「文乃さん?」

 閉じかけていた瞼を持ち上げ声をかけた河野を見ると、苦しそうな顔の中で二つの目がきょとんとしていた。今日は『盗品』である希重のスクール水着を着せてブリッジをさせている。希重の小さな水着はぱっつんぱつんに伸びても裂けはせず、河野のでかい体をどうにか収めていた。女の子用の水着を無理やり着ている河野はそのどこを見ているかわからない目つきのせいもあって、完璧に不審者で笑える。

寒い。くるぶしのところまでたるんでいたソックスを膝まで引っ張り上げるけれど、気休めにしかならない。コンクリートむき出しの床は氷みたいで、隙間やヒビだらけの廃墟の壁は何からも守ってくれなかった。わたしがこれだけ寒いんだから、スクール水着しか着てない河野はシベリア並みの寒さを体感しているに違いない。その証拠に、もう五分以上も床に貼り付いてでかい体を支えている両手は火傷したように腫れて体積を増している。

「どうかしました、ぼうっとして」

「別にぼうっとしてないし」

「何かあったんですか」

「ほんとに何もないし、たとえわたしに何かあったとして、あんたに関係ないでしょ。それより、お腹下がってる」
だんだん下垂していく河野のお腹をスニーカーのかかとでつつくと、うっと河野は大げさな悲鳴を上げ再びお腹を高く持ち上げた。必死の形相が面白くて乾いた笑いが漏れる。

 わたしが鞠子にどう言われようがそれで傷つこうが、河野は訓練済みの警察犬のごとく一から十まできちんと言うことを聞く。ちょっと不思議だ。なんで河野はわたしにいじめられていることを大人に言わないんだろう。

ひまわり組の先生とか親とか、河野の周りには河野を守ろうとしている大人がたくさんいるはずなのに、なんでその人たちは河野をいじめから救えないんだろう。これだけのことをやられていれば普通は告げ口する。そうしないのは、特殊な構造をしている河野の頭では告げ口という手段を思いつけないからなのか、それともひょっとしてこいつはいじめられるのが大好きでむしろいじめられたいと思っているような変態ドM野郎なのか。

「ねぇ、なんであんたそんなにわたしの言うこと聞くのよ」

 こわばった河野の顔がえ、とこっちを向く。何か悪い予感を察したのか、最近はわたしの前ではだいぶどもらなくなっていた河野の舌はうまく回らない。

「な、なんでって。そ、そりゃ、聞きますよ。ふ、文乃さんのおお、おっしゃることなら、な、なんでも」

「だからそれがなんでかって聞いてるの、マジ頭悪いなあんた」

「だだ、だって、言わないとば、バラすって……み、水着のこととか、リコーダー、とか、いろいろ……」

「ほんとにそれだけなの?」

 河野はブリッジの姿勢のまましばし、考えるように目をきょろきょろさせた。実は僕変態ドM野郎なんですという告白を期待していなくもなかったんだけど、しばらくして河野は腕をがくがくさせながら邪気のない笑いを見せ、意外なことを言う。

「よ、喜んでくれるからだと思います。文乃さんが」

「はぁ?」

 本当に意味がわからなくてちょっとイラついた声になっていたにも関わらず、河野は臆さずに無邪気な笑顔のまま続ける。

「僕がしたことで喜んでくれる人がいるのが、嬉しいんです」

「……まだよくわからないんだけど。どういう意味よ、それ」

「その、僕は……いつも周りに迷惑とか、心配とか、かけてばっかりで。みんなは僕に優しくしてくれるけれど、僕は誰かを喜ばせたり、誰かの役に立ったり、そういうことがありません。僕は、馬鹿だから」
馬鹿。わたしも昔から何度となく言われてきた言葉。でも河野が自分で自分に言う『馬鹿』はわたしが何千回と投げつけられた『馬鹿』とは意味が違う。

それでいてそこには自虐的な響きがなく、どうしようもないことを観念して受け入れているような気がした。何かを諦めたり受け入れたりするのは、中学二年生にはなかなか難しい。でも『馬鹿』の河野はわたしと同じ中学二年生で、その難しいことをあっさりとやってのけている。いや、やらずにはいられなかったんだ、きっと。

「文乃さんとか、普通の人には、わからないですよね。こういう気持ちは」

「……そうかもね」

「だから、僕は、嬉しいんです。僕がちょっと痛いのとか苦しいのとかを我慢すれば、文乃さんは喜んでくれる。最初は嫌だったけれど、そのことに気づいてから、ここに来るのがあんまり嫌じゃなくなったんです」

 嘘のない河野の瞳に、笑顔に、言葉に、自分勝手な怒りが湧いてくる。

 河野は馬鹿じゃなかった。学校中から見下され蔑まされいじめられて、それでもヘラヘラ笑ってるなんて思い違いだった。河野はちゃんと、人間だった。誰かに喜んでほしいとか誰かの役に立ちたいとか、普通の気持ちを当たり前に持っていた。

 だけど河野のその願いが、こんな形でしか叶えられないなんて。脅されてこんな寒い日に身ぐるみ剥がされて変質者の格好でブリッジさせられて、それでわたしに喜んでもらえたって笑ってるなんて。河野自身にじゃない、河野の願いがこんな形でしか叶えられない現実に、世界をそんなふうに歪めた何かとてつもなく大きなものに、わたしは怒っていた。河野にこんなことを言わせているのがまぎれもなくこのわたしであるにも関わらず。

「それは、違うよ」

 怒りに任せてそう言っていた。河野がえ、と目を見開く。
「こんなことしなくたってあんたはちゃんと人の役に立ってる。あんたのお父さんとかお母さんとかは? あんたが生まれてきたってだけで、あんたが生きているってだけで、きっと喜んでるよ。あんたはちゃんと役に立ってるんだよ」

 途中から自分の言ってることの嘘くささに気づいていた。子どもはただ生まれてきたそれだけで無条件に親を幸せにする……? わたし自身が自分の言葉を信じられないくせに何偉そうなこと言ってるんだろう。わたしの前でちっとも笑ってくれない、怒りとか苛立ちとかの感情をぶつけるばかりのお母さんの姿が瞼の裏にチラチラする。
 河野が首を左右に振る。ブリッジしたまんまなのでごくかすかな動きだった。

「たしかにお父さんもお母さんも、文乃さんの言うとおり、僕が生まれたことを喜んでいるとは、思います。でもそれより、嫌なことや辛いことのほうが、ずっと多いんです。僕は馬鹿だから、わかってないとみんな思ってるけれど、ちゃんとわかります」

 中学二年生なりに知的障がいを持った子どもを育てる親の大変さを想像しようとする。電車やバスの中とか公共の場で奇声を上げられて冷ややかな視線を浴びることもあるだろう。周りの人の理解を得られないこともあるだろう。学校に通わせるのだって何が起こるかと気が気じゃないだろう。

 そういうことをまったく考えずに薄っぺらいきれいごとを言ってしまったのだと気づいて、恥ずかしくなった。うーもう無理、と河野がついに力つきて床に大の字に伸びてしまったけれどそれ以上いじめる気になれない。

 二人の間でしばらく無言の時間が過ぎた。冬の風が板が張られた窓を叩く音がしていた。希重の水着に白い体を押し込めた河野は苦しそうに喘ぎながら天井を見ている。

 毎日のようにここで一緒に過ごしていたけれど、わたしはこの時初めてブチブチ殺して遊ぶ虫の代用品としてでなく、一個の人格を持った人間としての河野を意識していた。

「悲しいなぁ」

 河野がぽつんと言った。言葉とは反対の妙に晴れやかな顔をしていた。

「何がよ?」

「もうすぐ、文乃さんと会えなくなるのが」

「……どういうこと」

「僕、もうすぐ転校するんです。いじめがひどいので」

 一瞬、窓を叩く風が止んだ。ほんとはそうじゃなくて聴覚とか視覚とか触覚とか、すべての感覚が一瞬だけフリーズしたんだけど。いきなり突きつけられた河野との離別になぜか心臓を握りつぶされたようなショックを覚えていた。

「なんでわたしがあんたをいじめてることがバレてるのよ」

「文乃さんじゃないですよ。他の、人のこと」

たしかに学校中からの河野いじめは前からひどかったし、何度も問題になってた。わたしがエリサやその他の人たちにされてきたのとはまた違う種類の、静かで陰湿で巧妙ないじめが河野に対して長い間行われていた。河野が障がい者だってことでこの問題を大きくしようとしている大人たちを、わたしは冷めた目で見ていた。

同じいじめられっ子なのにわたしには何もしてくれなくて、先生たちだってほんとはちゃんと知ってるはずなのにみんなそろって見て見ぬふりで、でも障がい者だからってだけで河野のためには正義感を振りかざす。偽善としか思えない。河野が羨ましいわけじゃないけど、河野が大人に守られているという事実はわたしをイラつかせた。

 当たり前だけど河野はちゃんと傷ついていた。他の人と少し違う構造の頭脳を持ってるからっていじめられる痛みを感じないわけじゃない。わたしが辛いことは河野も辛いんだ。そのことに気づいて、河野に抱いていたひりひりした感情がすうっと溶けていく。

「お父さんとお母さんが、先生たちとかいろんな大人と話し合って、決めました。このままだと僕のために、良くないからって」

 河野の顔の中で一番特徴的なのは、その目つきだ。どこを見ているのかわからない独特の瞳の動きで、誰もがすぐに河野が自分たちとは『違う』のだとわかってしまう。

 けれどその瞳はよく見れば夏の初めの空を思わせるようにすっきりと澄んでいて、きれいだった。

「先生とかみんなが、頑張ってくれたけど。いじめる人だけじゃなくて、僕を助けようとした人も、いたけれど。結局いじめは、なくなりませんでした。しょうがないんです。僕は馬鹿なので。普通の学校にいる限り、いじめられます」

「だったら転校したってまたいじめられるんじゃないの」

「今度の学校は、僕みたいな人しかいない学校です」

「それ、養護学校ってやつ?」

「よう……ご? たぶん、そうだと思います」
養護学校という単語は河野には難しかったのか、小さく首を捻る。

 その時わたしは、素直に思っていた。新しい学校で河野が楽しく過ごせればいいと。二度と河野が傷つけられることがなければいいと。自分だっていじめてたくせに、しかもそのやり方は他の誰よりもひどかったっていうのに、そう思っていた。

「文乃さん、元気にしていてくださいね」

 河野はまだ笑っていた。思春期まっさかりのドロドロを心にいっぱい蓄えた中学二年生には普通できない、透き通るような笑顔だった。

「文乃さんは怖いけど、たくさん痛いことも嫌なことも、されたけど。僕は文乃さんのこと、嫌いじゃないです。むしろ、好きです。あ、希重さんとは違う意味の、好きです」

「……当たり前でしょ。あんたに好きとか言われたら気持ち悪くて吐き気がする」

「でも、僕がいなくなったら寂しいですよね、文乃さん。泣かないで下さいね」

「ふざけんじゃねーよっ」

 河野の顔面を思い切り蹴り上げた。鼻と口の端から同時に出血し、赤いものが床に飛び散る。河野が怪我して家に帰ったら大人に不審がられるとかそしたらわたしのしてることがバレちゃうとか、冷静に考えられなかった。何度も何度も、顔面とかお腹とかばっかり狙って蹴り上げる。その度河野のくぐもった悲鳴が起こる。

 河野の言う通りわたしは泣きそうだった。泣きたい気持ちを暴力によって昇華させるように、足を振り上げた。

「調子乗ってんじゃないよ。好きだの泣かないで下さいだの、何様のつもりだよ。いつからそんな偉くなったんだよ。あんたにそんなん言われたって全然嬉しくないんだからな」
悲鳴の狭間でごめんなさい、ごめんなさと河野は繰り返す。それでもわたしは河野を蹴り続ける。痛みにのた打ち回り這いつくばって逃げようとする河野を追いかけ、既にくたくたになった足に力を込めた。

河野は泣いていたけれど涙と血でぐちゃぐちゃになった顔はどこか恍惚としていて、自分が取り返しのつかないことをしてしまったんだと気付く。わたしは河野の心の大事な部分を歪めてしまった。自分を大切にするための間違ったやり方を教えてしまった。

 でもわたしは今にも泣き出しそうなこの気持ちのままに行動する権利なんてないし、今さら河野に優しくしたって何にもならない。逃げ惑う河野をボコボコにする作業は、逃げるほうも追いかけるほうもへとへとになるまでたっぷり十分は続いた。それが終わると壁にもたれて血だらけではあはあ喘いでいる河野をほっぽいて、何も言わずに帰った。

 それが河野に会った最後になった。

「ねぇねぇそういえば河野潤平って転校したの?」

 明菜たちの間でその話題が出たのは河野がいなくなって十日ほど経った日の昼休みだった。

朝のニュースでアナウンサーが今年一番の冷え込みと伝えた寒い日で、今にも雪を生み出しそうな灰色の雲が地上すれすれまで垂れ込めている。一週間ぐらい前に教室の端っこに設置された古めかしいストーブの前に明菜たちは輪になって体育座りしていた。

それぞれの短くしたスカートの奥から赤とかピンクとかの毛糸のパンツが覗いている。見えてもいいパンツがあるということを最近になって知った。そもそも見えそうなほど短くしなきゃいいのに、明菜たちは生徒指導の教師に睨まれようが真冬の冷たい風に太ももを撫でられようが、ミニスカート以外考えられないらしい。

「はっ明菜何ソレ、河野潤平ってあのひまわり組の?」

「それ以外どの河野がいるのよ」

「あの人、目つきがなんかおかしいよねぇ。近江さんのこと、体育の時にじーっと見てるの。たぶん好きなんだろうけど、気持ち悪くない?」

 和紗がまるで自分が不快な思いをしたかのように眉をひそめて、明菜と桃子がうぎゃーマジー気持ち悪―いとゴキブリでも見つけたみたいな声を上げた。鞠子だけはその話題にあまり興味がないのか、ふぅーんと相槌を打つのみ。

ふと視線がかち合って、この前のことがあるからか鞠子は露骨に嫌そうな顔をする。明菜たち三人はわたしと鞠子の間で起こってる小さな諍い(て、言っていいんだろうか。わたしが一方的に鞠子に目の敵にされているだけなんだけど)に気付きもせず、そういえばあの時河野がどうしたこうしただのと、思い出してあげつらってはキモーイとはしゃいでいる。

 当たり前だけど河野がいなくなったからってわたしの日常に特に変化はない。前と変わらず学校に通い、明菜たちにくっついて行動して、エリサへのいじめは続き、家に帰ると買って食べて吐く。その繰り返し。

 でも使い慣れたシャープペンをなくしてしまったような、ペンケースを開く度に少しだけ違和感を覚えるような。そういう、ごく小さな、でもはっきりとした喪失感があった。
「そういえばさぁ。高橋さんって、河野潤平と仲良かったの? もしかして付き合ってた?」

 桃子がそう言って、このタイミングでまさか自分に話題が回ってくるとは思わないからちょっと驚いた。桃子はわたしの目を直視せず、つっかえつっかえ続ける。

「あ、いや、そうだよね、まさか違うよねぇ……いくらなんでも。あんな人なんかとさぁ。実はさ、前から噂、あったんだよね。高橋さんと河野潤平が仲良いらしいって。うちらもそんな、信じてないんだけど……」

 仮にも仲良しグループの一員であるわたしに一応気を遣っているのか、言葉を選んでいるようだ。そのくせその目にはらんらんと好奇心が輝いていて、わたしが河野と付き合っていたという衝撃的告白を期待しているように見える。

 そりゃたしかに、わたしは河野の不在にショックを受けている。希重というたった一人の友だちを失って以来の感情だった。誰かがいない、ただそれだけでわっと泣き出したくなるような気持ち。でも希重の時とは少し違う。

 一人の男の子として河野を意識してたわけじゃない。河野がいなくなったことそのもの、河野に会えないという現実を悲しんでるんじゃなくて、最後にあいつに会ったときのあの純粋な瞳が無邪気な笑顔が、わたしに喜ばれて嬉しいのだという心からの言葉が、そういうものがいつまでもわたしの一番深いところに居座って、ふとした何かのはずみで意識の表面に浮き上がって、消えないんだ。

「仲は良かったよ、付き合ってはいないけど。うちの親と河野の親が仲良くて、河野の親がうちの親に頼んだんだよね。うちの子と仲良くしてやって、て」

「あー、じゃあつまり、好きで仲良くしてたわけじゃないんだ?」

 一瞬頷くことをためらったけど、すぐに首を縦に振る。あーなるほどじゃあしょうがないよねーと桃子は納得した顔。これじゃあいじめられっ子と仲が良いんだと思われたくなくてわたしと接点のない振りをする希重と同じだ。体の奥の河野の記憶があるあたりが、チクリと疼く。