ここは東京の郊外でまずまずの都会だけど、学校の近くはこんな感じで自然が多く残っていた。人の手が入っていない場所は人通りも少なく、ひっそりしている。さっきから人間も車も、猫一匹見かけない。生きているものといえば、電線の上で鳩が羽根でお腹をかいているだけ。まだ辺りは十分明るいけれど不気味なぐらいの静けさに背中を押され、足が速くなる。一年半も通い続けた通学路のはずなのに、未だにこの道だけは慣れない。
どさっ、と雑木林の中で大きなものが倒れる音がして、心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような気がした。おそるおそる振り返って、足が止まる。
河野潤平くん。
昨日、文乃のカバンを無理やり持たされて歩いていた彼の体が、雑木林の黒っぽい土の上に転がってた。のろのろと立ち上がり、制服のお腹を手ではらって、また歩き出す。右手にスーパーのものらしいビニール袋を握っていた。転んだ衝撃のせいか袋の表面が大きく破れて、落ち葉や土が貼り付いている。
木の根に躓きそうになったり枝に頭をぶつけたりしながら、大きな体が雑木林の奥に進んでいく。黒い人影が完全に消えたのを見届けてから、意を決してアスファルトと雑木林とを隔てているガードレールを跨いだ。太ももの裏に金属のひんやりした感触が伝わった。
河野くんはきっと、文乃に会いに行く。河野くんの行く先に文乃がいる。文乃の秘密がある。なぜかはっきりした確信があって、ずんずん雑木林の奥に進んだ。どんよりした目に封じられた、文乃の心の奥へ奥へと入っていくように。髪の毛に蜘蛛の巣が絡まるのもソックスがくっつき虫だらけになるのも、文乃の目つきと同じぐらい湿気を含んだ重たい空気も、気にならなかった。
やがて噂のラブホテルが現れる。とっくに廃業になって建物だけ取り壊されずに残ってる、お化け屋敷兼ヤンキーのたまり場。『ホテル パステル』って看板も元は真っ白かったはずの壁も雨風に晒されて灰色に汚れて、汚かったり下品だったりする言葉のオンパレードだ。
あちこち窓が割られ、玄関を飾るアーチは誰かがひねりつぶしたようにひしゃげている。ゴミがとにかく多い。錆びついた自転車、タバコの吸い殻、空き缶、半裸の女の子が表紙の雑誌、テープがはみ出したビデオテープ、パンクしたタイヤ……足の裏にぐんにゃりした感触があって足を上げたら、
時々増岡くんたちが昼休みに「水風船」を作って遊んでるピンク色のゴム製品が正しい使われ方をした末捨てられていて、破けた先端から白っぽい中身がこぼれていた。悲鳴を上げそうになる口を慌てて押さえる。
もう少しだ。もう少しで、文乃に会える。文乃と河野くんの秘密がわかる。足音を立てないように、息さえなるべくしないで、ゆっくりゆっくり歩いた。
中は外よりももっとすごかった。ドラマでしか見たことがない部屋を選ぶパネルがヤンキーたちの仕業なのかぐちゃぐちゃに割られ、壁紙もあちこち剥がされてえげつない言葉の落書きが視界を埋め尽くしてる。ゴミは相変わらず多い。タバコくさいような、饐えたような、なんともいえない臭いが顔を引きつらせる。割れた窓の間から差し込む日の光が、空中を漂う埃を浮かび上がらせていた。その光景がなぜだかとてもむなしく見えた。
声を聞いた。とがった女の子の声と、もごもごした男の子の声。一階の、一番奥の部屋から聞こえてくる。落書きされたドアは侵入者を予見せず四分の一ぐらい開いていた。
慎重に慎重に、一歩ずつ進む。一歩ごとに声はよりはっきりと輪郭を持つ。自分の心臓の音がバクバクうるさくて、耳の働きを邪魔した。
「あんたいつも遅いんだよ。マジ、スーパー行くのに何分かかってんのさ」
「ご、ごめんなさい」
「袋も破れちゃってるし、頼んだポテチは違うのだし」
「ごめんなさい……」
「もういいごめんは聞き飽きた。いつものやって。まずは床から」
「は、はい」
カチャカチャとベルトを外す音、ポテチの袋を破る音、しゃりしゃりポテチをかみ砕く音。もう、そこにいるのが文乃だってことに疑いはなかった。聞いたことのない文乃の声。いらいらした命令口調。ドアにギリギリまで近づいて、迷った。踵を返してこの場を立ち去りたい衝動に駆られた。わたしは今、ずっと知らなかった文乃の姿を見ようとしている。そしてそれは文乃がおそらく誰にも、もちろんわたしにも見せたくない姿だ。
勇気を振り絞って部屋の中を覗き込んだ。
スプリングがはみ出したベッドの端に文乃が腰かけて、ポテチを頬張っていた。すぐ傍に破れたビニール袋とコーラのペットボトル。白いものが床にはいつくばっていた。
河野くんの裸だった。
ずんぐりむっくりした河野くんの体ははんぺんみたいに真っ白で、やわらかそうだった。背中はなめらかなのにすねには黒くて太い毛がいっぱい生えていて、男の子の裸なんだって嫌でも思い知らされてしまう。四つん這いになった河野くんは床に顔をくっついている。床と河野くんの顔の間に赤く動くものが見える。
何をしているのかわかって、めまいがした。想像以上の衝撃で体中の血がてんでんばらばらの方向に流れ出す。文乃がにやりと唇を曲げる。
その顔は周防さんによく似ていた。
「そっ、部屋じゅう隅々までちゃんとやってよいつも通り。終わったら壁だから」
「文乃っ!!」
はじかれたように文乃がこっちを見た。河野くんが飛び上がって体を起こし、わたしを見るなり耳まで赤くして床に散らばった服をかき集める。あう、あううー、と意味をなさない言葉が血の気が引いた唇からこぼれ落ちる。うるさいと文乃が河野くんを一喝する。改めてわたしを見た文乃は、悔しいような怒ったような顔をしていた。そんな文乃の表情に真っ赤な感情が突き上げてくる。
仁王立ちで部屋に突入したわたしの両手がわなわなしていた。
「文乃最悪だよ最低だよ、何やってんの何考えてんの、裸にさせて床舐めさせるとか文乃だってやられたことないじゃん!! 自分がされたことよりずっとひどいことを文乃はやってるんだよ、しかも河野くんは障がい者だし!! なんでこんなことされなきゃいけないのかこの人はわかんないんだよ!? いじめられる辛さは文乃が一番よくわかってるのに、ひど過ぎる」
「ひどいのはあんたじゃん!!」
文乃の強い声に、刺すような目に、びくっと肩が上下した。小さい頃に喧嘩した時だって、文乃はこんな顔はしなかった。こんな、まるでわたしを軽蔑するような。
「時々話しかけてくるけどあれ、マジに何のつもり? 気でも遣ってる? いいことしてるつもり? それでわたしが喜ぶとでも思ってんの? 喜んでんのは自分じゃんさ。いじめられてるあたしを庇ってる自分が好きなんでしょ? 見て見ぬフリする人になっちゃった自分が可哀想なんでしょ? 自分が一番可愛いくせにえらそうなこと言うなよ」
変わり果てた文乃の言葉のひとつひとつが、わたしをえぐる。
文乃は変わった。「きえちゃんきえちゃん」とまとわりついてきたあの頃の文乃は、もうこの世のどこにもいない。ひとかけらの罪悪感もなく、強い者が弱い者をいじめることを当然のように考えている文乃は、周防さんと同じだ。
そして文乃をこんなふうに変えてしまったのは、周りの友だちに簡単に同調して文乃を疎外して、いじめから助けることもしなかった、わたしなんだ。
「……言う。絶対言う。わたし文乃がやってること、大人に言うから。お父さんにもお母さんにも先生にも、みんな」
鋭い目を必死で睨み返しながら言った。寒くもないのに全身ががたがたしている。文乃がケッ、と笑った。
「言えないよ。希重は言えない」
「言うもん!」
「言えないったら言えない」
「言うったら言うもん!!」
「決まってる。希重は誰にも言えないんだよ」
「言うんだってば!!」
叫びながら部屋を飛び出す。ゴミを跨ぎ越し、はじかれるように廃墟から走り出た。木の根によろめき枝に頭をぶつけ、必死で雑木林を走った。方向を間違えたのか、ここから舗道までは大した距離じゃないはずなのになかなかたどりつかない。鬱蒼とした雑木林が迷宮のようにひたすら続く。わたしは文乃の心という真っ暗な迷宮に捕らわれていた。
我慢していた涙が一気に溢れて、涙に咽て溺れた人みたいな声が出る。逃げたのは、文乃の言うことがとても正しく聞こえたから。わたしの汚いところ、ずるいところ、文乃にズバリ言い当てられたのがショックだった。一番見られたくない人に、一番見られたくないものを見られてしまった。
でも、本当にそれだけ? わたしは文乃の言う通り、自分のためだけに文乃を庇おうとしていたの? 自分が可愛いから、ただそれだけでいじめられてる文乃に優しくしたの?
違う。わたしは今もどこかで、文乃を親友だと思ってる。
周防さんを恐れる気持ち、文乃を助けられないもどかしい気持ち、文乃と親友だったことを恥じる気持ち……ごっちゃごちゃになった心の奥で、友情はすっかり埃まみれになって錆びついてるけど、埃を払って錆をこすり落とせばちゃんと輝いてた。
でも文乃を変えてしまったわたしに、その宝物のような輝きを取り出す資格はない。
うごぉー、と獣みたいな声で叫んでた。涙で目の前が見えなかった。
毎日退屈だなんて言ったら大人は怒るんだろう。
子どもには労働も義務も責任もないくせに、時間と自由だけはたっぷり与えられている。好き放題気ままに振る舞って、後片付けは結局大人に押し付ける。そんなわがままで自分勝手な生き物が退屈だとは何事かと。
でも実際、子どもには大人が思ってるほど自由なんてない。大人は仕事やら人間関係やらでストレスが溜まったらお酒を飲んだり夜遊びしたりで発散できるけど、子どもが同じことをすれば補導され不良の烙印を押されるわけだし、じゃあ髪の毛を染めたり化粧したりスカートの丈を詰めたり、身の丈にあった方法でやろうとしてもやっぱり「今どきの子は」って眉をひそめられる。
働く義務も責任もなく、むしろ働いちゃいけないから、お金もない。ファッション雑誌やネットを見てたら欲しいものは後から後から腐るほど出てくるけど、月々三千円のお小遣いじゃその半分も手に入らない。
子どもには自由も労働も義務も責任もお金もない。なのに、時間ばっかり掃いて捨てるほどある。退屈じゃないわけないじゃん。よく夢とか目標とか何か夢中になれるものをひとつ見つけなさいなんて言うけど、そんなの誰にでもすぐ見つかるわけじゃないし。
思うに中学校でいじめが大量発生するのは、みんな退屈だからなんだと思う。家と学校の往復、興味を持てない勉強、ちょっとでもバランスを崩せばすぐ壊れる危うい人間関係、中学生の子どもなんてどうせろくなことしないんだからと常に目を光らせてる親。
そういうものからどうにか逃れたくて退屈な日常を少しでも面白くしたくて、みんな必死なんだ。いじめは、日常の中でちいさな非日常的刺激をプラスしてくれる。
酒を飲むな夜遊びするな髪の毛染めるな化粧もするな、そんでもっていじめでストレスを発散するのは人間として一番卑劣な行為だなんて、どっちが卑劣なんだっつうの。
「シュウウゥート!!」
増岡が叫びながら体操着袋を蹴り上げる。狙った先はゴール代わりの黒板。キーパー役の小松崎がジャンプして体操着袋を手の平で跳ね返し、周防エリサが歓声を上げる。
「コマ、やるぅ! さすがバレー部、恰好いいー! ナイスレシーブっ!!」
小松崎がちらっとエリサを振り向いて、八重歯を五ミリだけ出して笑う。小松崎も増岡も彼らと同じグループの山吹も黒川も、みんなエリサのことがちょっと好きだ。その好きはたとえば告白したいとか夜ごと思いを募らせるとかいう好きとは違うし、第一エリサには隣のクラスに中沢くんって彼氏がいるけれど、このクラスにエリサを好きじゃない男子なんているんだろうか。
エリサは大人びた化粧がよく似合う美人だし胸だって中二なのにDカップあるし、たしかにわたしと同じ十四歳なのに高校生みたいに見える。そんなエリサに微笑みかけられたり応援されたりしたら、どんな男の子だって悪い気はしない。
そしてそういうエリサだから、あたしは七年半もエリサの親友をやっている。
クリーム色の体操着袋がぽんぽん跳ねる。エリサに煽られ、三川明菜が横井和紗が相原桃子が、口々に叫ぶ。
「いけぇー増岡っ黒川っ! コマと山吹に負けるな、サッカー部でしょっ!?」
「サッカー部の意地見せてー!!」
「バレー部も頑張れー!!」
小松崎と山吹のバレー部チームと増岡と黒川のサッカー部チームに分かれての対決、教室の前の黒板がサッカー部チームのゴールで、後ろの小さい黒板がバレー部チームのゴール。種目がサッカーでサッカー部には有利な代わりに、手を使っていいのはバレー部だけってことになってる。
廊下側から数えて三列目の席五つを廊下側に四列目の席を全部窓側に寄せて、教室のど真ん中に幅二メートルくらいの細長いコートを即席で作ってるけれど、ほんとに狭いコートだから時々中二男子の大きな体が机や椅子に当たって、がちゃがちゃ音を立てる。昼休みなので教室内にいるのはエリサと増岡のグループを除いたらほんの数人だけど、その数人からそろいもそろって白い視線を浴びるあたしたち。
頭を寄せ合って宿題の写しっこをしている近江希重さんのグループが視界の端っこにいて、クラス委員の上原さんのしかめっ面が高ぶる心に水を差す。しかめっ面の理由は単にこっちがうるさいからだけじゃなくて、優等生な上原さんと不良っぽいエリサは折り合いが悪くて、対立してるわけじゃないけどグループ同士少し距離があるっていう裏事情のせいだけでもなくて、クリーム色の体操着袋が高橋文乃のものだからだと思う。
そもそも、こんな子どもっぽい遊びが始まったのはエリサのせいだ。昼休み開始早々、「高橋」って書いてある体操着をエリサが増岡たちに差し出し、「ねぇねぇ、これあげるから増岡のシュート見せてよー」って言ったのがきっかけ。
文乃にそれほどひどいことをしてるとは思わない。体育館裏やトイレに連れて行って殴ったり蹴ったりしてるわけじゃないし、万引きを命令したりお金をとってるわけでもない。あたしたちがすることっていったらせいぜい上ばきやハンカチを隠したり、教科書に接着剤を塗りつけて開けなくしたり、給食の時に机をくっつけ合うのに文乃のだけ離してみたり。
そんな小学生レベルのいじめに立ち向かっていかず、黙っていじめられっぱなしの文乃のほうが、いじめの加害者としてはヒヨッ子レベルのあたしたちよりずっと問題あると思う。文乃があんなキモい顔をしてなかったら、性格が暗くなかったら、勉強が出来てトロくなかったら、普通にちゃんと友だちがいたら、同じ目には絶対遭わなかったんだから。
とはいえ優等生の上原さんたちの視線は、自分たちの行為が「いじめ」だってこと、大したことないいじめ方だろうがいじめられる文乃に原因があろうが、あたしたちがやってるのは批難されるべきことだって思い知らせてきて、背筋がざわざわする。文乃に悪いとは思わなくても、あたしたちへの非難を内側に込めたしかめっ面は、少しだけ気になった。
大丈夫。みんな正義感をふくらませる一方で本当は文乃なんていじめられても仕方ないって思ってるし、こっちにはあのエリサがついてるんだし。背筋のざわざわを振り払うように、いけーっ! とか、違うそっちそっち! とか、明菜たちに負けじとあたしも騒ぐ。
あ、と桃子があさってのほうを見やる。何なに? と振り返って、あたしの目はちょっと見開かれる。
友だち一人いないくせに席を離れて校舎のどこかで時間をつぶしてた文乃が、いつのまにか教室に戻っていた。教室の後ろのドアのとこで、いつもの腐った魚みたいな目を宙に漂わせ、ぼんやりしている。
文乃に気付いたエリサかサッカーに夢中な増岡たちの間に入っていってゲームをやめさせ、「高橋」ってマジックで書いてある体操着袋を受け取る。文乃に近づいていくエリサは、既に唇の端が意地悪く上がってる。
「高橋さん、ごめーん。今体操着、借りてたぁ」
エリサを中心に、昼休みの教室にひりひりした空気が広がっていく。肩をつっつきあってニヤニヤしながら楽しそうに文乃を観察する明菜たち、やっぱりニヤニヤ顔の増岡ら男子。さっきあたしたちに向けられていた批難の視線が、ほんのり暗い興奮と緊張感を帯びたものに変わっている。
たしかにあたしたちはいじめっ子だけど、このクラスの誰にもあたしやエリサをとがめる権利なんてないと思う。文乃にほんのちょびっと同情はしても結局何もしないわけだし、なんだかんだ、いじめを面白がってるんだから。
エリサから体操着を受け取った文乃は長いいじめられ経験のせいで何か感じるものがあったらしく、すぐに袋の口を開いた。まもなく、中からびっしょり濡れたハーフパンツが引っ張り出される。エリサのわざとらしい声。
「わぁー、高橋さんのハーパン、ひどっ。五時間目体育じゃん、どうするつもりぃ?」
わーぉ、と小松崎がにやつきながら呟いて、明菜たちがプッと笑いをこらえる。いじめに直接参加しないギャラリーの視線も、温度を上げる。みんなの注目の中心で、文乃は俯いてエリサの横をすうっと通り過ぎて行った。
あれ、って和紗が声を漏らし、増岡が肩すかしを食らったような顔をする。文乃はとっとと自分の席に歩いて行って、濡れたハーフパンツを抱えたまま蹲る。それだけ。
もともと、文乃はいじめられても反応が薄かった。ものを隠されたって聞こえよがしに悪口を言われたって、嵐が通り過ぎていくのをじっと待つように俯くだけ。まるで、自分がどうしたっていじめられる存在であることを諦めているように。
でもここまであからさまにやられても、泣きも怒りもせず黙ってるだけなんて。
悪い予感がしてエリサのほうを見ると、案の定、エリサのきれいな顔は悔しさ全開で美人が台無しになっていた。みんなの前ではあんまり感情を露骨に出さないエリサだけど、マスカラとアイラインで縁取られた目には今、文乃への憎しみが煮えたぎっている。
体育の山村先生は、八の字の下がり眉とスポーツマンには不似合いななで肩が特徴的な三十始めの男の先生で、見た目通りいつもニコニコしてて滅多に声を荒げたりしない。加えて水曜日の五時間目の体育は、この後先生が厳しくて席の順にあてられる数学を控えてるから、甘い山村先生が担当する体育は嵐の前の静けさ又は戦闘前の息抜きって感じで、誰も真剣にやろうとしない。
今日はマット運動。体育館に等間隔でずらっと並べたマットを使って、好きな者同士のグループでみんなわいわい、おしゃべりの合間に腕立て側転や倒立前転を練習している。あたしは当然、エリサ、明菜、和紗、桃子、そしてあたしの五人グループ。床にぺたんと座って輪を作ってるから、冬が日に日に近づいてくるこの時期の寒さがハーフパンツ越しにお尻に染みるけど、一生懸命しゃべってると体温が上がるのか、誰も気にしない。
「えーじゃあ和紗、まだキスしてないのー?」
夏休みにブリーチしたせいですっかり傷んでしまった長い髪に手ぐしを入れながら明菜が言うと、和紗はちょっとほっぺたを赤くして声が大きいとたしなめる。陸上部の和紗は同じ部の先輩と半年前から付き合ってた。
「してないよ。手は時々繋ぐけど……」
「マジ? 鈴木先輩ヘタレじゃん! あたしなんて付き合って三週間でヤッちゃったよ?」
こういう話は得意分野な桃子は、中二なのに既に処女じゃないっていうツワモノで一目置かれてる。あからさまな言葉に和紗がますます赤くなる。すかさず明菜が純情ちゃあーんとからかった。
「純情ちゃーん、いいねぇ、中学生らしいお付き合いってやつ? 甘酸っぱぁい」
「そう言う明菜だってまだ処女じゃん」
真っ赤な顔で負け惜しみみたいに言う和紗。しかしディープキスとその「ちょっと先まで」経験済みと公言している明菜は余裕の表情。
「てかさぁ、エリサって中沢くんとどこまでいってるの? もうだいぶ長いよねー?」
桃子が話題をエリサに移して、グループいちの、いやクラスいちの美少女に注目が集まる。アイロンで巻いた髪をいじくってたエリサが顔を上げ、ちょっと目を見開いてから、いたずらっぽく笑った。
「そういうのは二人だけの秘密だから」
「うわー出た、エリサの”二人だけの秘密”!!」
「秘密ってのが一番怪しいんだよねぇ」
「てか、エリサと中沢くんだもん。ヤッてるの確定じゃね?」
ちょっとそれどういう意味よーと明菜の肩を突っつきながらエリサはニコニコしてて、三人はくすぐられてるみたいにきゃらきゃら笑ってる。まだ男の子と付き合ったことがなくて、それどころか人を好きになるって感覚自体よくわからないし、みんなに追いつきたいからってそういうことを始める気にもなれないあたしは、このテの話題の時は自然とだんまりになる。
あたしたちはごく普通のギャルグループだ。見た目がちょっと派手なだけで、夜遊びはしないしエンコーや万引きとは無縁だし、タバコは吸わない。先生にだって無駄にさからったりしないしそこそこうまくやってける。上原さんとことかウマの合わないグループはいてもホンモノの不良みたいにクラスで浮いてるわけでもない。みんな共通して成績はあんまよくないけど、みんな共通してそんなのどうでもいいって思ってる。
時々見た目で差別されるから、ここで強調しとく。あたしたちがやるのは化粧と先生に目をつけられない程度にちょこっと髪の色を抜くことと制服のカスタマイズと、一般的な中学生より少し進んだ恋愛、そしてヒヨッ子レベルの可愛らしいいじめ。断じて不良なんかじゃないのだ。
明菜と桃子が、ほんとになんもないの? とかじゃあ先輩とキスしたいって思わないのー? とか、両側から和紗を問い詰めて和紗は首から上をトマトみたいにしてる。そんな三人からちょっと離れたエリサがあたしににじり寄ってきて、耳に口を近づける。シャンプーだか制汗剤だか、薄くつけたコロンだかの匂いがふんわり鼻腔を刺激した。
「ねぇ、どう思う? さっきの文乃の反応」
「昼休みのこと言ってるの? たしかによくもまぁ、あそこまでされて黙ってられるよね。あたしならキレてるもん。まぁそこでキレたりやり返したり一切しないのが、いじめられ体質ってか。イタいよねー」
エリサの目つきが尖る。あたしが期待外れの言葉を口にすると、エリサはいつも露骨なぐらい不快感を顔に出す。
「鞠子さ、つまんないとか思わないの? あたしはその、文乃をキレさせたりやり返させたりがしたいの。そこでうちらに立ち向かってきたとこをけちょんけちょんにして、そんなのムダだって思い知らせたいわけ。そのほうが面白くない?」
さっきの悔しさがまだ生々しく残っているのか、不機嫌だ。いちごミルクの色に塗った指先が髪の毛をいじる仕草が止まらない。イライラしてる時や何か嫌なことを考えてる時、エリサはよく髪の毛をいじるって、この子と付き合いの長いあたしは知ってる。
「文乃、石みたいじゃん。何やっても泣かないし怒んないし、蒼衣みたくニヤニヤ笑ってごまかしたりもしないし。あんなんじゃ、マンネリ化しちゃうよ。最近あいついじめても、みんなあんま楽しそうじゃないしさ」
「そんなことないよ、みんな楽しんでるって」
このままだとまた文乃いじめがまたエスカレートしそうで、それはヤバイからなんとかエリサをなだめなきゃいけない。しかしあたしの気持ちはまったく伝わらず、エリサはイライラしつつも少し憂鬱そうに唇を尖らせる。
「そうかなぁ。今日なんて文乃、うちらのこと完全にスルーじゃん。鞠子はああいうのムカつかないの?」
「そりゃあちょっとはムカつくけど」
「でしょでしょ? あたしはさ、みんなをムカつかせたいんじゃなくて、みんなにもっと楽しんでほしいの。文乃を使ってね。今のまんまじゃつまんないもん」
つまんないならやめればいいじゃん。という言葉を飲み込む。みんなにもっと楽しんでほしいんじゃなくて、みんなを楽しませることで自分がみんなの中心にいたいんでしょう、という言葉も。エリサに本当の気持ちを言っちゃいけない。エリサといる時は常に、わがままなこの子の機嫌を取らなきゃいけない。だってあたしはエリサの親友なんだから。エリサに一番近い存在があたしなんだから。
ほんとに言いたいことを喉元に留めて無難な台詞を探していると、山村先生の声に助けられた。
「あらあら、そこは練習しないでしゃべってばっかりだねー。来週は倒立前転のテストやるのに、いいのかなぁ」
「はあっ何それ!? 聞いてないしマジで!!」
「うっそーそんなの初耳! 先生、いつ言いましたぁ?」
「さっき言ったじゃんさっき。君たちが聞いてなかっただけぇー」
明菜たちがぶうぶう文句を言いつつもようやく重い腰を上げ、マットに向かう。エリサも渋々、って感じで立ち上がった。吐き出せない不満でほっぺたがむっつり膨らんでいる。そういう顔をしていてもさすが、美少女は可愛い。
体育館の端っこ、使わないマットが積み上げられている見学者席で、所在なさげに座ってる文乃が見えた。ハーフパンツをエリサにぐちゃぐちゃにされてしまったせいで、体育に出れない文乃。ほんと、バカでブスでグズで暗くて、みじめな子だ。
ああいうふうになりたくないから、あたしはエリサと一緒にいる。