僕たちはじっと池を見つめた。遠くのビル群が熱気でゆらゆらしていた。

「なあ、渡。おまえ、やっぱりそんなどん底の思考じゃよくないよ」

「姉が死にかけてて、俺の人殺しが成立しそうなときに、明るくいられるかよ」

渡なりの茶化し方だったけれど、やっぱり悲しすぎて、僕はわざと大きな声で言った。

「よし!僕が生きている実感を持たせてやる!」

僕のテンションの変化に渡がゆるゆると顔をあげ、手すりからこちらに向き直る。

「僕を殴っていいよ!」

「……暑くて頭おかしくなった?」

「そうじゃないよ!殴り合いって、若者らしいだろ?少なとも僕と渡は生きてるんだよ。生きてる実感を覚えておこう」

「馬鹿らしい……」

渡が本気で馬鹿にした声で言う。
こっちはおまえを元気づけようとしてるっていうのに。イライラが噴出してきて、なんだ無理しなくても殴れそうだなぁなんて思う。

僕は胸を張って宣言する。

「よし、じゃ僕からいく」

「え?は?……なに言ってん……」

渡の言葉が終わる前に僕は振りかぶった右拳を渡の左頬にたたきつけていた。
「っっっってぇぇぇ!」

渡が呻き、前かがみになる。
やりすぎたかなと内心ヒヤヒヤする。
何しろ、喧嘩というものをほとんどしたことがないのだ。加減なんかわからない。

すると頬を押さえたまま渡が顔をあげた。ぎりっと僕を睨んでいる。

「お望みどおりにしてやるよ!」

「おう、こいよ!」

半分強がって答えると、すぐさま渡の拳が僕の左頬にめり込んだ。

「うっわ……!いったぁぁぁ!」

「……もうおまえホント最悪。恒、マジ馬鹿。すげー馬鹿」

渡は再び頬をおさえ、僕はその場でうずくまった。

生きている実感、なんて方便で。
なんとか渡に活力を出してほしくて言ってみたけれど、これはだいぶ失敗だったみたいだ。

「も……やめよ。うん……生きてる実感ありまくりだけど、痛すぎ」

「自分で言って殴っておいて、リタイアとか、ホント有り得ない。おまえ死刑。今すぐこの池で入水自殺しろ!」

渡は罵っていたけれど、続ける気は僕同様ない様子だった。
僕らは自動販売機で缶ジュースを買って頬を冷やしながら電車に乗った。

渡の気持ちが紛れてくれたかといったら、けして成功はしていないと思う。
だけど、帰り道の渡は怒ったり笑ったりしてくれていたから、あの時の僕の行動はあながち間違いでもなかったのかもしれない。
そんな言い訳だけさせてほしい。







これから書くことについて、僕は二十五年経った今でも平常な気持ちで思い起こすことができない。







二〇〇一年の九月がやってきた。朝夕の気温が下がり、ある日ふと空気に秋の匂いを感じる。香ばしい草の香りだ。
この街は駅前こそ華やかだが、十五分も歩けばすぐに田園にたどり着く。稲穂がほんの少し色濃くなる時分である。道路には蝉の死骸がいくつも転がり、端のコスモスは今にも花びらが開きそうだ。
台風がやってきて、駅前にある商店の看板を壊していった。
夏の終わりである。

とはいえ、日中はまだ真夏のように暑い。そして大学生の夏は長く、僕の夏休みはあと半月以上も残っていた。

「海に行こう」

渡が言い出したのは九月に入ってすぐだ。
深空の容体は小康状態らしく、続報が入ってこないため、僕らは見舞いにも行けず、時間を持て余していた。

その日の僕たちは前夜遅くまで録画した洋画を見て、本を読んでいたため、昼過ぎまで僕の部屋で眠っていた。
渡がうちに泊まる時、長座布団をひき、洗い替え用のタオルケットを貸すのが恒例だったけれど、海の件を言い出した渡はそこにごろりと転がって雑誌を読んでいた。

「海に?いつ?」

「明日。今日は俺、これからバイトだから」

「明日ね、うん」
僕はよく考えもせず頷いた。アルバイト等の所用のない僕はいつだって時間をあけられた。
海には行かないうちに九月になってしまった。
渡と行ってみるのもいいかもしれない。クラゲはたくさん出ているだろうけれど。

渡ががばりと身体を起こして言う。

「計算したところな、片道三時間半で海まで行ける」

「はぁ?おまえどこの海に行く気だよ」

海ならこの街から電車で四十~五十分だ。湘南だって二時間あれば着く。

「自転車を使えばそのくらいはかかるだろ」

渡はこともなげに答えた。
僕は頭を抱える。

「正気で言ってる?」

「なに、その言い方」

「自転車で海までって?この熱いのに?海に入ってクタクタになって、また自転車漕いで帰ってくんのかよ。っていうか、僕もおまえも自転車持ってないだろ?」

矢継ぎ早に言うと、渡は僕を小馬鹿にしたような目で見る。

「これだから、箱入り息子は」

とてつもなく馬鹿にされた気分だ。軟弱者と罵られて我慢できない。

「じゃあさ、試しに渡のたてたプランを教えてよ」

「駅前でレンタサイクルを借りるんだ。朝七時にここをでる。実はこの前思い立って地図を買ってみたんだけど、ほら。このルートなら昼前には海に着くぞ」

長座布団に寝ころんだまま手を伸ばし、鞄を引っ張ってくると、渡はがさがさと地図を取り出す。
見れば、順路のマーカーが引いてある。なんだよ、やる気満々じゃないかよ。
「一応、聞くけど、海で何すんの?」

「え?泳ぐ。泳ぐ以外、何するものなの?海って」

「あ、はい。泳ぎますよね、はい、すんません」

そりゃ、渡がナンパ目的で行くはずもないのはわかっていたけれど、真剣に泳ぎに行くつもりだったとは。

正直に言えば、ものすごく気乗りがしなかった。
海はまだしも、熱い最中になぜ自転車なんだ。ロードバイクじゃなくて、ママチャリの延長みたいなレンタサイクルで行くなんて、もはや修行だぞ。

たぶんとんでもなく疲れるし、凄まじく日焼けするだろう。
そもそも泳ぐなんて言っているけれど、渡が水着なんか持っているとは思えない。
僕は当然持っていない。これから買いに行くことになるのか?

しかし、それらの面倒くささと同じくらい、面白そうと思ってしまう僕がいた。
夏の思い出としては悪くないぞ。渡の企画となればいっそうだ。

クタクタのボロボロになって帰宅するのもいい。
筋肉痛で動けなくなるのも、日焼けが泣くほど痛くなるのもいい。

この先、明日の海旅行を思い出として話すたび僕は言ってやるのだ。『言い出したのは渡だからな』鬼の首をとったかのように、上から目線で言ってやるのだ。

「いいよ、自転車で行こう」

「お、やっとその気になったか」

僕が頷くと渡はにっと笑った。無謀な計画にのってきたのが嬉しかったに違いない。

「明日の朝七時、駅のレンタサイクルのとこな。遅れんなよ」
「渡こそ、遅れんな」

「遅れねぇよ。昼までに海に着きたいからな」

それからしばらくだらだらクーラーの風に当たっていた渡は、四時過ぎに僕の部屋から直接バイトに行った。
水着は僕が二人分まとめて買いに行く約束になった。まあ、僕も暇なので問題ない。アーケードのスポーツショップでセール品でも買おう。

渡は出て行ってすぐに、忘れ物で戻って来た。
携帯電話をテーブルに置きっぱなしにしていたのだ。

これで、明日も連絡がつくとかそんな話をして、その後、渡は何か一言、僕に言った。
確か僕たちは顔を見合わせて笑ったのだ。

しかし、僕はこの暫時のやりとりをどうしても思い出せない。










翌朝は快晴で、抜けるような青空はサイクリング日和にも思えたけれど、気温が高くなるのも必然といった陽気だった。
僕は朝食を駅前のコンビニで二人分買った。おにぎりを三つずつとお茶のペットボトル。

リュックサックには昨日買った水着が二枚。
おそろいにしてやろうかと思ったけれど、渡の嫌そうな顔を見るために、僕まで恥ずかしいペアルックに参加したくない。海で見知らぬ人たちに妙な仲の良さを披露したくない。
デザインも色も違うものを用意した。

駅のレンタサイクルはデパートビルの一階部分で、ロータリーから横の路地に入っていくとある。僕はレンタサイクル受付近くのガードレールに腰かけ、先におにぎりを食べた。

食事と気温で、すでに汗が噴き出そうだ。これからもっと暑くなるだろう。

やがて腕時計が七時を指した。
渡は現れない。

ほら、見たことか。渡の方が遅刻じゃないか。まあ、あいつはアルバイトをしているから、案外昨日は忙しかったのかもしれないな。少しくらい遅れるのは許してやろう。
僕はいつ連絡がきてもいいように携帯を握りしめる。マナーモードにして、振動を感じられるようにしておく。

一時間待ったけれど、渡は待ち合わせ場所に来なかった。

さすがに遅いと、携帯に電話をしてみた。七回呼び出しベルが鳴って留守電につながった。大方ひどい寝坊でもしているのだろう。

僕は追加でもう三十分待った。
渡はやはり来ない。携帯は何度かけても8コール目の途中で、留守電になってしまう。

まったく、どうなっているんだ、あいつは。
業を煮やして、僕は家まで渡を迎えに行くことにした。
これはそうとう熟睡しているのだろう。ドアを叩くくらいで起きるかな。僕は自分の想像に、疑いすら持たなかった。

その時だ。


―――――渡!!


深空の声がした。深空の切羽詰まった大声が僕の背中にぶつかった。

「え?」

僕は辺りを見回した。やはり渡は到着していない。それなら、今の声はなんだ。
深空はどこに向かって渡を呼んだんだ?
どうしてそれを僕に聞かせたんだ?

ぞわりと背筋が震えた。

僕は渡の部屋に向かい、早足で歩き出した。

駅から徒歩二十分の渡のアパートに到着すると、おんぼろアパートの前に人垣ができていた。
時刻は8時半だ。普段、これほど人が集まるような場所でもない。

すぐ近くにパトカーが三台停まっている。警察官が人の群れを押しやるのが見え、黄色い規制線のテープが見えた。
わやわやとざわめく野次馬。下がってくださいと声を張る警察官が数人。

全身が総毛だった。
嫌な予感が黒雲のように、僕の胸を埋めていく。どんどんと心臓が有り得ない音で鳴り響く、歩みを早め、野次馬の輪の中に突っ込んだ。

『ササレタンダッテ』『オトコガニゲテイクノヲミタ』『キュウキュウシャキタトキ、イシキナカッタヨネ』『コワイネー』

次々に耳に飛び込んでくる言葉で、何があったのか聞くまでもなかった。
嫌な単語がたくさんあふれている。無神経な言葉であふれている。

僕は人垣をかき分け、黄色のテープの最前列に身を乗り出す格好で躍り出る。
警察官に下がりなさいと押し留められた。僕は邪魔な警察官を平気で押し返した。


そして僕は路上に広がる生々しい血溜を見た。


それからどこをどうしたのか。

大通りでタクシーを拾ったのは覚えている。
搬送されたという救急病院の名前を告げ、錯乱気味の頭で祈った。どうかどうか間違いであってくれ。どうかどうか。

震える指で履歴を押し、渡の番号にかける。
留守電につながり切ると、またすぐにかけなおす。ずっと携帯を鳴らし続けた。
早く出てくれ、渡。そして僕の馬鹿な勘違いを笑ってくれ。

タクシーの運転手が呑気な口調で、どうしたのお兄さん、と問うてくる。僕は「友達が」と言ったきり涙が出てしまって、携帯を握り締めてぶるぶる震えた。怖くて、怖くて、涙腺がおかしくなっていた。
運転手は悪いことを聞いたとばかりに前に向き直ったが、猛スピードで僕を病院まで運んでくれた。

受付に駆け寄って矢継ぎ早に口を動かした。
さっき運ばれてきた男の部屋を教えてください。僕の友人なんです。早く。頼むから、早く遠坂渡の病室を教えてくれ。

僕が教えられ向かったのは、別棟一階、隅の部屋だった。

長い廊下の先、救急処置室と書かれた開け放たれた空間を抜け、僕が入ったのはさらに奥の薄暗い部屋。

その部屋で、渡は取り澄ました顔をして眠っていた。
静かに、静かに眠っていた。

そして僕は、彼の心臓が一時間ほど前に止まったことを聞かされた。


僕らの空は群青色

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