「こんなことしなくたってあんたはちゃんと人の役に立ってる。あんたのお父さんとかお母さんとかは? あんたが生まれてきたってだけで、あんたが生きているってだけで、きっと喜んでるよ。あんたはちゃんと役に立ってるんだよ」

 途中から自分の言ってることの嘘くささに気づいていた。子どもはただ生まれてきたそれだけで無条件に親を幸せにする……? わたし自身が自分の言葉を信じられないくせに何偉そうなこと言ってるんだろう。わたしの前でちっとも笑ってくれない、怒りとか苛立ちとかの感情をぶつけるばかりのお母さんの姿が瞼の裏にチラチラする。
 河野が首を左右に振る。ブリッジしたまんまなのでごくかすかな動きだった。

「たしかにお父さんもお母さんも、文乃さんの言うとおり、僕が生まれたことを喜んでいるとは、思います。でもそれより、嫌なことや辛いことのほうが、ずっと多いんです。僕は馬鹿だから、わかってないとみんな思ってるけれど、ちゃんとわかります」

 中学二年生なりに知的障がいを持った子どもを育てる親の大変さを想像しようとする。電車やバスの中とか公共の場で奇声を上げられて冷ややかな視線を浴びることもあるだろう。周りの人の理解を得られないこともあるだろう。学校に通わせるのだって何が起こるかと気が気じゃないだろう。

 そういうことをまったく考えずに薄っぺらいきれいごとを言ってしまったのだと気づいて、恥ずかしくなった。うーもう無理、と河野がついに力つきて床に大の字に伸びてしまったけれどそれ以上いじめる気になれない。

 二人の間でしばらく無言の時間が過ぎた。冬の風が板が張られた窓を叩く音がしていた。希重の水着に白い体を押し込めた河野は苦しそうに喘ぎながら天井を見ている。

 毎日のようにここで一緒に過ごしていたけれど、わたしはこの時初めてブチブチ殺して遊ぶ虫の代用品としてでなく、一個の人格を持った人間としての河野を意識していた。

「悲しいなぁ」

 河野がぽつんと言った。言葉とは反対の妙に晴れやかな顔をしていた。

「何がよ?」

「もうすぐ、文乃さんと会えなくなるのが」

「……どういうこと」

「僕、もうすぐ転校するんです。いじめがひどいので」

 一瞬、窓を叩く風が止んだ。ほんとはそうじゃなくて聴覚とか視覚とか触覚とか、すべての感覚が一瞬だけフリーズしたんだけど。いきなり突きつけられた河野との離別になぜか心臓を握りつぶされたようなショックを覚えていた。

「なんでわたしがあんたをいじめてることがバレてるのよ」

「文乃さんじゃないですよ。他の、人のこと」