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この部屋に名前をつけよう、と言い出したのは私だった。
リクは意表を突かれたように目を丸くした。
その顔があまりに可愛かったので、私は抱きついてリクの頬にキスをした。
部屋に名前って、やっぱりウミは変なことばかり言うなあ、とリクは小さく笑って、私の頭を撫でた。
でも、お気に入りのものには何でも名前をつけるというのが私の信条なのだ。
中一の頃から使い続けているとても書きやすいボールペンは『ルナ』だし、
十歳の時に縫った巾着袋は『ヨシ子』だし、
駅前の大通りに植えられた街路樹たちは『黒木家の一族』だし、
近くの公園の古びたブランコは『ハレルヤ』と呼んでいる。
だから、やっとのことで手にいれたこの部屋にも、名前をつけなくてはならないのだ。
名付けて自分のものにしないと、大事なものも大切なものも、いつの間にか指の間をすり抜けて、どこかに行ってしまうような気がする。
ねえリク、名前をつけて。
私たちのこの部屋に。
両手を合わせてお願いすると、リクは微笑んで、分かった考えておくよ、と言った。
私は唇をとがらせてみせる。
リクはマイペースなんだから、そんな悠長なことを言ってると、いつまで経っても考えてくれないでしょ。
今すぐ名前をつけて。
一刻も早く、本当の意味でこの部屋を私たちの部屋にしなくちゃ。
私の焦りをよそにリクは、ウミはせっかちだなあ、と呑気に笑って、でもすぐに考える顔つきになった。
私たちの部屋は、天井も壁も床も、ドアもそなえつけの家具も、何もかも真っ白。
だからこの部屋を、まるで天国にいるみたい、と一目で気に入ったのだ。
その部屋の真ん中に置かれた大きなベッドの上に、私たちは今、二人ならんで寝転がっている。
ベッドもシーツも羽根毛布も、もちろん真っ白だ。
リクはうつ伏せになって頬杖をつき、斜め上をぼんやり眺めていたけど、しばらくして、エデンっていうのはどうだろう、と呟いた。
エデン。
胸がわくわくするような響きだ。
さすが、私のリク。
エデンってどういう意味なの? と私は訊ねる。
聞いたことはあったけれど、はっきりとは意味を知らなかった。
ヘブライ語で「歓喜」って意味だよ、とリクが微笑む。
ヘブライ語?
さすが、私のリクは、とても物知りだ。
それにしても、歓喜。
それが部屋の名前?
なんてすばらしいんだろう。
エデンって響きが素敵だね、と呟くと、リクが微笑んで小さく頷いた。
ウミは『エデンの園』って聞いたことがある? とリクが言う。
私は、なんとなくね、と答えた。
エデンっていうのはね、旧約聖書の創世記に記された楽園の名前なんだよ。
最初の人類、アダムとイヴのために、神様が作った楽園が、『エデンの園』なんだ。
私は目を見開いてリクをじっと見つめる。
つまり、二人のためだけの楽園なのね?
そうだよ。良い名前だろう。
うん、とっても。
私は瞼を閉じて、両手で頬杖をついて、うっとりと夢想する。
愛し合う二人。
彼らのためだけに神様によって作られた楽園。
邪魔をするものも、口を出してくる人も、何もない。
たった二人のためだけの世界。
それが、エデン。
素敵。
この部屋のために生まれた言葉みたい。
ねえ、リク。
楽園って、どこにあるのかな。
ずっとずっと遠い、海の向こうかな。
そうかもしれない。
もしかしたら、虹の生まれる場所かもしれない。
虹! 美しい空想だ。
それか、真っ白な小鳥の羽根の中にあるかも。
生まれたばかりの赤ん坊の夢の中かもしれない。
青い薔薇の花芯の奥に隠れていたりして。
その花びらについた夜露にひっそりと隠れているのかもしれない。
リクの言葉はすべて、夢のように美しく、月の光のようにきらきら輝いていた。
リクと一緒にいると、世界のすべてが美しく輝かしく大切に思えてくる。
私の世界を変えてくれたリク。
大好きなリクと、これからずっと一緒にいられるなんて、私はなんて幸せなんだろう。
この幸せがいつまでも続きますように。
いや、続くに決まっている。
だって、名前をつけたんだから。
二人のためのこの部屋に、エデンと名づけたんだから。
だからここは永遠に私たちのもの。
永遠に私たちの楽園。
私とリクは、永遠に一緒にいられるのだ。
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この部屋にエデンという名前をつけてから、私は毎日、楽園について思いを巡らせるようになった。
アダムとイヴがいた楽園は、どんなところだったのだろう。
私とリクの楽園は、この綺麗な真っ白の部屋。
じゃあ、最初の人類の楽園は?
ねえリク。
楽園ってどんなところだと思う?
訊ねると、リクがくすりと笑った。
まだそんなことを考えていたのか、ウミは。
夢見がちだな。
いいでしょ、夢は見るためにあるんだから。
あいかわらず屁理屈ばっかりだな。
物心ついたばっかりの頃から、ウミは何も変わってない。
理屈屋の文句たれ。
そりゃそうだよ、だって私は私だもん。
リクだって全然変わってないよ。
昔から私のことからかってばっかり。
………そして昔から私には格別に優しい、という一言は、胸の奥にしまっておく。
口に出すのはもったいないから、私の中にずっと隠して、大切に大切にあたためておくのだ。
ねえ、それより、楽園について考えようよ。
リクはどんなところだと思う?
エデンの園って。
エデンには、生命の樹が生えているそうだよ。
生命の樹?
どんな樹かな。
分からないけど、きっと、黒い樹だよ。
つやつやと光沢のある、新月の夜の闇みたいに深い漆黒の樹皮をしているんだ。
素敵ね。
きっとその真っ黒な樹の中に、輝く生命がぎっしり詰まっていて、春になると真珠みたいに艶めく白い葉っぱが芽生えるんだ。
綺麗だね。
うん、綺麗。
エデンには他にもたくさんの樹があるんだよ。
どんな樹?
食べられる果実がたっぷり実をつける、豊かな果樹だ。
それって素敵。
だって、食べるものに困らないもん。
ああ、だから永遠にいられる楽園なんだよ。
そうか、だからエデンは永遠の楽園なんだ。
………この部屋も永遠にいられるかな。
いられるよ、僕たちがいようと思うなら。
そうだね、うん、そうだ。
頷きながら、私は頭の片隅で少しだけ不安になる。
本物のエデンの園と違って、このエデンには果樹がない。
リクの旅行鞄にぎゅうぎゅうに詰めこんできた食べ物は、もうそろそろ底をついてしまう。
いや、いい、そんなことはどうでも。
食べ物なんか無くたって、リクと一緒に、リクと二人きりで過ごせるのなら、私はちっとも困らない。
余計なことを考えて、二人きりの幸せな暮らしに影を落とすなんて、もったいない。
私は頭をよぎった考えを追い払って、リクに向き直った。
生命の樹と、果実の樹と。
他にはどんな樹があるの?
リクが微笑んで頷く。
エデンの中央には、生命の樹と、あとは知恵の樹が植えられているんだって。
知恵の樹。
私は途端に不機嫌になった。
なあに、それ。つまらない。
知恵だなんて。
そんなもの、人間には必要ない。
唇を尖らせて言うと、リクが頷いた。
そうだよ、知恵なんて要らない。
正しさを知る必要なんてない。
自分の望むことさえ分かっていれば、人は生きていけるんだ。
さすがリク。
そうだ。正しさなんて、幻想だ。
正しいことが偉いだなんて、誰が決めたの?
私とリクの恋は、確かに正しくはないのかもしれない。
間違っているのかもしれない。
でも、リクを好きになったのが間違いだったなんて、私にはどうしても思えない。
間違っていても、間違いなんかじゃない。
間違った恋でも、間違いなんかじゃない。
正しくなんかなくたっていいの、と呟くと、リクが頷いて私を両腕の中に包み込んだ。
はじめは壊れものに触れるように優しく、それから次第に力強く、熱く抱きすくめる愛しい腕。
私はうっとりと目を閉じた。
だって、ほら、二人でいると、こんなにも満ち足りて幸福なの。
こんなに幸せなのに、泣きたいくらい温かいのに、私たちが愛し合うことが、どうして正しくないだなんて言えるの?
そんなことは誰にも言わせない。
深い口づけを交わしながら、とろとろにとろけて二人で一つになるまで、いつまでも互いを求め合い、貪り合った。
ああ、幸せ。
こんな幸せが他にある?
誰よりも愛している人に、誰よりも愛される。
誰にも邪魔されず、永遠を願い、誓い、信じられる。
ここは、エデン。
知恵の樹なんか生えていないエデン。
燃えるような生命の樹と、甘い甘い果実の樹だけが生える、私たちのエデン。
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あれから何日経っただろう。
おなかがすいた、と小さく呟くと、リクが仕方ないなあ、といつものように少し困った笑みを浮かべた。
これで最後だよ、とリクが手のひらにのせたものを私の顔の前に差し出す。
目が覚めるほどに鮮やかな真紅の林檎。
視界に入ったとたん、私は反射的に目を閉じ、無意識に口を開いていた。
乾いた唇に触れる、つややかな冷たさ。
歯を立てると、甘い甘い果汁が口の中に一気に広がり、渇いた喉をじわりと潤した。
おいしい、と言うと、もっと食べな、とリクが笑う。
もう一口食べてしまうと、最後の食べ物である林檎は残り半分ほどになっていた。
あとはリクの分、と私は身を引く。
リクは小さく首を横に振り、ウミに食べてほしいんだ、と言った。
嬉しくて悲しくて切なくて、私はぶんぶんと首を振る。
じゃあ、一緒に食べよう。
ひとつの林檎に、私とリクは両側から歯を立てる。
しゃく、しゃく、と軽やかな音が重なる。
いつの間にか林檎は芯を残して消え、私とリクは互いの唇を噛み合っていた。
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すこし出かけてくるよ、とリクが言ったとき、私は泣きそうになった。
どうしてそんなこと言うの。
ここは私たちのエデンなのに、どうして出ていくの。
泣いて追いすがる私をあやすように、リクは私の頭を撫で、おでこにキスをくれた。
近くの店で食べ物を手に入れてくるだけだよ、心配しないで、すぐに戻るから。
リクはとても穏やかで優しいけれど、マイペースで頑固だから、一度言い出したことは曲げない。
それが分かっていたから、しばらくごねた後、私は仕方なくリクを送り出した。
待っている間、唇に残った林檎の香りとリクの感触を何度も確かめながら、ベッドに横たわってひたすら天井を見つめていた。
久しぶりのリクの不在は、私の存在を根幹から揺るがすほど、私を不安にさせた。
早く帰ってきて、リク。
寂しくて悲しくて怖くて仕方がないよ。
泣きながら待っていると、玄関のほうから物音がした。
私は勢いよくベッドから飛び降り、玄関まで駆けてドアを開けた。
次の瞬間、私は絶望した。
「海! ああ、こんなところにいたの」
ぽろりと涙の粒を落とし、感極まった声で抱きついてきたのは、お母さんだった。
「探したのよ。もう、本当に、気が狂いそうなほど心配で………よかったわ、見つかって」
てっきりひどく責められ、詰られると思っていたから、お母さんの反応は、私にとってはかなり意外なものだった。
意表を突かれて黙りこんでいると、お母さんは私から身を離し、私たちの部屋の奥へと視線を走らせた。
「………陸は?」
低い声でお母さんが訊ねる。
私は聞こえないふりをした。
お母さんはちらりと私を見てから、黙って私を押しのけ、部屋に上がり込んだ。
私は慌てて引き止めようとしたけど、間に合わない。
「陸、いるんでしょう」
私は「いない」と答える。
「いないよ、お兄ちゃんはいない。ここは私の一人暮らし」
お母さんの腕をつかみ、必死にそう言う。
でも、お母さんは眉を寄せただけだった。
「海、嘘はやめて。この本」
お母さんがベッドの脇に置いてあった分厚い文庫本を指差す。
「この本は、陸の………お兄ちゃんのでしょう」
ちがう、わたしの、と答えたけど、私が本など読まないことを知っているお母さんは、首を横に振った。
「………どうして」
お母さんがしぼりだすように声をもらす。
その悲しそうな視線は、ついさっきまで私とリクが愛し合っていたベッドのシーツに注がれている。
「どうして、こんなことになっちゃったの………」
お母さんは泣いた。
私は立ちすくみ、黙ってお母さんを眺めていた。