「そうそう、この前久しぶりに、文乃ちゃんのお母さんに会ったのよー」
お母さんがお父さんのお茶碗におかわりをよそいながら言う。文乃の名前を聞くだけで、少しドキッとしてしまう。
あれほど仲が良かったうちのお母さんと文乃のお母さんも、引っ越し以来疎遠になっていた。といっても二人はわたしと文乃みたいに、気まずいわけではないみたい。年賀状のやり取りだってしてるし、PTAの会議とかで顔を合わせれば立ち話ぐらいはする仲。
「どうだった? 文乃のお母さん」
話題が文乃のほうに行かないように文乃のお母さんに話を持っていく。お母さんはわたしが頬を強張らせてることになんか気づかないゆったりした口調で答える。
「うん、元気だったわよー。やっぱり仕事してる人は、違うわねぇ。あの人、お母さんより二つ年上なのよ。なのにお母さんよりずっと、若々しくてきれいで」
「仕事だったらお母さんだってしてるじゃない」
「仕事っていっても、お母さんはスーパーの惣菜売り場だから。文乃ちゃんのお母さんは、ファッション雑誌の編集長だもの。すごいわよねぇ」
羨望を含んだお母さんの声に、魚の小骨が喉に引っかかるような心地の悪さを覚えた。
古い記憶の中にある、文乃のお母さんの姿を思い出す。たしかに文乃のお母さんは小さい頃のわたしから見てもばりばり働くキャリアウーマンで恰好良くて、普通のおばさんを絵に描いたようなうちのお母さんより、ずっと若々しくて素敵だった。
でも、あの人は、自分の娘が学校でいじめられてることを知ってるんだろうか。知らないんだろうか。知っていて何もしないんだろうか。知っていて何もできないんだろうか。
別に文乃がいじめられるのが文乃のお母さんのせいってわけじゃないけれど、自分の子どもがいじめられてるのに何もしない・できない親って、いい親とは言えないと思う。
「文乃ちゃん、今、同じクラスなんでしょう。たまにはうち、連れてきなさいよ」
お母さんがそんなことを言い出すので本気で慌てた。話がこういう方向に行くことをさっきから恐れてたんだ。お父さんまで言う。
「うん、それがいい。希重が小さい時は、よくうちで一緒に遊んでたしな」
「無理だから、そんなの」
ついムキになって、声が強くなる。お母さんが顔色を変えて、しまったと思った。
「無理って、どうしてよ」
「いや、だから。わたしはわたしで、文乃は文乃で、別の人と仲いいから、だから……」
どうしてもしどろもどろになる。普通の中学生はこんな時、もっとスムーズに親に嘘がつけるんだろうけれど、わたしは無理。お父さんもお母さんも好きだから、嘘がつきづらいんだろうか。もっと親を嫌いになれたら、嘘ぐらいすいすい出てくるんだろうか。
「そういうことね。びっくりした。希重がいじめられてるのかと思っちゃったじゃない」
ほっとしたお母さんの口調のせいで、喉の奥が苦しくなる。さっき飲み込んだばかりのごはんと餃子とほうれん草のバター炒めとじゃが芋の味噌汁が、胃の中で逆回転を始める。
今、違うって言えたらどんなにいいだろう。違うのお母さん、いじめられてるのはわたしじゃなくて文乃なの。辛いのはわたしじゃなくて文乃なの。でもわたしは文乃になんにもしてあげられなくて、むしろ文乃と友だちだったことを恥ずかしくすら思っていて、そういう自分がすごく嫌だ。
そう言えたらどんなにいいかと思うけれど、そうしたらお母さんを傷つけてしまう。郁子の場合と、一緒。お母さんもお父さんも大好きだから、自分の娘がいじめられているかつての親友をほうっておくような、自分のことだけしか考えない、そんな情けない子だって知られちゃいけない。
娘の複雑な思いなんてちっとも気付かない顔でお母さんは餃子をつまんでる。
「そうよねぇ、希重ぐらいの頃って、付き合う人がころころ変わるのよねぇ。お母さんもそうだったわぁ。クラスがえのたんびに友だち、変わってたもの」
お母さんは何も知らない。本当に優しくていいお母さんだし大好きだけど、悲しいぐらいわたしのことを知らな過ぎる。こっちだって知られたくないことを知られないようにしてるわけだから、「お母さんはなんにもわかってくれない」なんて泣きながら文句を言う資格はないんだけれど。
同じく、何も知らないお父さんがわたしを見て、ちょっと真面目な顔になって言う。
「希重、いろんな人と付き合うことも大事だけれど、親友を作ることも忘れちゃいけないよ。大人になってからは仕事が第一だから、友だち作りはあと回しになる。遊びや友だちを作ることを精いっぱいできるのは、希重の年ごろだけなんだからね」
ありきたりな大人の言葉だと思ったけれど、素直に頷いた。親友、と聞いてまず郁子の顔が浮かんだ。次に文乃。ねぇ、じゃあ、親友って何? よく思われたくって言いたいこと言えなかったり、辛い時に助けてあげられなかったり。それでも親友って言っていいの?
そう言えるほどこなれた親子関係は、わたしと大好きなお父さんお母さんの間には、ない。
今回の理科の実験のグループは好きな者同士でよくて、そのせいで理科室は騒々しい。実験自体はぶら下げた導線の近くにU字型の磁石を置いて、電流を通した導線が磁石のN極側とS極側どっちに動くか調べるっていうひどく退屈なものだったから、みんな単純な作業はさっさと終わらせちゃって、好きな者同士よもやま話で盛り上がってる。
ほらー、しゃべってばっかいない。実験終わった班はさっさと、レポート書くう」
あまりのうるささにしびれを切らしたように、いつもは着ない白衣でびしっと決めた理科の溝口先生が言う。レポート用紙は黒板に一番近い実験台に38人分まとめて置いてあって、グループごとに取りに行く。うちのグループはまだレポート用紙を取ってきてないからわたしが立ち上がると、ありがと希重! と郁子が顎の前で手を合わせた。
レポート用紙がのっかってる実験台に文乃が座っていて、ぎょっとした。教室の中ではいつもそうしているように、膝の上で手のひらを揃え伏し目がちでじっとしている。息もしてないんじゃないかと疑うほど全然動かなくて、まるで主を失った操り人形みたいだと思ってしまった。文乃の向かい側には所在なさげに教科書をめくってる犬飼亜沙実さん。近づいたわたしに気付くとはっと顔を上げ、媚びるような表情になる。
「レポート? 取ってあげる」
「あ、ありがと」
上ずった声でお礼を言いながら、反射的に媚びた目から逃げていた。
犬飼さんは最近、市井風香さんや谷本美晴さんのグループから離れて、もっぱら一人でいる。なんで市井さんたちと仲良くなくなっちゃったのかは知らないだけど、とにかく最近の犬飼さんはいじめられていないだけで、文乃とよく似たポジションにいる。一人ぼっちの犬飼さんは一人で行動している子を見るとすかさず話しかけてきて、そのせいで近頃クラスの女子の間で煙たがられていた。
「はい、どうぞ」
気持ち悪いぐらいの笑顔でレポート用紙を手渡す犬飼さん。もう一度ありがと、と短く言ってその場を立ち去ろうとするけれど、矢継ぎ早に次の言葉をかけられる。
「ねぇねぇ、そういえばあの犯人、まだ見つかってないの? ほら、体操着とかの」
犬飼さんはわざとらしい笑顔で、それは決してひとの不幸を笑ってるわけではないだろうけど、わたしの身に起こったことを非日常の出来事として面白がってるようなその顔にどうしても不快感がこみ上げてくる。
犬飼さんが言ってるのは、一学期の終わりから二学期の初めにかけて起こった、一連の盗難事件のことだ。わたしのものばっかりが、立て続けになくなった。最初は上履き、次はリコーダー、そして食べ終わった後のお弁当箱、使用澄みのスクール水着に体操着。
最初はいじめられてるのか、誰かがわたしに悪意を向けているんじゃないかって、ぞっとした。大丈夫? て心配して声をかけてくれるみんなの優しささえ、実はこの人がって疑ってしまうほどに。でも、みんなもわたしも、すぐに気づいた。犯人はきっと男子。悪意じゃなくてべとっと粘つくようなおぞましい好意が、彼を盗みに駆り立てているのだと。
吐き気を催すような恐ろしいことだった。なくなった上履きやリコーダーがその後どうなったかなんて、想像したくないのについしてしまう。好きという気持ちがエッチなものと結びつく、それはそういうものなんだなぁと納得はできても、理解はできない。性欲の意味すらよくまだよくわからないのに、そういう欲の対象にされるなんて、怖すぎる。
だけどなぜか二学期が始まってしばらくして被害はぱったり止まって、あれだけ心配していたお母さんも友だちもほっとしてくれて、わたしすら事件のことを忘れかけていた頃なのに、なのになんで嫌なことをわざわざ思い出させようとするの、犬飼さん。
「見つかってないよ。見つかってたら、HRとかで報告するでしょ、先生も」
きつめの口調で言ったつもりだけど、犬飼さんはちっともめげない。
「そっかー、早く見つかるといいね。でも、ちょっとすごいな。そんなことされるのって、近江さんがそれだけ好かれてるってことじゃん」
「そんな好かれ方しても、嬉しくないよ」
「ちょっとは喜びなよ、近江さんかわいいんだし。自分じゃ気づいてないかもだけど」
喜びなよ? そんなこと、無責任に言わないで。かわいいって、お世辞のつもりなの?
一人が寂しいのはわかるけど、出す話題がそれぐらいしか思いつかないんなら話しかけないでほしい。
希重―、と潮美の声がして、わたしと犬飼さんは同時にそっちを向いた。三人ともこわばった顔でこっちを見ていて、潮美が素早く手招きする。じゃあね、と愛想笑いを添えて犬飼さんに言うと、うんまたねっ、と犬飼さんは痛々しい満面の笑みを見せてくれた。
「大丈夫だった?」
席に戻るなり、心配顔の潮美にそう言われた。小さく頷くと潮美がさっと顔を寄せてきて、ひそめた声で、でもちょっときつい口調で言う。
「希重さあ、ああいう時向こうのペースにつりこまれちゃだめだって。今忙しいから、とか言ってさっさと逃げてきちゃえばいいんだよ。犬飼さんと仲良くする気、ないんでしょ?」
叱られた子どもみたいに、うなだれながら首を振った。
なんで犬飼さんがこんなに女子に煙たがられているかっていったら、最近の犬飼さんがとにかくウザくて情けなくて痛々しいからだ。市井さんや谷本さんといた時はそういう人じゃなかったのに、一人でいると思春期の女の子は急に弱くなるみたい。
もちろん一人でいる犬飼さんをかわいそうだとは思う。あんなふうに必死になる気持ちがわからないわけじゃない。でもだからこそみんな、犬飼さんを遠ざけたいんだ。誰もが持っている、だけど目を逸らしておきたい部分を取り出して濃縮したのが今の犬飼さんだから。
「犬飼さんさぁ、今誰といるの?」
郁子が渋い顔で言って、潮美が犬飼さんの実験台を見やる。
「高橋さんだね。あとは先生」
「完全なあぶれ者グループだね」
美織が薄い苦笑を添えて言う。
いじめられっ子と先生と、一緒のグループで実験だなんて。犬飼さんにとってはこれ以上プライドに堪えることなんてないだろう。潮美がまた声をひそめた。
「そもそもさぁ、犬飼さん、なんであんなことになっちやったの? ついこの前まで風花たちとかとさんざんつるんでたじゃん」
「吹奏楽部の友だちが言ってたよ、なんか部活でウザいからってハブかれてるって。いやわたしも、詳しいことわかんないけど」
美織が自信なさそうに付け足す。でもなるほどそれが真実のすべてなんだろう。ウザいからハブかれる、わたしたちの世界ではいじめられるのに十分な理由だ。
「そっかぁ。犬飼さん、クラスでも吹奏楽部のグループだもんね」
「吹奏楽部ってなんか、怖くない? 去年もなんかあったみたいだし。こういう、いじめみたいなの」
「まぁしょうがなくない? 自業自得でしょ? 犬飼さん、ちょっとキツいとこあるしさ」
潮美が冷やかに言って、美織がまぁね、と頷いた。
自業自得、かもしれない。大抵、いじめられる子っていじめられる原因を持ってる。何も原因がなかったらいじめられたりハブかれたりしない。犬飼さんがキツい性格じゃなかったら、文乃が明るかったら、二人ともあぶれ者のグループなんかで実験しなくてすんだのに。
でも、じゃあ、いじめられる原因を持ってたらいじめていいんだろうか。
いじめる側に、いじめを放置してる側に、本当に問題はないんだろうか。
ある程度のいじめってしょうがないしどうしたって起こるもんだし、いじめられる側にも悪いところはあると思う。でもその論理って、いじめの責任から目を逸らしているからこそ、自分は悪くないと思いたいからこそ出てくるような気もして。
いじめたりハブったり、悪いことかっていったら悪いことなんだ。いくらいじめられるほうがウザくても、性格がキツくても、暗くても可愛くなくてもキモくても。
正しいことはいつもちゃんとわかってる。でも正しい行動を取ることは難しい。本当に。
「うっわーエリサやめてよ、それってセクハラ! いやー磁石つめたっ」
うるさい声が聞こえてきて振り返ると、案の定周防さんたちだった。周防さんがU字磁石を三川さんの太ももに近づけていて、みんなでセクハラだなんだと盛り上がっている。実験のグループは四人グループだから五人の周防さんたちは一人余っちゃって、横井さんだけ増岡くんたち男子のグループに入ってるけど、隣同士の実験台に陣取ったものだから、結局休み時間みたいに八人で大騒ぎになってる。
もちろん溝口先生が周防さんたちをほっとくはずもなく、さっきよりも鋭い声を投げる。
「おいそこ、うるさいぞ。実験が済んだらさっさとレポート書くっ。このレポート、成績つけるときに使うからなー」
それでようやく少しおとなしくなり、みんな机に向かってカリカリとシャープペンを走らせ出した。郁子が感心半分、呆れ半分の顔で言う。
「まったく年がら年中、よくあんなうるさくしてられるよね、周防さんたち。エネルギーありあまり過ぎでしょ」
ほんとほんと、と潮美と美織が頷き、自分たちも書きかけのレポートに目を落とした。
たしかに周防さんたちはいつもうるさい。それはわたしと違って、目立つことを厭わないから。目立って当然の美貌と存在感があることを、自分でよくわかっているんだろう。周防さんも三川さんも横井さんも半田さんも相原さんも、そういう人たちだ。
遠い実験台でシャープペンの端っこを咥え、物憂げな横顔でレポートに向かってる周防さんを見やる。中二なのにほんのりアーモンド色に染めてコテで巻いた髪、化粧を施した大人っぽい顔、ブラウスの胸を突き破りそうな胸のふくらみ。周防さんはわたしにないもの、わたしが欲しいものを持ちすぎている。だからわたしはやっぱり、周防さんが怖い。
不器用だし運動音痴だからテニスは好きじゃないけど、部活は好き。休憩時間に部活の友だちと騒ぐのも、終わった後みんなでクレープを食べに行くのも、帰るとお母さんが疲れたでしょ、よく頑張ったねって氷いっぱいのポカリを出してくれるのも好き。つまり不器用で運動音痴でテニスが好きじゃないからこそ、部活を好きでいられるんだと思う。
女子テニス部用のコートは大きいのとひとまわり小さいのとがあって、二・三年生は二手に分かれて練習する。大会でレギュラーに選ばれる上手い人たちが大きいほうで、そうでない人たちが小さいほう。
一年生はコートの外側に追いやられ、素振りとか腕立てとか基礎トレを義務づけられている。ついこの間まで小学生だった幼い顔たちが苦しそうに息をしていて、わたしも一年前はそうだったなぁとかぼんやり思っていると、大きいコートから先生の怒鳴り声が飛んでくる。
「上原! ちゃんとボール見る! あとフォーム乱れてるぞ!」
怒鳴られてるのは郁子だった。叱られてビビったり、ふてくされた顔をしないで、ハイッと自衛官か警察官みたいな返事をして、ラケット片手にボールを追いかける。先生は容赦なく、次から次へと球を放つ。飛んでくる球をひとつひとつ、無駄のない動きで打ち返す郁子。その目は獲物を狙うハンターを思わせる真剣さで、真っ黒に焼けたかりんとうみたいな足は日焼け止めを塗り直す暇もないぐらい、テニスへの情熱が漲っている証拠だ。
毎日、先生にコーチとしてつきっきりで練習を見てもらえるのはレギュラーの特権。厳しい代わりに、みんな着実に上達していく。一方、レギュラー以外の部員は小さいコートに集まって打ち合いしたり、一年生の指導。同じテニス部なのに、やってることはまったく違う。大きいコートと小さいコート、きつい練習とゆるい練習。
レギュラーの人たちを羨ましいとは思わない。あんなに厳しく怒鳴られるぐらいならレギュラーになんてならなくていい、別に上手くなくていい。そう考えちゃうわたしは、典型的な今どきの甘ったれたお子さまだ。
そんな今どきのお子さまの目にも、大きいコートの上でボールを追いかける郁子は眩しい。わたしや潮美たちと話してる時は能天気に笑う顔は、今はきゅっと引き締まって、顎のラインも部活の時だけはシャープに、大人っぽく見える。いくら厳しくされても怒鳴られても負けない、郁子には全力で打ち込めるものがある。だから郁子はたぶん、わたしなんかより広い世界を生きている。小さいコートと大きいコート、狭い世界と少し広い世界。
「ごめん、取ってくるね」
郁子のほうを気にしてたらコントロールがおろそかになって、放ったボールはとんちんかんな方向に飛んでしまい、コートも校庭をぐるりと囲む桜並木も飛び越えて、グラウンドの外に落ちてしまった。打ち合いをやってるとたまに、こんなことがある。
相手の子はいいよ別に、とにっこり言ってくれて一緒にボールを取りに行こうと申し出てくれたけど、断った。テニスコートがある校庭の隅っこからグラウンドの外に行くには裏門から出るのが一番の近道で、ここから裏門までは結構な距離がある。
陸上部が陣取っていて放課後も賑やかな正門とは対照的に、裏門は日も当たらないし植物の手入れなんかもあまりされていなくて、ひっそりしている。日陰の空気のじめっとした臭いと放置された土の臭いが鼻を突いた。門構えも、学校の名前が掘ってあるどっしりした石柱が建っている正門と違って、裏門は何かの蔦が絡み付いた錆びついた黒いフェンスだ。外に出る時、膝が錆びたフェンスの一部に当たって、きしっと嫌な音がした。
裏門の横に生えている桜の根元に、文乃が蹲っていた。さっきの嫌な音に反応したかのように顔を上げ、いつものどんよりした目でわたしを見ている。唐突な出会いにちょっとびっくりした。夏にはさんざん毛虫に食われた桜の木は茶色く乾いた葉っぱを既にほとんど落としてしまっていて、蹲った文乃の足もとには穴だらけの落ち葉が積もっていた。
「そこで何、してるの?」
話しかけるか話しかけるまいか、考える前に言葉が飛び出した。教室以外での不意打ちの出会いに、わたしは驚いていた。文乃がめくれ気味の分厚い唇をもごもごと動かす。
「待ち合わせ」
「こんなとこで? 誰と?」
「んー、友だち?」
もっと驚いた。文乃に友だちなんて一人もいないと思ってた。
「そっか。一緒に帰るんだね?」
好奇心からその場を立ち去りがたくて、会話を続けた。さっさとボールを取りにいかないでここで待っていたら、文乃の友だちに会えるかもしれない。文乃がわたしの言葉に小さく頭を動かした。冷たい夕方の風が吹いて、つやのないごわごわしてそうな髪が揺れる。
「わたしは、ボール取りにいくところなの」
文乃は反応しなかった。蹲ったまま、視線を足元の、なんにもないアスファルトの上にさまよわせている。
「間違えて、外にやっちゃって」
文乃はやっぱり反応しない。
いじめの被害者と傍観者に分かれ、疎遠になってしまったわたしたちは、しゃべろうとしてもいつもこんな感じで会話が全然続かない。昔はもちろん、そうじゃなかった。わたしはまだ、文乃と交わしたいろんな言葉を覚えている。
「ねぇねぇ、きえちゃんって大人になったらファッションデザイナーになるの?」
小二の図工の時間、文乃はそう言った。画用紙に「大人になったらなりたいもの」って題で絵を描く課題で、隣の席の文乃が短い首を伸ばしてわたしの画用紙を覗き込んでいた。三月の初めのあったかい日で、窓からやわらかい金色の日差しが差し込み、文乃が着ていたたんぽぽ色のセーターがところどころ金色に光る。このわずか数か月後、わたしと文乃は大きく隔たってしまうんだけど、文乃もわたしも、この時はまだそんな運命は知らない。
「違うよ。ファッションデザイナーじゃなくて、洋服屋さん」
画用紙の中の大人になったわたしの背景には、いっぱい服が描いてあった。赤い花柄のブラウス、ピンクのドット柄のスカート、緑のストライプの帽子。カラフルな服たちはそのまま、小さいわたしが無邪気に想像していた幸せいっぱいの未来そのものだった。
「洋服屋さん? この前はお菓子屋さんって言ってなかった?」
「それは、今のなりたいものランキング三位。今のきえのなりたいものランキングは、三位がお菓子屋さん、二位がパン屋さん、一位が洋服屋さん」
週ごとになりたいものが変わってたあの頃、今よりずっと広い世界を持っていた。今は自分が何になりたいのかよくわからない。お母さんとそういう話をするといつも「仕事をするって大変なのよ。どんな道を選ぶにしたって覚悟がいるんだから」なんてことを言われる。つまり今どきの甘ったれたお子さまなわたしにとって、実社会とは想像以上に厳しい牢獄のようなところらしい。
厳しいことが苦手なわたしは、圧倒的な現実を前に夢をふくらますことが出来なくなっていた。情報化社会の二十一世紀、テレビも新聞も盛んに大人社会の暗さや厳しさを訴えていて、子どもだってそこから目を逸らせない。結局、「楽しいのは今だけで大人になったら大変なことばっかり待っている」っていう大人の言葉を鵜呑みにして、霧の中にあるようなぼんやりとした将来を思って、暗くなるだけだ。
小二の文乃はにんまり笑って、嬉しそうに言った。
「そっかぁ。じゃあフミは、ファッションデザイナーになろっ」
「えーなんで? フミ、この前はふじんけいかんさんになりたいって言ってたよ」
「それは、今のなりたいものランキング二位。一位はファッションデザイナー。フミがファッションデザイナーになって、きえちゃんがフミがデザインした服を売るの。そしたら大人になってもずっと一緒だよ、うちら」
文乃の無邪気な言葉は素直にわたしを喜ばせた。飼い主に忠実な犬のように「きえちゃんきえちゃん」とつきまとってくる文乃。そんな文乃が、たしかに愛おしかった。
わたしが文乃を拒絶して文乃がわたしと親友でいることを諦めて、五年。大人になってもどころかほんのちょっと先の未来でも、わたしたちは一緒にいれなかった。文乃はどうしてもいじめられるタイプで、わたしはそうじゃなくて、そのことが二人を決定的に引き裂いていた。
黙り込んでしまった中二の文乃の前で、気まずくてどうしたらいいのかわからない。このまま何事もなかったように通り過ぎてしまおうか、さっさとボールを取りに行こうか。でもそしたら、文乃の友だちが誰かわからなくなる。わたしは知りたい、今の文乃にとっての友だちが誰なのか。わたしと一緒に帰らなくなった文乃が、誰と下校を共にするのか。
静かな裏門に駆け足が近づく。足音の主はなかなか体重があるのか、ドッドッと重く鈍い響きが地面に伝わる。やがて錆びたフェンスの向こうからくるんと丸い頭が現れた。
「ふ、文乃さん」
どもる声に聞き覚えがあった。びっくりして振り返ると、同じくびっくりしている瞳と目が合った。河野潤平は文乃の名前を呼んだことを恥じるように、真っ赤になって俯いてしまう。制服のブレザーを着た肩ががくがくと落ち着きなく震えていた。
ひまわり組、つまり障がい者クラスの河野潤平っていったら、この学校で知らない人はいない。障がい者っていっても体のどこかが不自由じゃなくて、つまり不自由なのは頭のほうだから、どうしても悪目立ちする。お調子者の男子、うちのクラスでいうと増岡くんとかは時々、河野くんのどもるしゃべり方や、廊下で上げる奇声なんかを真似して、先生にきつく叱られていた。
女子たちはそういうことがよくないってもうわかるぐらいには大人だから、移動教室でひまわり組の前を通り過ぎる時、廊下でニヤニヤしたり奇声をあげている河野くんを見ても、知らんぷりでほうっておいて、話題にもしないけれど。
その河野潤平が、文乃の名前を呼んでいる。まさか文乃の待ち合わせの相手って、と思った瞬間、文乃がすっくと立ち上がった。
「遅い。何やってんのよ」
そう言う声はさっきまでと違ってもごもごしてなくて、すっと芯が通っていた。自分より10センチ以上背の高い河野くんを見つめる目はらんらんと不気味に光っていて、教室での文乃とは別人だ。
ちっとも事態を飲み込めてないわたしの前で、文乃が動いた。のしのし河野くんに歩み寄って、ひとつも飾りのついてないスクバを押し付ける。
「ほら、持って」
「は、はい」
「行くよ」
文乃がらんらんとした目のまま、一瞬こっちを見た。驚いているわたしを軽蔑するような顔だった。ふん、という声が聞こえた気がした。
文乃が踵を返して歩き出し、その二歩後ろを二人分のスクバを重そうに抱えた河野くんがついていく。文乃の足取りはしっかりしていて、家来を従える女王様みたいだった。