすでに罪悪感で胸をいっぱいにしていたので、それ以上はろくに動くこともできず木偶のように立ち尽くす。男がドアを開け、顔色をなくすのを真横で見ていた。

「なにやってんだ!貴様!」

男の割れんばかりの怒声が響いた。
渡が弾かれたように振り返る。

渡の目には、僕と僕の横にいる体格のいい男がいっぺんに映ったことだろう。

渡は僕らを交互に見て、さっと顔色を変えた。
唇が何か言いかけて、言葉にならずに結ばれる。

すると、横の男が動いた。
ずかずかと病室に入って行き、渡のシャツの襟首をつかむと、片手で釣り上げたのだ。
驚いたのは僕の方で、慌てて病室に飛び込むと、男の手に飛びついた。

「やめてください!暴力はいけないです!」

必死だった。
男の形相が渡を確実に害すであろうことを語っていたからだ。

驚いた様子の男が、僕を見やる。
拘束が緩んだのかもしれない。渡が男の腕を振り払った。

険しい表情の渡は顔を伏せ、逃げるように早足で病室を出ていった。
僕の横を通り過ぎる時、ちらりとこちらを見たけれど何も言わなかった。

「この人殺し!クズ野郎が!」

男は廊下に飛び出してがなった。
振り返らない渡の背中に狂ったように罵声を浴びせる。

「今度ここへ薄汚い面を見せてみろ!その時は俺がおまえを殺してやる!」

僕は病室に侵入した格好で取り残されていた。
渡を追わなければ。慌てて廊下へ走り出ると、追いかけてきた男にいきなり肩をつかまれた。
おののいて自分より上にある男の顔を見上げる。

「きみは渡の友達か?」

僕はかすかに頷いた。
男の向こうにベッドが見える。綺麗な女の子は静かに静かに時を止めている。

僕を覗き込んだ男は、ほんの数秒前まで怒りをぶちまけていたとは思えないほど落ち着いていて、穏やかな調子で言った。

「悪いことは言わない。遠坂渡と付き合うのはやめなさい」

その様子は紳士的でいっそ友好的ですらあった。僕は大人の男に整然と言われたことに圧倒された。
何も言えずにいるうちに男は病室のドアをたてきった。僕はまた廊下に一人になる。

エレベーターでロビーに降りる。
階段や玄関、駅までの道を探したけれど、すでに渡はどこにもいなかった。









それから2日経った雨の夜、僕は渡に会いに行った。

あがりの時間にあわせて、深夜にバイト先のコンビニに入ると、渡は青い制服を着てまだ仕事中だった。
傘をたたんで入ってきた僕を見て、表情こそ変えなかったけれど、内心はさぞ困惑していただろう。

15分ほど店内で待った。
渡は着替えて、ごく当たり前のように雑誌を読んでいた僕の横にやってきた。
逃げることも避けることもできたのに、しなかった。

僕たちは雨の中を無言で歩く。
どこへ行くとも約束はなく、7月だけど気温の低い夜で次第に身体が冷えてきた。
近くのファミリーレストランに入り、焙煎のきついコーヒーを飲む。

「ごめん」

僕が思い切って謝罪を口にすると、渡は心底不思議そうに答える。

「何が?」

「色々とだけど、一番は渡のことを病院で見つけて、後をつけたこと」

渡はずっと僕と目を合わせない。コーヒーを口元に運ぶと、飲まずにカップを下ろしてしまう。

「謝るのは俺の方だと思わない?」

「へぇ?」

「おまえの首絞めて、ぶっ殺そうとしたの、俺だよ」

僕は思い出したように、バッグから文庫本を取り出した。
あの晩、渡に貸すつもりで、渡が飛び出して行ってしまったため貸しそびれていたものだ。

「幸い、死んでない。あとこれ、忘れてっただろ。あらためて貸す」

「おまえ、ホント話の流れ意味不明だよな。マイペース過ぎるだろ」

渡が毒気を抜かれたように弱々しく笑った。
ああ、鍵が開いたかも。
僕は渡のことを真っ直ぐ見つめた。

「喧嘩は僕が無神経だったし、病院は本当に悪かった。ごめん。これでおあいこってことに……なるかな」

「さあ、なるんじゃねぇ?」

渡は謝らなかったし怒らなかった。何にしてもすべてもう済んだこと、といった顔をして、僕の差し出した本を制服が覗くトートバッグにしまう。

ウェイトレスがコーヒーのお替りを注ぎ行ってしまうと、ようやく渡は口を開いた。

「あねなんだ」

「あね?」

よく意味が通じず聞き返す。渡はもう一度丁寧に答えた。

「俺の義理の姉なんだ。あそこにいたのは」

あそこ……病院で眠っていたのは渡の義姉なのか。

僕は頷いた。
そして、それきり何も言わなかった。渡もだ。

店内は明るく騒がしかったけれど、僕らの耳に喧騒は聞こえない。
ただ、窓の外を眺めて雨音を聞いていた。









コーヒーを飲んだ雨の夜以来、僕と渡の交友は元に戻った。
むしろ前より少しだけ、距離が近付いたかもしれない。
渡は相変わらずうちにやってきては本ばかり読んでいたし、僕はテスト期間が始まり、渡が来ても勉強ばかりしていた。
マイペースで過ごす空間は居心地よく、僕は渡が以前よりリラックスして過ごしていることを感じていた。

とはいえ、結局のところ渡のことはほとんど知らないままだった。
病院に義理の姉がいること、彼を「人殺し」と罵った男のこと。彼が複雑な何かに絡めとられているのは察せられたけれど、それ以上追求はできなかった。病院でつけてしまった件もあるし、渡が話す気がない以上、僕は聞かないほうがいいのかもしれない。

この頃、僕は初めて渡の家に行った。
木造のおんぼろアパートで駅から20分も歩かなければならない。利点があるとすれば、近くに美味い定食屋とラーメン屋があるくらい。これらを利用するため、渡の家にはよく行った。定食屋で夕飯を済ませた後は、たいてい何にもない渡の部屋でだらだらと喋ったり本を読んだりして帰った。

外に出ることも増え、僕たちは映画を見たりビリヤードをしたり、二人の手持ちの額に相応しい遊びを楽しんだ。
田舎産まれの僕に、街は大遊技場だった。
なんでもあったし、見るものすべてが新しく楽しく思えた。
渡は東京の生まれだったけれど、僕と一緒になってひとつひとつの経験を楽しんだ。どちらかといえば、渡の方が世間やそこでの遊び方を知らなかったかもしれない。彼は外見こそは当世風な若者スタイルで、様々な経験をすでに一通りさらったように見えた。しかし実際は、カラオケもボーリングも行ったことがなく、ビリヤードはキューの持ち方すら知らなかった。
僕たちは課題に挑むみたいに、少しずつ遊びをこなしていった。

行きつけの図書館は、前ほど頻繁ではないにしても利用していた。僕がテスト勉強やレポートを始めると、たいてい渡は向かいで本を読んでいた。
文庫やら雑誌やら図鑑やらを眺め、飽きると僕にちょっかいを出してくる。レポート用紙の隅に落書きをしたり、テキストをめくって「こんなのわかるのか?」と馬鹿にする。

「わからなくてもやるんだよ」

僕がそう答えると、「学生は不憫だなァ」と嘲笑が返ってきた。
そんなに言うなら見せてやろう。
ある時、僕はふと思い立って言った。

「明日、僕と大学の講義に出ようよ」

「え、やだよ」

即答された。僕はめげずに言い募る。

「学生の不憫さを思い知らせてやる。90分座ってるだけで、結構だるいから。試してみろ」

「いやだって。そもそも大学ってそんなに簡単に紛れ込めるもんなのかよ」

「うん、割と」

今はどうか知らないけれど、当時の大学は結構ゆるかった。出席カードを出すだけの講義がほとんどで、聴講生が紛れていても誰も気にしないし、気付かない。

「それにさ、渡が将来大学に行きたいって思ったとき、どんなところか見ておくのはいいんじゃない?」

渡が一転、表情を変えた。もともと陰気な表情をさらに暗い笑みに歪める。

「行かねえ、大学なんて」

「お金の問題なら、奨学金もあるし」

「そういう問題じゃなくて。行ってどうするんだって話」
「好きな勉強できるよ。渡なら文学部なんてどうだよ。今読んでる近代文学を専攻してさ」

「意味ない」

また、そういう影のある男アピール!僕は苛々と言う。

「じゃー、特に意味のない社会科見学的な感じでついてきたら?うちの学食、うまいよ。おごるよ」

「学食は興味ある」

よし、釣れた。だんだん渡の操縦法がわかってきた気がする。


翌日、僕は渡と通学用のバスに乗り、バスで15分の大学に到着した。
夕方からバイトだという渡のために一限の授業に合わせてやってきた。一般教養の英語の授業。これなら、学校の延長だし、まだマシかなと思ったのだ。そもそもテストが始まっているクラスも多く選べなかったのだけど。
小さい教室なので、大学らしい階段状の大講義室ではないのも残念だ。せっかくだから、それらしい雰囲気を出したかったのに。

「白井、おはよー」

「今日サークル出る?」

サークルが一緒の友人が声をかけてくると、渡の表情が緊張するのがわかった。人見知りだもんな、こいつ。僕は渡を背に庇うように立つと、答えた。

「おはよ。今日は用あるから駄目だ。先輩に言っといて」

「最近、付き合いわりーぞー」

「ごめんごめん。単位やばいからさ」

友人が行ってしまうと、僕は渡に振り向いた。

「付き合いの悪い白井くん……」

渡が皮肉げに顔を歪めて笑う。大方、『俺なんかと遊んでばっかりいるからだ』と卑屈に思っているんだろうな。

「まあ、渡と遊んだ方が楽しいしね」

僕の答えに渡がぶすっと眉間に皺を寄せる。
たぶん、照れている。突っ込めば怒るだろうから知らん顔しておくけれど。

「知らないとこだろうけど、緊張しないでいいって。誰も渡のこと気にしてないから」

「してないし、緊張とか」

真顔で強がる渡がおかしくて、僕は笑いを噛み殺した。笑っても、たぶん渡は怒る。

英語の講義は高校の延長くらい簡単な内容で、僕は渡との真ん中にテキストを置き、適当に板書を写したり、携帯をいじったりしていた。意外にも渡は真剣に講義を聞いている。それっぽく見えるようにと、ノートは置いてみたけれど、シャープペンシルを持たせたらそのまま板書を書き写しそうだ。
講義の間中、渡は身じろぎひとつせずに、集中して聞いていた。

「楽しかった」

90分の講義を終え、約束どおり学食で早めの昼食を摂っていると、渡が感想を言う。
ミックスフライ定食に箸もつけずに、ぼんやりしている。滅多にない体験の余韻に浸っているみたいだ。

「え?ああ、ホント?それならいいんだけど」

最初の予想だと、椅子が固くて尻が痛くなったとか、退屈だったとか言われると思ったのに。僕は面食らった。

「文法的にはこうだけど、ネイティブはこう、スラングだとこう……みたいなこと言ってたじゃん。ああいうことも教えてくれるんだ」

「まあ、教授にも寄ると思うけど、結構どの教授も無駄話は入れてくるよね」

「そっかぁ」

渡は子どもじみた表情で、素直に感心している。
渡は高校を中退したと言っていた。どういった経緯でかはわからない。でも渡には知りたいという欲求がある。無心に本を読み続けるのも、知りたいという欲求の現れだ。

学ぶ機会を途中で失った渡だからこそ、きっと僕ら大学生なんかより、ずっと学びたいのかもしれない。
途端にチャラチャラと遊んでばかりの大学生活が申し訳なくなった。学費を出してくれている両親にも、目の前の渡にも。

「渡、やっぱり大検とってさ、来年受験を考えたら?」

僕は親切心というかお節介心を出して提案してみる。渡は案の定、片目だけすがめた呆れ顔で答えた。

「やだよ、意味ねぇもん」

意味はある。渡はもっと学べる。だけど、渡自身が意味を見いだせないなら僕が無理強いはできない。

「まあ、気が変わったら言ってよ。受験勉強、付き合うよ」







僕の心にはあることが引っかかっていた。
渡と仲良くなればなるほど、彼のバックグラウンドの不明瞭さに興味がいく。

詮索はしたくないと思いつつ、先日楽しそうに大学を覗いていた渡を思うと、もう少し彼の生活は変革ができるのではないかと思うのだ。お節介精神だと自覚はある。渡は喜ばない。でも、彼が親元から離れ、アルバイト生活をする理由が、僕にはまったく見えなかった。ただなんとなく一人暮らしをしたかった若者ではない。家族と居づらい理由があって、この生活に逃げているのだとしたら……。

「あのさぁ、おまえのお姉さんに会いに行かない?」

その日は、ふたりとも特に予定がなく、夜に僕の部屋にいた。何を言うつもりもなかったのに、気付けば僕はそんなことを言っていた。
僕の頭には、一度だけ見たベッドの上の少女が浮かんでいた。
この世のものとは思えない静けさを持った渡の義姉は、海底の遺跡で眠っている。