「渡は、この先どうするか決めてんの?」

聞いてから僕は無神経だったかと内心焦った。
渡はまだどこにも進めない状況だ。それなのに、自分の尺度で質問してしまった。
ごまかしたい気持ちで続けて言う。

「僕が開業したら、うちで働く?」

「俺に何ができるんだよ」

「受付嬢」

「馬鹿じゃねえの?」

渡は心底呆れた顔で嘲笑して、その後は考え込む風に真顔に戻った。
僕は渡が皮肉でも笑ったことにホッとしてから訊ねた。

「なんか、思うところがあるのか?」

「考えてみたんだけどさ、このままコンビニ店員は続けないかもしれない」

渡は真面目くさって答える。

「やりたいことがあるとか」

「やりたいのかはわからない。でも………うーん」

渡は言いあぐねているようだ。
僕は「何?」と重ねて聞いたけれど、渡はそこでは何にも答えなかった。

渡が口を開いたのはそれから随分あとで、アーケードのCD店に入ってからだった。

「旅に出てみようかと思うんだ」

渡は相変わらず真面目な顔で言った。

「旅?」

「もちろん、たくさんのことに片がついたらだけど」

たくさんのこととは深空のことだろうか、自分自身のことだろうか。

「どこまでの旅?」

「さあ、でもインドとか…タイとか。ああいうところに行ってみたい」

「どうせテレビとか雑誌で見て影響されたんだろう」

僕がからかうと、「わりーかよ」と実に素直な答えが返ってきた。

からかったものの、僕は嬉しかった。
今まで様々なことに囚われ、この街に籠っていた渡の心が、外に向かおうとしている。
いつのまにか兆しが芽生えていたのだ。

「僕も、行こうかな。その旅」

僕は思い切って言うけれど、渡はにべもなく答える。

「ボンボン学生は勉強してな」

なんだよ、その言い方。僕は少なからず気を悪くしたけれど、渡がさっぱりと破顔一笑したので怒り損ねてしまった。

「納得できないなぁ。なあ、僕の夏休みとか冬休みに合わせてくれよ。一緒に行こう」

「やだよ。俺、行きたくなったらその日のうちに国外脱出してやるもん。だいたい恒みたいな箱入りにな、バックパッカーなんてできねえよ」

「渡だってたいして変わらないだろ。そもそも海外行ったことあんのかよ」

「俺の方が社会経験長いからな。そのへんは心配すんな」

僕たちはそのいつになるかわからない旅について冗談まじりの言い合いを続けた。アーケードを抜け街で一・二を争う不味い中華料理屋に入り、ゴムのような焼きそばを食べながら、論議を重ねた。

「絶対、僕がいたほうがいいよ。僕、英語喋れるよ、そこそこ」

「そこそこってあたりが役に立たないよな。いいよ、俺ひとりで行かせろよ」

「僕もそういう旅を若いうちに経験しておきたいんだってば」

「ひとりでやれよ!」

散々大声で言い合い、途中で渡はとうとう僕の同行に渋々ではあるけれど頷いた。僕は言い合いに勝ったことに子どものように喜んだ。

細部に渡っての計画をたてながら、それは夢のように遠かった。

本当は、その旅を渡がひとりで行きたいのだと知っていた。ひとりで行くことに意味がある旅だ。
だからこそ僕は駄々をこねてみたかった。
そして、渡が行きたいのなら、その背中を見送ろうと密かに思っていた。
帰り道に渡が「まぁ、お土産買ってきてやるから」と話を一番最初まで戻した時、僕は「わかった」と頷いた。

「お、どうしたの?急に聞き分けよくなったじゃん」

渡はにやにや笑い、僕はふてくされた振りをして答えた。

「お土産だけどな、免税店でマカデミアンナッツとか買ってきたら許さないぞ」

「安心して待ってろよ。邪魔になるくらいでかい現地の置物とか送ってやるから」

「いらねぇ~」

渡にとって僕は家族だっただろうか。
お土産を買って、帰る場所になっていただろうか。

僕は群青色の空を見上げた。
まだ完全な闇じゃない空。僕らの上に広がる群青色の天井。

渡の好きな例の曲を口ずさむ。僕もその曲が好きだった。十九の夏にぴったりと寄り添った曲だった。

夏の夜は暑く閉ざされていたけれど、ぐにゃぐにゃと伸び縮みする。
僕は空気の濃さと熱気をかえって清々しく感じた。
世界は広く、僕たちはとても若い。
その事実が眩しく、僕の視界を開けさせた。






間もなくお盆が来て僕は富山の実家に帰った。
上京して初の帰省だった。地方出身の大学一年生はゴールデンウィークにはこぞって実家に帰るものだけれど、僕は面倒で帰らなかった。夏の墓参りくらいは帰るべきだと思って帰省を決めたのだ。

本当はこの街に残って渡と遊んでいたかった。渡は帰る場所がない。

僕は帰省間際になって渡を富山の実家に誘うことを思いついた。
渡となら退屈な田舎も楽しそうだ。
星は本当にたくさん見えるから、子どもの頃の星座早見盤を引っ張り出して観察ができる。
国語教師である父の蔵書を貸してやれば、退屈はしないはず。

夏祭りに行ったり、僕の出身校を見せよう。何人かの幼馴染みに会わせてみよう。
僕は大学の友人を強いて渡と会わせようとはしなかった。
渡はきっと馴染まないだろうし、同じ街で暮らす分、普段に偶然会ったら不都合だろうと思ったからだ。

あとは、まあわずかに独占欲というものもあった。渡の親友は僕だけでいいという、子どもじみた考えだ。

でも旧友となったら、話は違う。
旧友たちは皆気の置けない友達だったし、自分の新しい都会の友を見せびらかしたい気持ちもあった。
何より彼らは渡を奪わない。渡にしても旅先の出会いとなればずっと気楽なはずだ。
しかし、いざ渡を誘ってみると、あの薄情者は「お盆は稼ぎ時だから無理」とあっさり計画を却下した。「どうにかならないか」と言うと「どうにもする気がない」と取り付く島もない。

確かに前言われたっけ。「友達の実家とかさ、どういう顔していけばいいわけ?」なんて。

まあ、今回はいい。秋のしし座流星群のときは、もう一度説得してみよう。
今度は稼ぎ時だなんて言い訳はさせないぞ。


結局、ひとりの帰省となったけれど、久しぶりの故郷の空気はそれだけで懐かしく胸に染み入るものだった。
最寄り駅に着くと母と祖母が迎えにきていて、二人とも戦地から息子が帰ってきたとでもいうようなはしゃぎようだった。
父も表情こそ変わらなかったが明らかに嬉しそうで、僕に晩酌を付き合わせながら学校のことをぽつぽつ尋ねる。父とそうして二人で話をするのはこの時が初めてだったかもしれない。

僕は家族と久方振りの団欒を味わい、帰省前に考えていたつまらなさを図らずも忘れた。

そしてあらためて思った。
渡にこの団欒は毒々しかったかもしれない。呼ばなくて正解だった。渡を傷つけずに済んだ。


僕はそうして一週間ほど北陸の夏を謳歌し、その足でサークルの長野合宿に参加した。
サークルの合宿といっても何しろ遊びサークルなので長野のキャンプ場でカレーを作ったりテニスをしたくらいの合宿だ。

サークルは一・二年が主体だった。僕の通っていた大学は三年生でゼミナールに所属するようになると、サークルだなんだという暇がなくなるのだ。

年齢の近い者同士のキャンプはとても気楽だ。僕は夏の前半中、渡と駆けずり回っていたので、他の友人と遊ぶのは新鮮で楽しかった。渡とは味わえない仲間の娯楽を満喫した。
三泊四日の合宿の二日目の晩に渡から電話がきた。
帰省中、僕たちは幾度か携帯で電話をしたかれど、いつも僕からかけるばかりで渡からの着信はめずらしかった。

「よう、長野はどうだ」

山の中は電波が悪く、渡の声はぶつぶつ途切れた。僕は仲間の輪から抜け、電波の良い所を探して歩く。
後ろから仲間の囃す声が聞こえた。

「白井ィ。彼女から電話かー?」

僕は片手をあげて、ごまかす。きっと仲間は僕が可愛い彼女と電話していると誤解するだろう。それはそれで愉快だ。

開けた広い駐車場でようやく電波状況が良くなる。

「明後日そっちに帰るよ」

僕が言うと「そうか」とかすかな返事が返ってきた。それからいつも通りの世間話をして、ややした頃、渡はぽつんと言った。

「深空、そろそろ駄目らしい」

あまりに簡単にさりげなく言うので聞き流してしまうところだった。その言葉の意味を理解して聞き返す。

「深空さん、具合悪いのか」

「自発呼吸できなくなった。心臓も弱ってる」

渡は小さな声で答えた。渡の母親から、僕に連絡は入っていない。
そうなると、渡は病室を訪れてその情報を知ったのだろうか。
それとも、母親から連絡が入ったのだろうか。そうでなければ詳しい病状を知ることはできないだろう。

渡は今、苦しい。
きっと、痛くて立っていられないほどだろう。

「僕、合宿切り上げて帰ろうか?」

僕が帰って何になるというのだろう。
それでも今、渡をひとりぼっちであの街に置いておきたくなかった。
渡さえよければ、もう一度見舞いくらいは付き合えるかもしれない。ふたりで深空に呼びかけて、何か現状が変わるかはわからない。でも、僕もじっとしていられない気持ちになった。

「いいよ。恒は合宿楽しんでこい。そうだ、明後日、上野まで迎えに行ってやるよ」

その後、僕たちは少し違う話をして電話を切った。

僕は空っぽの駐車場の真ん中に腰を下ろし、空を見上げた。
ベガ、アルタイル、デネブ。
じっと見つめ続けているうち目が痛くなった。

何かが終わる感触が携帯電話の回線を通じ、ぼんやりと伝わってきた。

僕はアスファルトに横たわり、しばらくそうしていた。アスファルトは日焼けした匂いがした。

二日後の午後遅い時間に、僕は上野駅で渡と再会した。
日に焼けた僕と引き換え、渡は白いままだ。バイト先と図書館くらいしか出かけていないんだろうなとわかる。

当時は上野駅構内にあったジャンボパンダ像の前で待ち合わせ、僕の荷物をコインロッカーに預けてから、二人でアメ屋横丁をぶらぶら歩いた。

魚や乾物の匂い。人混み、喧騒。
日曜で人出はすごく、ひどく暑い。

僕たちにはあてがなかった。食事には少し早く、かといってただ歩くのも手持ちぶさただった。
そのままなんとなしに交差点を渡り、散歩の足を上野恩賜公園にむけた。
公園は上野動物園に隣接している。鳩と親子連れが多かった。動物園の門前で一応「入る?」と聞くと渡は首を振った。

仕方なしに不忍池付近に下り、池の周りをぐるりと散歩した。池からどぶくさい匂いがした。

「ライギョ、いるかな」

「なにそれ」

「魚。でかいドジョウを想像するとわかりやすい」

「気持ち悪いな」

渡はライギョを知らないそうだ。僕も小さな頃、父親と釣りで見かけたくらいだけど。

「今度、手賀沼に釣りに行こうか」

僕が言うと渡は嫌そうな顔をした。首をぶんぶんと振って、拒否の姿勢だ。
「あんなどろどろの沼に行きたくない」

「どろどろなのは一部だよ。それにどろどろの沼だからライギョがいるんじゃないか」

「そんなところに住むやつ、食えそうにないからいらない」

「昔は食用だったらしいよ」

「じゃあ、おまえ食うの?」

「いや、食べないね」

不忍池は蓮が群生している。時期的には花が見られそうなものだったけれど、僕たちの近くに蓮花はなかった。
遠く池の中央付近に二・三咲いていた花を、僕たちは夢でも見るように眺めた。

ぽちゃんと手前で音がする。
葉の上でねそべっていたアマガエルが一匹、濁った水の底を目指して潜って行った。

「深空が死んだら、俺は楽になるのかな」

渡が言った。
僕がはっとして横を見ると、渡は手摺りにもたれ顔を伏せていた。

「もう誰も、俺を罰しちゃくれない」

「渡はもう罰を受けてきたじゃないか」

僕は強く言った。いつまでも渡を罪にしばりつけておきたくない。
渡は腕をずらし、顔だけ僕に向けて答える。

「ちょこっと牢屋に入ったくらいで、俺が許されると思ってるのかよ」

皮肉気な笑みに僕は押し黙った。
この件について、当事者でない僕はことさら発言力が弱かった。僕では渡の苦痛のすべてを理解し得ない。