「気になる!」

「うっせ」


顔を覗き込もうとしつこくしていたら、デコピンが飛んできた。

地味に痛い額をさすりながら、また景色に視線を移す。


柊は今、どんな顔をしているんだろう。何を考えているんだろう。こんなに近くにいるのに、問えば答えが返ってくることは分かっているのに。何故だか、それが出来なかった。


鼻の奥がツンとしたから、ごまかすように息を吐く。

そうして、ゆっくりと吸った。


「……あ、」


「なに」


思わず声を漏らしたあたしを、不思議そうに柊は見る。


「秋」

「え?」


「……秋の匂いがする」


もう一度、すうっと息を吸い込む。

軽トラの排気ガスの匂いに混じって、微かに秋の匂いがした。


「秋の匂い?」

「うん」


怪訝そうに首を傾げながら、柊も息を吸う。

その様子をじっと見つめて、どう?と聞いてみると。


「……分かんないんだけど」

「えー、そう?」

「うん」

「んー……、まあ、柊には分からんかもね」

「どういう意味?」


「だって、あたしはこの町のスペシャリストやもん」



胸を張ってそう言うと、柊は顔をしかめた。







「スペシャリスト?」

「この町のことなら、何でも知っとるからな!」


山道を抜けたらしく、一気に視界が開ける。遮っていた葉がなくなったことで直接日差しが当たる。

こめかみに、じっとりと汗を掻いていた。

一応、日焼け止めは塗ってあるけど、あたしの肌はもう小麦色になっているから、あまり意味はなさそうだ。来年の夏は美白を極めようかな。

こんがりと焼けた脚を見て、そんなことを思っていたら。


「……あれは」

「ん?」


何かを言いかけた柊。

言葉の続きを促すように聞き返せば、柊は真っ直ぐ前を向いたまま、再度口を開いた。



「あれは達郎の家の山で、あっちが由香の家の山で、その隣が俊彦の家の山」


「……え」

「ツツジの蜜は甘くて、五月の終わりのヤマモモは渋い」

「……」

「家から学校まで、全速力で自転車を漕いでも三十分はかかるし、」



驚いて、息を呑んだ。

喉の奥が引っ付いて、ひゅうっと掠れた音がする。

柊はそんなあたしを見て、くすっと笑って。


「靴は白を基調としたものじゃないと駄目で、各学年ひとクラスずつだから教室は全部一階にある」

「……」

「非常階段から見る朝日は綺麗だし、ベガもデネブもアルタイルも東京で見るより大きい」

「……うん」


町は、どんどん遠ざかる。

嬉しさと、苦しさと、よく分からない気持ちが心を包んでいく。







「スイカは川で冷やさないと駄目で」

「うん」

「雑草は根から抜かないと駄目で」

「うん」

「夏祭りの一番最後には、大きな花火が上がる」

「……、うんっ」


頷いた。

大きく、大きく、頷いた。



「俺だって、この町のこと、知ってる」


きゅっ、と。

あまりにも自然に握られた右手。


ぎゅうっ、と。

力を込めて握り返すと、柊が笑った。



「トーキョーにはないもの、この町にはいっぱいあるやろ?」



だからあたしも、負けじと笑顔で言ってやった。


そしたら柊は、また手を強く握って笑った。


「うん」


だからあたしも、また手を握り返す。




「この町はねー、秋は紅葉が綺麗やし」

「うん、それは聞いたことある」


笑う。


「冬はたくさん雪降るし」

「寒いのは嫌なんだけど」


笑う。


「春は桜が綺麗やし!」

「俺、花粉症なんだけど」

「あーそれは可哀相に……」

「哀れむな」


――笑え。







柊の瞳にあたしが映る。


「で、……夏は?」


あたしの瞳に柊が映る。


がたごと、がたごと。

軽トラの荷台は揺れ続ける。

エンジンの音がうるさいし、排気ガスの匂いもする。


ふと柊から視線を外せば、視界に広がるのは深い緑で覆われた山々。その奥には藍色に見える山脈が連なっている。

町を覆い尽くしているのは、畑と田んぼ。ぽつりぽつりと家が建っているけど、どれもこれも古い日本家屋ばかり。


いつもと変わらないはずの空は、苦しいほどに青かった。



「……夏は、」



手を、握る。







「夏は、柊がいた」




そう言うと、柊は笑う。

柊が笑うから、あたしも笑った。




笑わないと、泣いてしまいそうだった。










離さなきゃいけないと分かっているけど、繋いだ手を離したくなくて。


そんなことは不可能だと知っているけど、夏が終わらないことを願った。



まだ、隣にいたかった。


ずっと、隣にいて欲しかった。






それでも、町はどんどん遠ざかる。



夏の終わりを告げるかのように、トンボが飛んでいた。
















「――みどちゃん」


パパさんの声に顔を上げる。

駅にはすでに電車が停まっていて、発車する時間まで待機しているようだ。トシちゃんは怠そうに柱にもたれて、煙草をふかしている。


「みどちゃん、柊と仲良くしてくれて、ありがとう」

「……え」


思いもよらなかった言葉に、驚いて目を見開く。


「みどちゃんたちが友達になってくれて、父親としてはすごく安心してたんだよ」


柊は捻くれてるからねー、と付け足したパパさん。それに思わず笑うと、柊はむっとしたように眉間に皺を寄せる。


「捻くれてないから」

「えー、そうかなー」


へらりと笑うパパさんは、優しい父親の顔をしていた。


「みどちゃんも思うよねー? 柊は捻くれてるって」

「はい!」

「違うから。捻くれてないから」


ムキになる柊をパパさんと一緒に笑っていたら、あたしだけデコピンされた。理不尽だと思う、うん。

額をさすりながら、頬を膨らませれば、今度は柊がパパさんと一緒になって笑うものだから、さらに頬を膨らませた。


それからしばらく、三人で他愛ない話をして、発車するまでの時間を潰す。駅のホームにはあたしたち以外に人影はない。

時折吹く風が、伸びっぱなしの雑草を揺らした。





「……あ」

「なに?」


突然、思い出したように呟いた柊。


「なにー、柊。忘れ物ー?」


のんびりと聞いたパパさんに、柊は首を横に振って否定する。

じゃあ何だ、と続きを待っていたら。



「あー……、やっぱり別にいい」


「はい?」



なんか、煮え切らない返事。

今、絶対に何か言いかけたのに。



「柊、……」


不思議に思って、声をかけようとしたとき。


ピーッ、と聞こえた笛の音。




《――……行き、発車します……――》



途切れ途切れのアナウンス。その音は小さく、あまり聞こえなかったけど、もう発車してしまうらしい。

ふと人の気配を感じて横を見ると、煙草をくわえたままのトシちゃんが、あたしの隣に立っていた。


「ほんなら、気を付けて」

「俊彦、ありがとねー」


パパさんとトシちゃんの会話を聞きながら、あたしは柊を見る。

すると、柊もあたしを見ていて、ばっちり目が合った。






「……」

「……」


何かを言いたげな柊と、何かを言いたいあたし。


早く。

早く言わないと。


もう、発車してしまうから。


焦れば焦るほど、何を言ったらいいのか分からなくなって。しっくりくる言葉が見つからなくて。



「みどり」


結局、先に口を開いたのは柊だった。

首を傾げて続きを促せば。


「……将来の」

「え?」

「将来の夢の話、覚えてる?」


いきなりそう言われて、思い出したのは記憶の隅にあったもの。



『柊は、将来の夢ってあるん?』



確か、三者懇談会の前だったかな。

あの時、将来の夢があるかと聞いたあたしに、柊は決まっていないと答えていたような気がする。


「それが、なに?」


聞き返すと、柊は一瞬躊躇うように視線を逸らして、またあたしを見た。


「あの時から、ちょっと考えてたんだけど」

「何を?」

「……将来の夢とは、ちょっと違うかもしれないけど」

「うん?」


風が吹く。

太陽の光を受けて栗色に見える柊の髪が、小さく揺れた。







「どんな職業に就いたら、この町に戻って来れると思う?」




また、風が吹いた。

少しだけ秋の匂いがする、生温い夏の風。


太陽を遮る雲はない。

影は濃く、くっきりと地面に写っている。


込み上げてくるそれを、止めることは出来なかった。


「柊、そろそろ乗ろうか」


パパさんに促され、柊は荷物を持って電車に乗り込む。

その瞳は、あたしを見たままで。




「……酒屋とかっ、農家とかっ!」


咄嗟に思い付いたものを言う。



すると柊は口元に弧を描いて、くすくすと笑って。



「なるほど」


いつもの口調でそう言った。