「深空の気のせいだよ。僕は、きみのことしか考えていない」
「長いこと眠っていた私を目覚めさせてくれたのは、きみだと私は思ってる。入院中もお見舞いに来てくれたし、その後も一緒にいてくれた。でも、それは私への責任感でしょう?友達への同情でしょう?」
深空の大きな瞳には涙がたまっていた。今にも零れ落ちそうにゆらめくそれを拭ってやりたい。
しかし、深空は潤んだ瞳できつく僕を睨む。
「五年だわ。同情ならもうやめて。責任感ならここまでにして」
「深空」
「真綿でくるむように守られたって、ガラス越しに愛されたって、私は嬉しくない!私は恒と同じ人間よ。生きてるの!きみと同じ目線でいたい!」
深空の叫びが落日の住宅街に響く。涙がぱたぱたとアスファルトに落ちる。
歪んだ深空の顔。涙。
……僕はなんて馬鹿だったんだろう。
深空の言う通りだ。僕は結局、深空といることで親友を失った悲しみを埋めていたに過ぎない。
彼女に惹かれていたのは嘘じゃない。だけど、それ以上に永劫手に入らなくなった友情を探していた。
あわよくば彼女の中に欠片でもよすがを見つけられたらと思っていたんだ。
僕は最低だ。
愛してくれている深空が気付かないはずないじゃないか。僕の心の虚ろさに。
「渡、ごめん」
僕は口の中で本当に小さく呟いた。
深空には聞こえない声で。
渡、ごめん。
おまえとの楽しかった一瞬に囚われ、あの夏で足を止めていたのは僕だ。
おまえをそこに縛りつけているのは僕の妄執だ。
もう解放してやるよ。おまえはもっと遠くに行ける。
自由にどこへでも行けるんだ。ひとりで旅に出ていいんだ。
そしてようやく気付けた。
僕の守りたい人はこの世界にただひとり、深空だけだ。
一緒に歩いていきたいのは生きている深空だ。
渡の影を追いかけすぎて、全然見えなくなっていたものが見えた。
5年かけて、僕は誰のために生きるべきかをやっと見つけることができた。
僕は深空に歩み寄り、その肩に触れる。
それから、彼女を力いっぱい抱きしめた。
「やめて、離して!」
暴れる深空を強引に腕の中に閉じ込め、それから唇を合わせた。
深空の唇は涙でしょっぱかった。
「悲しい想いをさせてごめん」
唇を離して、僕は言った。
「きっと僕は、深空のことをお姫様みたいに大事に想いすぎていたんだ。深空は夢の国の住人じゃないのにね。生きてここにいるのにね。僕の大事な人なのに……」
僕の頬にも涙がつたっていた。
深空への悔恨と、渡への惜別の涙はいつまでも止まらない。
渡、さよなら。
僕は前に向かう。
歩いていく。
おまえと過ごしたあの夏は、僕の奥底に大事にしまっておこう。
綺麗な箱に入れて、二度と開けないようにしよう。
渡、さよなら。
おまえから、彼女を奪ってごめん。必ず幸せにするから。
だから、おまえはもう僕の心にいてくれなくていいんだ。
「深空、好きだよ。あのね、僕と結婚してほしい」
「恒……」
「きみは生きてる。これからも一緒に生きて。そして、僕と家族になってほしい」
深空はもう抵抗しなかった。
だらりと降ろされていた手が、僕の背にそろりと回される。
僕は彼女の細い身体をもう一度強く抱きしめた。
二十五年が経った。大きな戦争はないけれど、テロや災害で世界中が何度も乱れた。飛躍的に進化したものもあるのだろうけれど、日常に紛れてしまうと案外気づかない。僕の体感でいえば、便利なものは増えても暮らし自体は何も変わっていないように思う。
強いて変化を言えば、僕は家庭を持った。
妻の深空、息子の亘と亨、娘のつむぎ。かけがえのない家族だ。
獣医院を開業し18年になる。あの日、渡とふたりで語った夢を僕だけが実現した。
長男の亘はあの年の僕たちと同い年になった。彼は都内の美大に通っている。卒業後は九州に行き陶芸の勉強をしたいそうだ。
彼は僕たちとはまったく違う青春を、人生を歩んで行くだろう。いや、そうでなければ困る。
亘が産まれた時、その名を付けたのは義母。
僕の名に因んだ名を提案しながら、僕にはその意味がちゃんと伝わっていた。
亘(わたる)と渡(わたり)。
音で一字違いのその名は、僕にも義母にも大事な名だった。
義母は心配そうに僕を見つめ、僕はいい名前ですと頷いた。それでちゃんと通じた。
義母が赤ん坊を抱き上げて落とした涙を僕は忘れられない。愛情と歓喜、悔恨の涙だ。
その後、義父が亡くなった後も、義母は僕と一緒に長くこれらの過去を深空に隠し通してくれた。
すべては深空のためだったけれど、義母も亡くした息子のことを語れないのはどれほど辛いことだっただろうと思う。
僕ら家族は驚くほど順調だったように思う。
皆、それぞれの一生懸命に生き、夢や目標に向かって努力している。
二十五年経った今でも、僕は変わらず深空を愛している。
渡との日々に囚われていた僕の手を引き、世界に呼び戻してくれたのは深空だ。彼女の声はいつだって、僕に力を与え続けてくれた。眠っている時も、目覚めた後も。そんな彼女に、言葉に尽くせぬ感謝と愛情を感じる。
ここまで書いておいて、正直僕は深空がこの記録をどう読むか不安だったりもする。
深空を傷つけたくはない。知らないほうが平穏に生きられると秘してきたことを今更暴露するのは、彼女には酷なことだ。
そして、渡も深空がすべてを知ることを望まないだろうと思う。
渡は姉の心に自分の存在がないと知ったら、幾分ほっとするはずだ。
だけど、そんなのは僕が嫌なのだ。
深空を愛し、僕の親友だった渡は確かに存在した。
僕はどうしてもそのことを深空に伝えたい。
深空の心を苦しめたとしても、やはりなかったことにしたくないのだ。
*
先日、僕は大学病院で研修に参加した。母校の大学病院は都内にあり、現在は恩師が学長を務めている。
久しぶりに電車で都内に出る。少し見ないでいると、東京という街はあっという間に姿を変える。
僕らが暮らしたあの千葉の街だって、もう何年も訪れていないけれど、きっと大きく変わっているだろう。
地元の駅に再び戻ってきたのは夕方だった。
帰りのラッシュには若干早かったので、のんびり電車に乗れた。
秋の日暮れは早く、最寄り駅に着く頃には日は蜜柑色に焼け、街の向こうの山間に落ちていく時刻だ。
防波堤と海と山と夕日。綺麗だ。もう少しで薄青のドレープの上に群青の空が広がりだすだろう。
群青の天井と茫々と広がる海のコントラストは本当に胸をうつ。
僕は西口の階段上でその美しい落日の始まりを見た。
人の心に響く光景とは、大抵日常にひそんでいる。僕は一瞬を惜しむように空を見やり、階段を降りた。
自宅までは10分ほど。大通りを抜け、カーブを曲がる。
自宅近くの公園を通り掛かるとキンモクセイの緑葉が濃い色に変わっていた。あと半月もすれば錦糸卵みたいに細かな黄色の花々が見られるだろう。
防波堤と住宅地の間の道を進む。夕暮れ時の潮風が心地よい。
ふと、前方から誰か歩いて来るのが見えた。
近所の中学校のセーラー服。夕日に照らされ薄茶色に透ける短髪。
中学三年になる娘のつむぎであるのが遠目にわかった。
僕は名を呼ぼうと口を開きかけた。
伏目がちに歩いてくるつむぎが顔をあげ、僕を見つける。
その刹那だ。
僕の時間は瞬時に二十五年の時を巻き戻った。
渡だ。
僕の目前に渡がいる。
落ちていく陽光を浴び、あの日とまったく変わらぬ姿で。
勿論そんなわけはなかった。そこにいたのはやはり僕の娘だ。
しかし眼が……僕は狼狽し、まばゆい夕日に照らされたつむぎを凝視した。
つむぎの瞳は、渡とまったく同質のものだった。
くっきりとした二重。短いがきっちりはえそろった睫毛。
そして何よりあの懐かしい鳶色の虹彩。
眩暈がした。
渡、そこにいるのか。おまえはそんなところにいたのか。
「お父さん!」
つむぎが僕に破顔し、ぱたぱたとスニーカーを鳴らし駆け寄ってくる。
僕の前で、見上げてきたつむぎの瞳は、もういつもと同じ色味をしていた。深空によく似たブラウンの瞳だ。
たった今の光景は夕日が見せた一瞬の幻影だったのだ。
僕はあらためて理解し、落胆とも納得ともつかない気持ちで娘を見下ろした。
「おかえりなさい。なんでスーツなの」
「ただいま。今日は大学まで行ってきたんだよ」
つむぎは普段見ない僕のスーツ姿を上から下までじろじろと眺め渡す。そして、いたずらっぽく微笑んだ。
「いいね。似合う」
その笑顔は、なんだか大人びて見えた。
「それはどうも。ところできみは帰り道?逆方向じゃない?」
「学校に忘れ物したの。取ってくる」
僕は彼女の髪に指をすき入れ、くしゃりと混ぜる。
「一緒に行ってあげようか」
「結構ですー」
彼女はそう言って、僕の横をするりと抜けた。
僕が目で追うと、潮風にセーラー服をはためかせ、日に融ける薄茶の髪をなびかせる娘がいた。
その後ろ姿は、渡によく似ていた。
きっと、彼女の瞳は今も鳶色にきらめいているのだろう。
ああ、やはり落胆なんてする必要はない。
夕焼けとつむぎ。
本当に一瞬の奇跡で、僕は渡と束の間の再会を果たせたのだ。
「あとでねぇ」
つむぎは中学校の方向へ駆けて行き、曲がり角を曲がる時に大声が聞こえた。
取り残され、僕は一人路上に立ち尽くす。
キンモクセイの作る長い影の中、呆然と。
胸の内で厳かな感動が湧きあがっていた。
「渡、おまえはそこにいるんだな」
我知らず、僕は呟いていた。
深空と生きるために、僕は前を向いた。渡との思い出を心の奥深くにしまい込んだ。
だけど、渡どこにも行っていなかった。
娘の中に見た、渡のかけら。
僕は、不意に自分が渡と出会ったことに深い意義を感じた。僕は渡を未来に運ぶことができたのかもしれない。
何ひとつしてやれなかった……そう思っていた。
しかし、彼の一部を次につなぐことはできたのかもしれない。こんな、想像もしなかったかたちで。
僕は暮れかけた空に向かって言う。
「渡、僕はずっと会いたかったよ」
―――――俺はそうでもないよ。
その声は僕の真後ろから聞こえた。
僕はもう、その声を偽物だとも思わなかったし、都合のいい夢とも思わなかった。
振り返ることなく、僕は呼びかける。
「海、行きそびれちゃったね」
―――――ま、仕方ないだろ。
「一緒に酒を飲んでみたかった」
―――――恒、すごく弱いじゃん。一緒に飲まなくてよかったよ。介抱なんてごめんだ。
「深空をおまえから奪っちゃったな」
―――――ちょっとムカつくけどな。深空、幸せそうだから許してやる。
渡の声は僕の記憶のままで、苦しくて苦しくて僕はせりあがってくる嗚咽を必死に飲み込む。
振り返れば、そこに渡はいるのかもしれない。
いや、きっといない。わかっている。
この声は夕日がくれた奇跡の一端。
僕と深空が通じていたように、一瞬だけ僕らのチャンネルが重なり合っただけ。