「なに、星も詳しいの?おまえ」
「人並程度しか知らないよ。ほら、あれがおとめ座のスピカ、その上がうしかい座のアルクトゥルス」
「いや、全然わからない。人並みの基準もわからない」
「北斗七星から探すとわかりやすいんだよ」
星は僕の母が好きだった。小さな頃から神話を読んでもらったり、星の見つけ方を習ったものだ。うちの田舎に行けば、もっと見えると言うと、渡はふうんと気のない返事をした。
「俺は、東京の空しか知らないな。この空よりもう少し星が少ない」
「渡の実家って東京なんだ。どこ?」
何の気なしに聞いたことで、渡の表情が曇ったのを僕はちゃんと見ていた。だから、まずいことを聞いたかと思いながら、じっと答えを待った。
「……練馬区」
「そうなんだ」
実家の話はやめとこうかな。渡の言葉の重たさにそう決める。それにしたって、ここから一時間少々で練馬区あたりにはいけるんじゃなかろうか。どうして渡はこの街でひとり暮らしをしているのだろう。
「なあ、恒」
渡が僕の名を呼んだ。
「どうして俺のこと構うの?」
「構うって……」
「大学に友達いっぱいいるんだろ?文学の話がしたいからって、見ず知らずの男に声かけるか?俺、おまえのそういうところが理解不能」
「見ず知らずじゃないじゃん。図書館で会ってるじゃん」
渡が呆れたようにため息をついた。
そういうことじゃないんだよ、なんて口の中で呟くのが聞こえる。
「たぶん、俺、おまえが思うようなヤツじゃないよ」
僕が思うようなヤツっていうのは何者だろう。渡は何を遠回しに言いたいのだろう。
「僕は、渡と気が合いそうだから声かけただけだし。そこまで依存心ないつもりだから、おまえがどんなヤツでもいいけど」
「……とんでもないヤツだったらどうするんだよ」
「はぁ?」
「……犯罪おこして、逃げてるとか」
僕は眉をしかめて、怪訝な顔で彼を見た。口はたぶんへの字になっている。
「えーと、逃亡犯なの?」
「いや、違うけど。言葉のアヤだけど」
「じゃ、問題なくない?」
僕は答えて、空を見上げた。春から夏に移り変わる空はどちらの星も見える。
デネブ、ベガ、アルタイル。夏の大三角形は空の端っこに昇ってきている。
僕は本当に渡が何者でもよかった。
こんな不愛想な男なのに、微妙に『近づくな』オーラを出してるのに、気になるヤツなのだ。
せっかく仲良くなれたんだから、この友情を続けて行きたい。
「秋にさ、しし座流星群がくるらしいよ」
僕が言うと渡は食べ終わったケーキのパックを片付けながら問い返す。
「流れ星がたくさん降るってこと?地球終わるの?」
「地球にはぶつからないけど、今年はかなりの数が見られるみたいだよ。ほら、花火やるでかい公園あるじゃん。そこに見に行こうよ」
「秋のことなんかわかんねえし」
馬鹿にしたようにひっそり笑うけれど、それは僕ではなく自分に対してバカバカしいと思っているみたいに聞こえた。
「えー、その頃、渡はどこかに引っ越す予定?」
「違うけど」
「それなら、いいじゃん。約束はタダだよ」
すると、その時、僕の耳に不思議な声が聞こえた。
―――――そうだよ。ね、行こう?
その声は軽やかな女の子の声だった。
渡の向こうから聞こえたように思う。
僕は渡の隣に人影を探したが誰もいない。
今のは一体。
空耳にしては、はっきりと聞こえた。
「渡、今、何か聞こえなかった?」
「は?」
「女の子の声みたいな……」
「星の次は怪談やりたいのかよ。おまえ、本当に意味不明」
「いや、そうじゃなくてさ」
渡には聞こえなかったみたいだ。なんだろうと思った。
幽霊なんか信じる柄じゃなかった僕は、聞こえてきた声を気のせいだと思うことにした。何かの聞き間違いだろう。
しかし、鈴を振るような声は、いつまでも僕の鼓膜を震わせていた。
僕と渡が少々の友情を育みだしたのは、こういう経緯。
知り合って、ひと月半。相変わらず僕と渡は週に一・二回、本を貸し借りする仲だ。
図書館で顔を合わせれば、片手をあげて、同じテーブルにつく程度の。
僕の好む、いわゆる文学トークも渋々ながら応じてくれることもあり、互いに一人暮らしなので、渡は僕の部屋に遊びにくるようにもなっていた。
大学の友人と遊ぶより、渡といる方がラクだった。
渡は口数が少なく、いつも猫背で、僕ともろくに目を合わせない。目立つ薄茶の髪も色味の薄い虹彩も天然だそうで、本人は目立たないように黒くしたいと言っていた。
ひたすら地味に影の人生を望む渡は、若い僕にはちょっと格好良く見えた。
本当にちょっとだけ。
ほとんどは『もう少し、愛想よくしろよ』とか『斜に構えてんじゃないよ、中二病か』とか思っていたんだけどね。実際、口にも出していたし。
渡は『格好なんかつけてないし、俺はこれでいい』なんて、不貞腐れていたっけ。
ともかく、その日も渡は僕の部屋にやってきていた。
バイトが終わり、22時過ぎだったと思う。いつも通り貸す本を用意して、腹が減っているだろうと焼うどんを作って出してやる僕は、本当にいい友人だと自画自賛できそうなものだった。
「なにこれ」
「焼うどん」
「くそまずそう」
確かに具材はもやしとかまぼこだけだし、ちょっと醤油のタイミングが早くてうどんの一部が焦げていた。しかしくそまずそうと言われるほどではないんじゃないか?
渡は万事その調子で、いつだって文句のひとつふたつは出てくる。僕もこの頃には結構慣れてきていたので、応戦する。
「文句があるなら、あげませんよ」
「文句じゃないし、食べるし」
「いただきますが聞こえませんよ?」
僕の言うことを無視して、渡は箸を取った。
渡が食べ終わるまで、僕は炭酸飲料を片手にバラエティ番組を見ていた。
いつも通りどちらもあまり喋らない。蒸し暑い夜で、僕は窓を開けた。柔らかで気持ちの良い夜風が勢いよく吹き込んでくる。
当時僕の部屋にある気の利いたものは一組のテーブルで、パイン材のそれはなかなか丈夫で温かみのある色をしていた。
僕らは大抵そこに向かい合ってつき、テーブルの両側にいて、互いに好きなことをしていた。
食後、渡は早速僕の貸した有島武郎の『生まれ出づる悩み』を読みだす。
途中何度か手を止めては、僕にわからない漢字を聞いてくる。こういう素直な態度をいつもとればいいのにと思うけれど、口にするとまた怒るので言わないでおく僕だ。
バラエティ番組は、ロケ中心の番組でタレントが街に出て話題のお店に行ってみたり、一般人と絡んでみたりしている。
今日の場所は練馬区光が丘だ。
ふと、僕は思い出して問うた。
「練馬区だって、渡んちはこのへん?」
渡が顔をあげた。眉間に皺が寄っていたので、この話題が嫌なのはすぐに思い出した。
渡は、家族と仲が悪いのかもしれない。それで、家を出たのかもしれない。
しかし、渡と仲良くなってきている自負のある僕は、今日はもう一歩踏み込んでみようかと悪戯心をだした。
「兄弟とかいるの?渡のそういう話、聞いたことないよな」
渡は答えない。
「僕は一人っ子なんだけどさ。兄弟がいればよかったなぁって思うよ。渡は?兄ちゃんとかいそうに見えるけど」
もう一度、渡を見る。彼はひどく神経質な表情になっていた。
僕はぎょっとしたけれど、勢いがついているせいか続けた。
「なんで一人暮らししてんの?親御さん寂しいんじゃない?」
渡は低い声で答えた。
「おまえには関係ない」
今までに聞いたことのないくらい低くてドスの利いた声だった。
「その言い方はないんじゃないか」
正直に言えば、渡にすごまれたことが心外だった。たいしたことを聞いていないじゃないか。声が少し大きくなる。
「つーか、秘密主義か何か知らないけど、家族のこと明かせないってなんだよ。ちょっとカッコつけすぎなんじゃないの?」
「黙れよ」
「おまえは親のこと大事とか思わないの?」
その言葉をきっかけに、渡が立ち上がった。
僕はまだ自分の失敗に気がつかずそれを眺めていたけれど、急に渡に肩をつかまれ驚いて顔を上げた。
見れば渡は鬼の形相で僕を睨んでいる。
「おまえみたいな……」
渡の声は一度噛みしめた歯の軋みで中断する。必死に怒り抑えようとしている様子だ。
「金持ちの馬鹿大学生に、俺のこと知る権利なんかねぇんだよ」
「ちょっと聞いただけで、棘だすなって。ヤマアラシか、おまえ。面倒くさいな」
茶化してみようかと思うけれど、渡はぎりぎりと歯を噛みしめている。瞳は燃えるような炎を灯し、僕を射る。
「面倒くせぇなら、俺になんか構うなよ……っ!」
怯むも挑むも決め兼ねているうちに、渡の手が僕の首にかけられた。
そして次の瞬間、彼は僕を両手で締め上げた。
テーブル越しとは思えない力だった。
僕は一瞬固まった後、仰天し必死でもがき始めた。
首に力を込めたが、渡の指は首の筋肉を縫って、気管や動脈を締め付ける。手を外そうと腕に爪を立て応戦したが、その手はびくともしない。
僕と渡の背格好はほとんど変わらない。どちらかといえば僕の方が、多少上背があった。
しかし激昂した渡には敵わなかった。この尋常じゃない力はどこからきているというのか。
ともかく僕は死に物狂いでもがいた。
唇から、かはと息が漏れ、それ以上空気を吸えないことに恐怖が湧いてくる。
ぼおおという妙な耳鳴りが聞こえだした。
視界がちかちかと危険信号のように色を変え、机に乗り、見下ろしてくる渡の顔が霞んだ。
殺されるかもしれない。
渡にこのまま殺されるかもしれない。
すると、僕の耳に怒鳴り声のような甲高い叫びが聞こえた。
――――――渡!やめて!!
それはすぐ真横から聞こえた。
誰だ?
この家には僕と渡しかいない。
一体誰だ?
渡は聞こえていないのか、以前正気を手放した表情で僕を射抜き、凄まじい力で僕を締めあげる。
しかし、声は僕の耳鳴りを吹き飛ばしてくれた。
僕は締められながらも覚醒する。
生存への本能のままに、僕は渡の腕をつかむのをやめ、机に残っていた炭酸飲料のペットボトルをつかみ床に叩き付けた。
ペットボトルの底がフローリングにぶつかりへしゃげる。次にぷしゅうと音が響き、飛沫が噴き出し舞い散った。
渡が一瞬手の力を緩めた。
その隙に渾身の力で渡を突き飛ばした。
がたがたとけたたましい音をたて、僕と渡はテーブルのむこうとこっちとに転がった。
ようやく空気が体内に入ってくる。四つん這いの体で喘ぐと、酸素がすごい勢いで脳や身体の末端を満たしていく感覚がした。
のろのろと渡が立ち上がるのが視界の隅に見える。
僕はあんまりのことに混乱していたけれど、自分に殺意を向けた友人をそれでも真っ直ぐに見上げた。
恐怖や怒りより先に、信じられなかった。
渡が……ではなく、今この空間が異次元のように思われた。テレビではまだバラエティ番組が続いている。タレントの笑い声がぞっとするほど仰々しく響く。
渡は信じられないという面持ちで僕を見下ろしていた。
表情に乏しい渡が、僕の顔を怖いものでも見るかのように凝視している。
殺意を向けたのはおまえなのに、なんでそんな顔をするんだ。
しかし、そんなのは一瞬。
渡は顔をそらすと、大きな足音を立ててアパートを飛び出していった。
曲がった鉄砲玉のように。宮沢賢治の詩が浮かぶ。永訣の朝、だ。
僕の頭は混乱の只中でそんなことを考えた。
耳に残った女性の声は、以前星空の元で聞いた声に似ていた気もしたが、心はとてもそこまで考える余裕を持っていなかった。